22 アンズィルの牙
次に襲ってきたのは、怒りの感情だった。
それは、ナサニエルに対する憎悪だった。トゥヴァリの世界に悍ましい出来事を持ち込んだ、許されざる存在。いや、トゥヴァリが知る前から、それはずっとこの世界にあったのだ。トゥヴァリが世界を愛していたその時も。
それは、ハーヴァに対する嫌悪だった。あの微笑みも、謝罪の言葉も、すべてが嘘だった。騙されていた自分自身が憎らしかった。はじめから、自分にいない親を恨んでいたのに。
怒りはトゥヴァリの足を進める助けになっただけで、枷になることは一つもなかった。力を欲する目的を思い出し、トゥヴァリの体に力は湧いた。
セレニアはナランサの魔法で眠り続けていた。
大きな岩がそこらにごろごろ転がっている斜面を登り、ついに開けた場所に出た。
もうこれより登る道はない。そこでは吹雪は治まっていた。この頂上より下にはずっと吹き荒れ続けている。
薄青い、透明の大きな塊がそこにはあった。
(中に何かがいる。)
茶色い毛を持つ何かが、中でうずくまっていた。高さだけで、トゥヴァリの背の三倍はある大きさだった。
"これでも小さく止めてあるので、目覚めたらもっと大きい。"
ナランサは言う。
「まさか...精霊王とあなたが封印したという、犬の大精霊?」
"この犬はーー。"
ナランサは頂の入るところにいて、それ以上近づこうとはしないままだった。
"この犬は、蛇や猿のように理性の無い失敗した半精霊とは違う。大精霊となりながら、暴走しない怒りと悲しみを持ち、その力をセレニアを消滅させることのためだけに振るった。"
「それがどうして、俺の力になるんですか。精霊王を滅ぼしたいなんて願っていないのに。あなたはセレニアの味方でしょう、どうして俺にその力を手に入れさせようとするんだ?」
眠る少女を乗せた草色の馬は、言った。
"セレニアは言っている。世界の命運を人の手に委ねると。私たちが作った世界が人にとって間違いだったのなら、すべて消える事になっても構わない、と。"
大精霊の言うことはトゥヴァリには意味が通らなかった。彼らの考えは、世界の内側にいる人間に推し量れる事ではなかった。
もはやトゥヴァリに、あの囲いの中に戻る道は無かった。
《ーーーーーー》
結界の中の犬は、言葉なくトゥヴァリに思念を伝えてくる。
白い、白い光が視界を覆う。
《暖かい思い出。
草むらを駆けていく少女。それを追う、小さな少年。
お母さんがご飯をくれる。肉に噛み付く少年。
ベッドで寛ぐ少女。横に寝そべる、小さな少年。
お父さんのスリッパを隠す。笑って撫でてくれる。
お父さんが、お母さんが、様子がおかしい。
暖かくない、怖い。
少女は変わらず暖かい。
彼ももう、暖かくない。怖い。
少女の側にいる。暖かい。
お母さんが、いなくなった。
お父さんが、いなくなった。
怖い。
少女も怖い。でもまだ少し、暖かい。
少女と彼が一緒にいれば、暖かい。
変なものが飛んできて、少女を食べた。
彼の目の前で。あっけなく。
少女は殺された。
何もわからないままに。
小さく悲鳴をあげて、存在が消滅した。
そして、中身も姿も全く違うのに、奪い取った少女の体と記憶であったものを使って彼を呼ぶ。
「シュロ!これでずっと一緒に居られる。」》
トゥヴァリの内に、これまでに感じたことがないくらいの怒りと悲しみが湧いた。眼の中を赤い線が埋め尽くし、視界が真っ赤に染まった。
壊してしまいたい。もうすべてがどうでもいい。その衝動で、精霊に食われるために人が生きるあの町を、壁を、あの閉ざされた宮殿を、精霊を、それに甘んじて生きる人々のすべて!
