24 精霊王セレニア
それは、あどけない顔つきをして幼くも見え、悠久の時に経た賢知を湛えてもいた。
それは、睫毛は長く鼻は高めで、白い肌に光を透過し内側から水面のように光っていた。
それは、漆黒の夜の天空の色をして、その中に星々を輝やかせていた。一本は流れる細い糸であり、一掬いは水の落ちるまとまりであり、全体は彼女の背に広がる宇宙だった。
それは、小さな弟を背中から抱きすくめる姉のようだった。
『ただいま。』
それは、頭の中に青銅の釣鐘のように深く響き渡り、胸の中に波のようにさざめいた。
しかし、まだ愛らしい子どもの声でもあった。
「精霊王...セレニア...。」
トゥヴァリは、燃えるような右手の疼きに耐えられないでいる。体は牙に動かされている。
人間には遠く及ばない美しさを持つ、その姿を見て、トゥヴァリは完全に畏怖し気圧されていた。なのに牙は、彼女に相対しようとトゥヴァリを引き摺る。
『それって。』
セレニアは、黒い焔の揺らめく瞳を細めた。
トゥヴァリがそれを振りかぶり自分に向かってくるのを、ただ見ているだけだった。
アンズィルの牙はスルリと手からすり抜け、軽い音を立てて地面に落ちた。
トゥヴァリはホッとした。体は力が抜けて、がくりと両膝をついた。
『その牙一本では、私に歯向かうことも出来ないよ。アンズィル。』
牙の中の呻きが消えていた。トゥヴァリの手の傷も、いつの間にか治っていた。
『眠るアンズィルと呼応するくらいの、怒りや悲しみがその牙を人に与えたのですね。何があったのかな?おいで、ルヨ。』
ルヨはその声を見上げ、精霊の球のような光をいくつも体に煌めかせ、消えた。
セレニアはその光を呑み込んで、『うん、』と軽くため息をついた。その一息すらも、トゥヴァリには尊い一言のように感じられた。
『わかりました。トゥヴァリさんの願いをすべて叶えましょう。』
慈愛の眼差しでトゥヴァリを見つめ、唐突に、セレニアは宣言する。
「あの...。」
『ルヨは、私が残していった私の一部です。精霊たちが暴走しないように置くついでに、ナサニエルさんたちの願いを叶えるようにしてあったんです。』
セレニアはトゥヴァリが口に出す前に、その疑問に答えた。
『今は私の中に戻りました。ルヨという、人格に近いものは、消失せず私の中に在りますが。だから、私にはこの状況がわかっています。』
「俺の願いを叶えてくれるんですか?」
『もちろん、勝者の権利ですから。』
セレニアは、階段の方へ歩み行き、両の腕を広げ、町を見降ろす。
『この国を作り変えます。』
下にいる者達からも、その姿が見えた。初めて見たもの達も誰もが、彼女が人の大精霊、アルソリオの精霊王、セレニアだということが疑いようも無くわかった。
アイピレイスはその場に跪き、自分が敬愛する確かなその姿に涙した。
『アイピレイスさん、自分を責めないでください。ルヨが私の身代わりを作ったのですから、それは人間には確かに私だと思ったはずですよ。』
涙ぐむアイピレイスは、母を捜していた子どものように、
「セレニア王、一体今まで何処にいたのですか?」
と聞いた。
セレニアは、はにかんで答えた。
『新しい魔法を使える事がわかったので、それを試していました。凄いんですよ、アイピレイスさん。扉の向こうには別の世界が...。このお話は後でしましょう。』
「くそ...くそぉおおおっ!」
皆が振り向いた、それはナサニエルの咆哮だった。手は焼けただれたままで、顔には汗をかいていた。それでも彼は、強い憎しみを抱く緑色の目で、セレニアを睨み付けている。
「お前は俺の願いだけを叶えていろ!謝れ!ひれ伏せ!俺が王だ...俺が!」
『ナサニエルさん、それは出来ないって前にも言ったじゃないですか。人の願いはそれぞれすぎて精霊にはわからない事が多いですが、他の人が嫌がるような願いは叶えられないんですよ。
...ルヨのように誤魔化しながらでなければ。』
「虚仮にしやがって!...何でこんな餓鬼に力が与えられたんだ...っ!」
『与えられたんではないですよ、と何度も説明してるのに。』
