2 口下手と饒舌
今までどんな失敗をしてきても、村の子どもたちにひどく笑われることでも、もう二度と家の扉を開けたくないような赤っ恥の時も、家を追い出されたことはなかった。兄弟姉妹は軽々しくしょっちゅう口にする事だが、父母がそう言った事はなかった。
ドラギエルは泣きながら歩いていた。十六にもなって、大人にも負けない体つきをして、日が暮れて狼の遠吠えがうすら聴こえる森の中を半歩半歩重たく引きずりながら歩いていた。
家族が生業で狩る熊が、仕返しにドラギエルを襲うかもしれない。そう思うと、森の木々の間には常にドラギエルを付け狙う熊の吐息が聞こえてくる気がした。
(夜に森に放り出すなんて親とは思えない。)
たった一人自分の味方であると信じていた母も、ドラギエルが家から追い出されるのを止めようとしなかった。今まで優しかったのは全て嘘で、酷い裏切りを受けたとドラギエルは思った。
(熊が俺じゃなくて、みんなを襲えばいいんだ。)
と、心の中で悪態をついた
木の高さがそれほど無いので、月明かりで道がよく見える。
(これからどうしたらいいんだろう。)
と、どこにも続かない道に、立ち止まる。
気付けば腹も減っている。夕食さえ食べられなかった。今頃みんなで「あの無能がいなくなって本当に良かった」とテーブルを囲んでいるのを想像して、ドラギエルはとても悲しくなった。
もう村の家の一つも見えないところまで来た。
(生まれてきた意味があるのかな...。)
ドラギエルはこの時も手ぶらだった。何にも出来ないので、何にも好きじゃ無い。家のドラギエルの部屋には別段、何も置いていなかった。なので持って出る物も無かった。
ただでさえ昼に城下町まで往復して疲れているのに、空腹で森の中を彷徨わされている。大きいだけで逞ましくもない身体は、もうヘトヘトで限界だった。
ドラギエルは太い枝のある木に「うんせ」と登り、幹に背を預けて夜を過ごす事にした。
そこらにあった木の実を何だか知らないが二つ三つ食べ、余計に大きくなった腹の音を聞きながら何とか眠りについた。
(どこか、行き先を決めないと。)
朝を迎える前の夜明け近く、ドラギエルは目を覚ました。胃に強烈な痛みがあり、喉は痺れている。うつ伏せに枝にしがみつき、出来ることはただ胃にあるものを全て吐ききることだけだった。涙なのか鼻水なのか汗なのか、顔はぐしゃぐしゃに汚れ、身体は小刻みに震えた。
目を閉じる前にドラギエルが口に入れた小さな黄色い木の実が、トガの実というコカトの森に多く成っている毒である。コカトに生まれ育てば散々注意を受けて知らない者はおらず、もちろんドラギエルも知っていたのだが、それでもわからないのがこのドラギエルなのだった。
(寒い...。)
ドラギエルはこのまま死んでしまうのだと思った。死んで、木から落っこちて、狐の毛の上着を本物と勘違いした小熊にでも貪り食われるのだ。それが成長して兄弟姉妹たちに挙って狩られ肉を食われ爪と毛皮をオルミスで売られるのだと、そう思った。
『トガの実は熊にとっても毒だから、ドラギエルが死んでも食べないぞ。兄さんたちが熊殺しに塗って使ってるだろ。』
と、誰かが呆れてものを言った。
霞む目に、目の前に、ぼんやりと月のような光の球が浮かんでいた。
(精霊...?)