そのうちに悲しみすらも怒りに変わり、ただ強い感情だけがトゥヴァリの体の中にあった。
「...違う!俺は...。」
様々な方向から加えられる、身を引き裂かれるような強い力に、形を失いそうになる。
《ーーーー》
何かが聞こえる。訴えるような何かの声が、轟々という中に混じっている。
トゥヴァリはそれを見に行った。それを識りたいと強く思った。
それは中心で、嵐を引き起こしていた。
(なんだ...。)
トゥヴァリは信じられなかった。この痛みの中にあるそれの正体が、言葉となって理解された時に。
「お前だって、まだ彼女を愛しているんじゃないか!」
その叫びは嵐のすべての時を止めた。トゥヴァリは静かになったその中を、歩けるようになった。嵐の形は線のように周りに残っている。
その力は中心で、精霊の光に似て輝いていた。トゥヴァリは手を伸ばし、それを、掴んだ。
ふっ...っと全てが止み、トゥヴァリは氷づけの彼の前にただ立っていた。手に白銀の、腕の長さほどある、鋭利な何かを持っていた。
"アンズィルの牙だ。"
ナランサが言った。
"彼の中からその牙を一本、抜き取ったのだな。"
「アンズィル?名前は、シュロでしょう。」
"それは彼が飼い犬だった頃の名だ。精霊の名はアンズィル。彼もまた、私もそう、すでに別物になっているのだ。その記憶を受け継いだだけの。"
心なしか、眼下の吹雪が少し弱まっている。
トゥヴァリの握る刃は、トゥヴァリの手のひらを切り開き、血を流させていた。
精霊がトゥヴァリの傷の側に寄るが、血は止まらない。足元の白い雪を、赤く染めていく。
"暖かい服を用意しておやり。それを持つ限り、彼には魔法が効かない。"
精霊はナランサの思い浮かべる事柄を読み、トゥヴァリに厚手の、動物の毛を使った上着を誂えた。
「...ありがとう。」
それを着たトゥヴァリは、ナランサに言った。
「彼女と話がしたい。」
ナランサは、少女を優しく浮かせて降ろすと、トゥヴァリと同じように暖かい衣服を魔法で支度してやった。そして横たわる額にそっと、口づけをする。
彼女は目を覚ました。
そして泣いた。ボロボロと涙をこぼして、目を開いたまま、トゥヴァリの向こうにある姿を見ている。
「私の罪は...。」
そうして、言葉を継げずに、咽び泣いた。
トゥヴァリはゆっくり、その前に、跪いた。
「セレニア。」
「どうして私は生きているのだろう。他の誰かの方が上手くできただろうに。どうして私が私になってしまったのだろう。」
トゥヴァリは少しの力も入れずに、顔を覆って泣くセレニアの手を取った。
「俺はあなたが、好きです。感謝しています。あなたのおかげで、人間が再び生きていられる。あなたでなければ、こうはならなかった。あなただったから、俺は生まれることができた。」
セレニアがトゥヴァリを見た。泣き顔の途中で、ハッとするように、そこにトゥヴァリがいたと、ようやく気がついたかのように。
その血だらけのままの右手を見て、
「約束通り、殺してくれますね?」
と言った。
「あなたと、...彼との、約束通り。」
トゥヴァリはアンズィルの牙を振り上げ、一思いに、セレニアの体に突き刺した。厚い上着も通り抜けるように軽く、それは容易く彼女の胸を貫いた。
ただトゥヴァリの手だけに痛みを残して。
彼女は軽い音を立てて、雪の上に倒れた。血が吹き出ることもなく、雪に染み込むこともなく。
その代わりに、彼女の黒髪が、徐々に徐々に赤毛に変わっていく。肌は白くても冷たい柱のような白でなく、鼻はそんなに高くはなく、唇は青ざめて、まったく違うものに、彼女は変わってしまったのだった。
「...人間?」
トゥヴァリはその光景を見て、牙を手から落とし、雪の上に呆然と、へたり込んだ。
"アンズィルの牙は、セレニアの魔法を消滅させる力となったのだ。"
「セレニアじゃ...最初から、やはり、精霊王なんかじゃ、無かったんだ!」
(何度も、思ったことなのに...そうなのだと思い込んでいたんだ!)
少女に傷は無かった。
魔法は解けて、その丸い目の瞼が開き、ゆっくりと辺りを見回す。
そして、自分の体を見た。長い赤毛を見つめ、手のひらで顔に触れ、しばらくじっと目を閉じ、そして、とても悲しい表情をして、トゥヴァリを見た。
「ああ...トゥヴァリ。どうして、こんなことになったんだろう?」
トゥヴァリは咄嗟に、駆け寄った。雪で足を滑らせながら。彼女の体を力任せに抱きしめた。腕は震え、右手の痛みも忘れていた。
ペルシュは苦しかった。けれど、何も言わなかった。呼吸が潰されそうになっても、そのまま身を任せていた。
トゥヴァリはペルシュの髪に顔を埋めるようにして、涙で彼女の頬を濡らした。
「どうして...どうして...っ!」
ようやく、いまさら、すべてがわかった。
どうして俺は何も知らなかったんだ!
ナランサは彼の慟哭を、ただ見届けていた。




