17 人のユートピア
赤い帽子に赤い服、とんがり靴も赤かった。アイピレイスは自分の部屋の鏡の前に立っていた。
手には緑表紙の本を持っていた。彼が百年近い間、町を観察した記録だ。それを元に、精霊の一日の生産能力と、人間と動物に与えられる食事の量、精霊の数と人間と動物の数、精霊が一日に必要とすると考えられる生気の量、人間が持っていると仮定した生気の量などを計算して、加筆した。
アイピレイスの持っていた能力は、人間社会では引く手数多だった。彼は子どもの頃から、普通よりは少し頭が良かった。物事を数字に置き換えるのは得意だった。いつも母親の買ってきたシャツに灰色のベストを着て、眼鏡をかけていた。
ビル群の中で仕事をし、同僚とコーヒーを飲みながら談笑する。休日の趣味はダーツだった。女性に大変モテるというわけではなかったが、いくつかの友人関係はあった。恋愛に発展しなかったのは、彼が仕事ばかりしていた事と、彼がややつまらない性格であった事と、彼が臆病だったからだ。
鏡の前で、彼は強く本を握りしめ、心を構えて部屋を出た。
彼の持っている知識は、魔法の前に何の役にも立たなかった。元老院に選ばれた時、彼は人々を管理するのに、数字は必要不可欠だという自信を持っていた。だが、精霊は数字を必要としなかった。精霊は人間よりも状況把握能力が上だったので、アイピレイスに仕事は無かった。
それでも、数字は相手を説得する力を持つ。セレニアはデータを必要としなくても、人間である自分の身には唯一持てる武器である。
アイピレイスは大理石の廊下を渡り、玉座の間の前までやって来た。
(この部屋はナサニエルに奪われてしまったのだろうか?)
取っ手を引く手が、一度止まる。
アイピレイスはナサニエルが嫌いだ。暴力的に物事を解決しようとする人間が大嫌いだ。
人として正しく生きないものが嫌いだ。自分を律する事が出来ず非合理的な欲に呑まれる人間が大嫌いだ。
(トゥヴァリに約束しただろう!)
自分を奮い立たせ、扉を開ける。
「おや。これはこれは。」
酒臭い部屋で、肘掛け椅子に座っていたのは、やはり無骨な男だった。
アイピレイスを見て、目を細めて笑う。
「ナサニエル...王はどこだ?」
「ふん。貴様は王というものを知らぬらしい。」
冷たい目で、アイピレイスを睨む。彼が椅子から立ち上がったので、アイピレイスは覚悟した。
「いや、いや。ナサニエル。ここが精霊王セレニアの部屋だというのは、彼の勘違いじゃあない。」
アイピレイスの背後から入ってきたのは、ルヨだった。トゥヴァリより小さい子どもの声では頼もしくも感じないが、アイピレイスの身体は少し緊張の糸を緩める。
ルヨがアイピレイスの前に進みでると、セレニアも後をついていった。アイピレイスの唇は震えた。
あまりにも時間の経ち過ぎた再会だった。
(これが、セレニアだっただろうか?こんな、弱々しい...少女が。)
しかし、彼女はセレニアである、と揺るぎ無く思ってもいる。
ナサニエルは舌打ちをして、玉座を開けた。椅子の前に、セレニアが立った。
絶望の淵からアイピレイスを掬い上げた、建国の光景が思い起こされる。
宮殿に足を踏み入れた時、白い床には真っ赤な絨毯が敷かれていた。はじめ、他の色は無かった。彼らが望むまで、この宮殿には白と赤しか無かった。
アイピレイスは、セレニアはその二色を好むのだろうと思った。唯一絶対の王に忠誠を誓った時、彼の服は赤一色になった。
「アイピレイス。何か?」
セレニアもまた少女の声で言った。十五、六ほどに見えるあどけない顔つきだった。
「精霊王、セレニア。今、精霊は七日ごとに人の生気を吸い、結果人は死んでいます。が、ー人を死なせずに、精霊が生気を吸って生きる方法があります。」
セレニアは表情をぴくりとも変えず、ただ黙って聞いていた。