朝日の暖かい光を浴びて、枝に突っ伏していたドラギエルは目を覚ました。身体は明け方の苦しみが夢だったのかと思う程に、すっかり治っている。空腹までもが癒されている。しかし夢ではない証拠がしっかりと残っており、そのおかげで身体はひどい臭いがした。
自分の臭いで気分が悪くなるのでドラギエルは上着を脱いだ。どこか洗える場所を探さなくてはならなかった。
そして、自分は森に生まれたのに森に生きることも出来ないと思い知ってとても悲しくなった。
(本当はわかってる。自分がどうしようもなく要領が悪いグズだって。ワリーデだって八歳のマルーセルだって出来ることが、いつまでたっても出来やしない。)
人と話す時に余計な緊張をしてしまうのが悪い癖だ。それで何でも話半分になってしまって、よく聞いていないから失敗する。頭が悪いから、失敗した時に機転を利かせて次の手段をとることもできない。
母は兄弟姉妹の中でドラギエルだけが物事を出来ない時に、「三歳の時に木から落っことしたせいかねえ。」とよく言った。きっとその時に頭を打って馬鹿になったのだろうと、ドラギエルもしょっちゅう考えた。
(もうこんな自分は嫌だ。こんな毎日は嫌だ。頭は悪くてもせめて活発に振る舞うことは出来ないだろうか。昨日の男のように...。)
コカトの森に人の居住はオルミスより古く、二百四十年前に栄えていたアルソリオという国から人と精霊がやってきて森を切り開いたと伝えられている。人が生きて行ける土地だとわかってからドラギエルの先祖たちが移住し、生まれた子がオルミスへ嫁に行ったり迎えたり、今は百七十人ほどの人口がある。
森はオルミスの北東に位置する谷に東西に広がり、東に抜けると灰色の剥き出しの岩山が、北には対岸へ渡れない大きな川の流れがあり、その上流になるのは西の白い山である。
白い山の麓より少し南に、アルソリオという国はあった。アルソリオは古語で『ひとまとめの』という意味を持つ。
その国は精霊王セレニアが治め、人々は皆その国の囲いの中で何不自由なく生活していたのだが、二百四十年前にその国は瓦解し、人々は今のようにバラバラに散ったと伝承されている。多くの人と動物と精霊が彼方此方へ出て行ったのだが、かつての約束された生活のままが良かったと言う人々もいた。
オルマという人がオルミスの初代国王になり『新しい人の国』が出来た後も彼らはアルソリオのあった地に残り、オルミスに反発し続けている。
ドラギエルは西南に森を抜け、荒野の丘を越えた先の小川で目的を成し遂げた。
橋の向こうへ渡れば轍の残る道と変わり、オルミスの城下町へ続いている。精霊が飛び交う畑や、牛や馬がのんびりと草を食む牧場の間の道を一時も歩けば東門だ。
この広大な畑や牧場がオルミスのすべての人の食料庫である。四十ばかりの農場主がいて、それぞれの区間を管理している。農場主はオルミスやコカトから人を雇っており、住み込みで働いたり通いで働いたりしている。
川で顔を洗いながら、ドラギエルは思った。
(そう、昨日会った男のように喋るのが上手くなりたい。初めて会う他人にも気安く話しかけられるようになりたい。)
そうすれば、兄弟姉妹たちに馬鹿にされることも無い、と思いかけたが、それを理想とするには何かが違うような気がした。
誰も知らないところへ行って、はじめから違う自分のように生きることは出来ないだろうか。
もはやドラギエルは家族に認められたいとは思っていなかった。もう一度一緒に住みたい気持ちが無かった。
自分を変えたい。
町は怖いけれど、たくさんの人がいてたくさんの仕事がある。そのどこかになら自分の居場所があるかもしれない。
もし成功したら、町では色々な物が手に入る。通貨が手に入る。通貨はどんな物にでも変わる魔法のような物だという。
それをたくさん手に入れて、一人で大きな家に住み、熊の毛皮を十枚も注文して兄弟姉妹を驚かせられたらどんなに胸のすく事だろうか。
ドラギエル様、熊十枚と書かれた納品書を想像して、ドラギエルは顔をニヤニヤさせた。
川に仕事にやって来た農場の者たちは、大きな身体をした上半身裸の男が一人で気持ちの悪い笑い方をしているので呆気に取られていた。
「あれはコカトの人かねえ。」
ほっかむりをした中年の女が不安そうに言うが、その夫は印象が違うようで一目置いて彼を見る。
「森の人は良いガタイだなあ。手伝いでもしてくれたら、百人力だろう。」
「そうかしらねえ。大きいだけじゃあ...野菜は繊細だしねえ。」