ナサニエルは左の拳を階段に叩きつけ、顔を下げた。目だけは上を睨み付けたまま、ぶつぶつ、小さな声で呟く。
「俺をあいつと同じようにしろ...俺を食え...あいつと同じ力を俺に寄越せ...!」
その体に寄せ付けられるように、ふらふらと近づいて行ったのは、小さな光の球だった。
白く、黄色味がかった光が一瞬、強くなる。
『あ、いけません!』
セレニアが言う時には、ナサニエルは身体中から、劈くような悲鳴を発していた。
下の広場にいた人々も、その様相に悲鳴を上げて逃げ出した。
レニスとミスラと共にいたペルシュは、思わずナランサの首にしがみついた。
ナサニエルの体は、ぼこぼこと形を持ち崩し、巨大に膨らんでいく。水のように光を透過する半透明な物になった。
「踏み潰す...踏み潰してやる...。」
宮殿の階段を一足で飛び越えられる大きさをして、その家よりも大きな脚を持ち上げると、足の裏が空を隠す。
ナサニエルの足は宮殿を踏み潰し、ガラガラと崩壊の音を立てた。町全体が、地響きに揺れた。
『私から精霊を奪るほどの強い願いとは、やっぱり凄いですね。ナサニエルさんは。』
セレニアは一歩も動かずに、彼を見上げていた。
半精霊と化したナサニエルを見上げるトゥヴァリには、さっきまで高潔に思えていたセレニアが、急にとても弱々しい少女になったように見えた。
影が、宮殿の広場全体を覆う。トゥヴァリとセレニアの周りは夜のように真っ暗になった。
トゥヴァリが慌ててたとしても、逃げられる距離ではなかった。
「トゥヴァリ!」
母の手を振りほどき、ペルシュが叫ぶ。
"何一つ心配する事はない。"
セレニアは悲しんだ。
『あなたが人間だから願いを叶えてたのに。半精霊になってしまったら、消滅させるしかないじゃないですか。』
水のように流動して見えた巨大なナサニエルの体は、一瞬にして石のように粉々に砕け散った。
それは、圧倒的な、唯一無二の、存在だった。
落ちてくる破片から、ナランサが人々を守った。
「トゥヴァリー!」
ペルシュが息を切らせて駆け上がってくる。赤毛の髪はボサボサで、厚手の上着は男のように肩幅を広くして、不恰好だった。裸足の足が、ペタペタペタペタ、石の広場を踏んだ。
トゥヴァリの手を取って、
「あの恐ろしい人に、勝ったんだね...。」
と藍色の目を潤ませて、言った。
『さあ。トゥヴァリさんの願いは全て叶えるという約束ですからね。ペルシュさんに起こった事を、すべてなかった事にしましょう。』
セレニアは、微笑ましそうに二人を見ていた。
「それは...ありがたいですけど、でも...。」
ペルシュは困って、目を泳がせる。そして決心したように、胸に手を当てた。
「忘れない方がいいと思います...。あの酷い辛さから、トゥヴァリが助けてくれたという事が、今の私にとても大切な事なんです...。」
『人間のそういうところ、本心と言葉が違うところ、私たちにはまったく理解出来ません。』
セレニアはとても不満そうな顔をペルシュに向けて、間髪入れずに、
『'出来るなら'なかった事にしてしまいたい。と、ペルシュさんもトゥヴァリさんも思っています。心の中で。私には'出来る'。
その体ではトゥヴァリさんと幸せになれないって、ペルシュさんはさっきから、泣いているじゃないですか。』
と、言った。
「ううう...。」
ペルシュは胸に手を当てたまま、下を向いたまま、大きな粒の涙をぽろぽろと落とした。
『ルヨはトゥヴァさんを死なせてしまいました。もう救えません。生きているペルシュさんだけでも救いたいです。』
「トゥヴァ?」
『ペルシュさんの前に身代わりになっていた、ハーヴァさんの120番目の子です。』
「ハーヴァ...そうだ、あの人も救ってください。ナサニエルに傷つけられた一人です。」
『ハーヴァさんを傷つけたのは私です。』
セレニアは言った。
『彼女の仕事を奪い、子を産む事を求め、彼女の自我に見合わない'女'としての役割を強要してしまいました。死にたいという願いも聞き届けず、飼い殺しにしたのは私です。』