「精霊が生気を吸う量を調節できる事が、わかりました。どうか、すべての精霊たちに、食事の仕方を変えてもらいたい。」
「却下だ。」
と、口を挟んだのはナサニエルだった。
「町の残餌どもは、精霊どもに命を管理されているくらいでちょうどいい。でなきゃ俺の不死の価値が薄らぐだろうが?」
「貴様は、少しの優越感に浸る為だけに、人々が死ぬ状態を望むというのか?」
アイピレイスは怒りを感じた。
「セレニアは、人の数を増やすためにこの国を作ったんだ!三百年で、ようやくここまで人口が増えた!この国の当初の目的は、達成されたはずだ。」
人は自由になってもいいんだ。アイピレイスは強く思っていた。
しかしナサニエルは、言いたいことはわかっているとでもいう風に、笑う。
「そうとも。俺が踏み潰す虫けらの数は、多ければ多いほど楽しい。」
「...なんだと?」
ナサニエルは、ゆっくりアイピレイスに向かって歩き始めた。アイピレイスは自分が意識したことでは無かったが、左右の口元を引くつかせながら、どうにか足は動かないように保つ。
「ふん。お前は、精霊に管理されなくなればもっと寿命が延びるとでも思っているようだが、そんなうまくいくわけがない。
お前はこの国に馴染みすぎて忘れているようだが?人間の死因はいくらでもある。」
ナサニエルはアイピレイスのところまでくると、酒臭い顔をうんと近づけて、言った。
「精霊の庇護から離れたら、赤子も死ぬようになるぞ?動物園で悠々と生きていたライオンを、野生に帰して狩りができるのか?
お前の考えていることは、本当に奴らのためを思っているとは思えんな。」
「...それは...。」
「俺は思っているぞ。はじめは二十半ばで食われていたものが、数が増えたおかげでようやく五十過ぎまで生きられるようになったのだ。
ただ待っているだけで、百歳に届くのではないか。
それとも、くだらない自由なぞという信念のために、奴らをまた苦境に陥れるのが、お前の考える理想なのか?」
アイピレイスは何も言えずにいた。ナサニエルが正論を言ったことが悔しく、惨めだった。
ナサニエルはふん、と鼻を鳴らすと、「お前は元老院にふさわしくない。」と言い、玉座の方へ行った。
そして、肘掛け椅子の背に頬杖を付き、
「あいつを投獄しろ。」
とセレニアに言った。
「なっ...。」
「アイピレイスを投獄します。」
セレニアは表情一つ変えぬまま、ナサニエルの言葉を繰り返す。
ルヨが小さな手で、アイピレイスの腕を掴んだ。
「お前の役目は終わりだ。どけ。」
「セレニア、待ってくれ!もっと私と話を...!」
軽くあしらおうとしたが、ルヨが腕を引く力は驚く程強く、振り解けない。
そのまま入り口まで引きずっていかれる。
アイピレイスはセレニアに縋ろうとしたが、扉が閉まる前、帽子を落とした時に見えたのは、玉座に座っているナサニエルだった。
宮殿の奥に地下への階段があった。
アイピレイスも昔は来た事がある。北の地に繋がっている、裏口があるはずだった。
ルヨは力を緩めることなく階段を連れ降り、ただ暗いだけの廊下をいくつか曲がって、アイピレイスの知らない廊下まで来た。
鉄格子が並んでいる。
「牢...?」
しんと静まり返って音は聞こえなかった。
が、暗がりの中に何かが見えるような気がする。
仕切りのない、左右に一つずつの巨大な檻だった。まるで巨大で獰猛な動物でも飼うかのような。
「お前はナサニエルと同じ考えなのか?」
中にアイピレイスを放り込み、ルヨは鍵を閉めた。
「僕は迷ってるんだよね。このまま、もう少し観察しているとするよ。」
と、ルヨは答える。
「君はナサニエルに対抗できる力では無いみたいだからね。少し退場してもらうくらいが、いいんじゃないかな。」