「力仕事はいくらでもあるんだ。旦那んとこの口ばっかりの坊ちゃんよりはマシだろう。」
「あんたもあんたでいっつもあの子の悪口ばっかり。...しっ噂をすればだよ。」
彼らの雇い主の家から街道に出る道を、一人の青年が歩いていく。いつも周りのことなど関係無い顔で無駄にニコニコしながら歩いているのだが、今日は様子が違っているように見えた。
「何だか元気が無ぇな。」
俯いて歩いているカラット・ロットには、父親の使用人の姿は見えていなかった。
カラットはこの農場を出ていかなければならなかった。彼は長男だというのに、ついさっき父親に勘当されて家を追い出されてきたのだった。
(さすがに今日のはまずったなぁ。親父、カンカンだったもんな。)
二日くらいは家に帰らない振りをした方が良いな、とカラットは計算していた。
本当は、今日の失敗が洒落にならないくらい不味いことだと自分でもわかっている。さすがに、城の料理人相手にあれをやってしまったのはいけなかった。
本当は、心の中はもっとオロオロと慌てふためいていて、情けなく泣いて懇願したいくらい弱っているのだが、そういう自分を認めることはカラットのプライドが許さない。
(その性格が今日の失敗を呼んだというのに。)
思考は堂々巡りだった。
(とりあえず、町にでも行って難を凌ごう。)
懐には、追い出される時に投げつけられた金がある。今までどんなに叱られてもこういう事は無かった。無一文で追い立てられ、時間を潰して夜になれば元通り。それがロット家の日常だったのだが、この渡された金の重みが本当に親子の縁を切られた事を伝えてくる。
「はぁ〜...あ?」
斯くして、カラットが農場から道に降りたところで、二人は出会った。カラットは橋の方からきたその大男に見覚えがあった。
「やあ、奇遇だなぁ。昨日と今日と、こんなところで会うなんて。これからまた町へ行くのかい?」
ドラギエルは、出くわした男がいきなり話しかけてきたので混乱した。通りで会った藁帽子の男のような気がするが、肝心の藁帽子が無いので確証が持てない。
それに男が言ったのは、昨日も今日もここで会ったような口振りだったのでますます混乱した。
「え...昨日は、ここで...?」
返事に困っていると、金髪の男は勝手に話し始めた。
「おいおい冷たいなあ、市場で会っただろ。あぁ、帽子被ってたからわかんないか。知ってるか?城下町では、約束せずに二度すれ違う事は難しい。」
「ああ、あの...。」
「昨日のあれはどうなったよ?大丈夫だったか?今日も物を売りに来たのかい、って割には荷物も持って無いから違うみたいだな。どうしたどうした暗い顔をして。失敗して家を追い出されでもしたか?こーんなに天気が良いのにそんな顔してちゃあ、良いことなんか起きやしないぜ!」
と、カラットはドラギエルの背中を叩いた。またやってしまった、と心中焦りながら、もう止まる事はできない。一度開くとこの口は思ってもいない事までベラベラ喋り、自分でも止められないのだ。
「何で知って...。」
ドラギエルは、この男と話をするのは何て楽なのだろうと感心していた。まるで精霊と話す時のように、ドラギエルが喋ろうとすることを全部喋って、こちらの反応を求めない。ドラギエルが言い淀んだとしても会話が続いていく。
「追い出されたこと...こんなところにまで?」
気持ちが楽になり、いつもよりまともに言葉が出た。
「何だって?本当に追い出されたのかい?...それは本当に奇遇だなぁ。」
カラットはそれこそ驚いた。
自分と同じように家を追い出される馬鹿が世の中に結構いるものなんだなあと感心していた。
そして、(何だ。勘当なんて大したこと無かったんだ。)と思い、調子に乗った。
「俺も今日、家を出たところなんだよ。仕事を探さなきゃと思っているんだ。」
「仕事...あの、俺も...。」
「おいおい、何から何まで同じ境遇だなんて、これは精霊のお導きかってぐらいだなぁ。やめてくれよ男同士で!ああ、冗談冗談。なあ、なら俺と一緒に行かないか?どうせなら港へ行こうぜ。知ってるか?港はこれから発展するところだし、いつも人手を探してる。俺はカラットだ。あんたは?」
「...ドラギエル。」
「そうかドラギエル。二人で港に屋敷を立てようぜ!」
ドラギエルはすっかり元気が出て、差し出された手を強く握り返した。
「痛ぇ!」
「あ、ごめ...。」
「ドラギエルはすぐに仕事が見つかりそうだな!」
「あんなところで何を騒いでいるのやら。」
と、使用人の夫婦は呆れて溜息をついた。




