10 舳の怪
「えっと...あの...だから...。」
「だから何だよ!その次を早く言え!」
甲板員は焦れて怒鳴った。
その声は調理場まで聞こえていた。カラットはその調子からドラギエルでは無いかと思ったのだが、アキリが早くに動いた為に野次馬で仕事を放るわけにもいかず、ナバルと気まずい沈黙の中にいた。
そう思っているのはカラットだけで、ナバルは上の騒動を気にしていた。飛んで行って見たいのはカラットと同じ気持ちである。
オーネットとエッカーナ、ついでにヘイスも甲板に上がると、一所懸命に何かを訴えている大男と苛ついている甲板員がいた。
「だから...!あ、船長!」
甲板員はオーネットを見て姿勢を正し、横に退いた。
「どうした君。うん?知らない顔だな。名前を聞こう。...大丈夫か?」
ドラギエルは緊張のあまり船酔いが悪化して今にも吐きそうだった。甲板員には怒鳴られるし、船長は女性のオーネットのはずだが船長の赤い上着を着ている知らない男に色々と訊かれるしで、混乱してしまう。
しかし視線を泳がせた先にヘイスを見つけ、すこしだけ緊張が和らいだ。
「何かあったのか?ドラギエル。」
ヘイスはいつもとまったく同じ調子で言った。
ドラギエルは必死に頷く。
「問題のある場所にわたくし達を案内しろ、ドラギエル。」
彼女は鞭を手にしてはいなかったが、ドラギエルには鞭のしなる音が聞こえたように思えた。
「はい!船長!」
ドラギエルは即座に返答し、船首に向かって歩き出す。
(...なるほど。)
オーネットは、要領を得ないこの大男の使い方を理解した。命令は簡潔明瞭かつ一度に一つ、考えずとも出来る事。エッカーナの性格と大変相性が良いのだった。
ドラギエルが船の揺れにたどたどしく歩を進めるうちに、オーネットたちの目にも彼が報告しようとしたものが見えてきた。
波を越え上下に動く船首の先に、柔らかく光るものがあった。太陽は頭上にあり、海に反射する煌めきとも違うものだった。そしてそれが精霊にしては大きく形が歪である。
「何だ…?」
光は人の姿をしていた。透き通って向こう側の空と海、近付いてきたルワリ島が体の中に見えている。その人は小さな女の子の姿をしていた。五歳かそこらの幼い姿である。その揺らめく水のような体に太陽光を反射させながら、ゆっくりとこちらを振り返った。その透明な中に目が有り口が有る。
そしてキラキラと飛沫のような光を遺し、消えた。
「人の姿であれば、精霊王セレニアではないですか?」
ヘイスが言うと、
「しかし、伝えられる姿と随分違ったな。あれこそ海の大精霊ファムレでは無いだろうか...。」
エッカーナは言った。
「あのように無害なものであれば有り難いが...。」
と、オーネット。
ドラギエルは何も言わなかったが、彼の故郷に居るコカトに似た気配だった、と思っていた。
「そう言えば何故お前がここに居る?」
「あ...はい、船長 、えっと...それは...。」
ヘイスはドラギエルの態度にため息をつきつつ、「俺が船首の便所掃除をこいつにやらせたからです。」と申し出た。
ドラギエルがヘイスを庇って何も言えないだろう事をわかってやらせたのだが、彼の態度を見ているとつい憐れに思ってしまい正直に白状してしまう。
「ドラギエルは今休憩中です。俺は...こういう作業とかって、飽きるんで。」
エッカーナは開いた口がふさがらなかった。このやる気のない顔の男を先ほど尊敬した自分が信じられないくらいだった。
「お前なあ...ドラギエルの受け持つ仕事はこの船の動力なんだぞ。休憩待機も重要な職務の一つだ。」
「すみません。こいつはもう使わないようにします。」
「'こいつは'じゃない。お前の仕事はお前がやらなければならないんだ。」
「まったく、何だあの男は!」
エッカーナは怒りながらオーネットの後について行った。
「あれは性格だと思いますよ。反体制派は当初勤労を拒否した者たちの集まりだったのですから。」
オーネットはヘイスを興味深く思っていた。
エッカーナは口を尖らせる。
「怠け者の集まりがどうして、せっせとオルミスを襲うんだ。」
「ええ、本当にどうしてでしょうね。でも彼が本当の怠け者だったおかげで、貴女は無事だったという事です。」
【セアラ・エッカーナ号】は一刻ほど経って、二番目島の船着場に到着した。
アンデロス・ルペッサン、トムス・ルペッサン。この兄弟はサキタリ商会のオーネットの右腕で、それぞれ【右腕号】、【左腕号】という港にあったのと同じ程度の二隻でもって【セアラ・エッカーナ号】の後を追う。
もう一人のライルズ・チルキアは船医として【セアラ・エッカーナ号】に乗り込んだ。
船団全ての乗組員を揃え九十七人。
オーネットとエッカーナは船長室にいた。
大きな机の上に、羅針盤と角から三分の一程度しか書かれていない海図が広げられている。白い部分には幾つかのばつ印が描かれていた。
「過去に事故が起きた地点です。ルワリ島に帰り着いた生存者などの僅かな記録から予測した海図で、特に二十八年前の【エスト・レニス号】。ルワリ島を出て二日後に南東の沖合で沈没。海流が渦を巻き、天候の荒れる海域。南には十六時で岩礁。」
「成る程。」
「そしてこれが彼らがルワリ島で調査した結果をもとにした新たな海図です。」
オーネットは上にもう一枚、同じ海図を広げる。そちらには半分にやや満たないくらいに書き込みが増えていた。
「【右腕号】、【左腕号】が進めるのはせいぜい二日間。漕ぐために三十人程度の人手を必要とし、荷が多く積めません。二日を使ってもこの先に島も大陸も見えない。この船が母艦となり、あの二隻で少しずつ航路を見出しながら、必要とあればルワリ島に物資の補給に戻りつつ進んでいきます。」
「なんだ。見果てぬ地へ大冒険、というわけでも無いんだな。」
エッカーナはがっかりしたように言った。
「我々は、オルミスの別拠点を造る為の先行隊ですからね。
セレニアの加護もなく、海の精霊王に脅え、船に積み込んだ物資だけが頼り。例え成功して新たな陸地に辿り着いたとしてもそこには人もいないし、動物もいない。アルソリオの伝承が真実であればオルミス以外には何も無いのですから。」
「精霊の力を借りたし、されど借りたくもなし。だな。」
エッカーナは海図の中に飛び込んでしまうのでは無いかと思うほど真剣に、しばらくそれを眺めていた。
「先程の精霊、わたくしについていた精霊では無いだろうか?」
ふとオーネットに聞いた。
「あのような姿をしていましたか?」
「いや...。光の球だった。だがいないんだ、船に乗ってから、どこにも。」




