006.新たな出会い、始まり
「…――…ぉぃ…ぉ…ろ」
唐突に、何か聞こえたような気がする。
透き通るように綺麗な女性の声だった。
でも、何を言っているのかは聞き取れない。
身体はまるで夢の中にいるような、ふわふわとした感覚に包まれている。
光一つ見えない真っ暗なこの場所は、一体どこなのだろうか。
「…おい、さっさと起きろ! 聞こえいるんだろ!?」
!!!
耳の近くで叫ぶような声が、僕の頭に響き渡る。
さっきと同じ女性の声だ。
僕は叫び声を聞いてようやく、意識を覚醒させた。
目を開くと、美しい女性が睨み付けるような目つきで、僕の顔を上から覗き込んでいるのが目に入った。
「やっと気が付いたか。…起きろと言ったら、さっさと起きろ。面倒をかけるな」
恐らく初対面であろうこの綺麗な女性は、何故かいきなりキレていた。
どうやら僕は寝ぼけてなかなか起きなかったことに、ご立腹らしい。
それにしても、この女性はどこの誰なのだろう。
誰だかは知らないが、こんな綺麗な女の人を、僕は初めて見た。
さらさらで艶かな漆黒の髪、スッと通った鼻筋。
絹のように滑らかな、真っ白な肌。長い睫毛、切れ長のやや気の強そうな目、その中に輝く真紅の瞳。血のように赤く、みずみずしい唇。
彼女の顔を構成するすべてのパーツが、驚くほど整ってる。
神様が気に入った部分を集めて作ったかのような、非現実的な美しさ。
年は二十歳半ばぐらいだろうか、女性は滴るような大人の色気で溢れている。
さらに目線を顔から少し下げれば、金の刺繍が入ったスーツみたいな形の黒服を大きく隆起させている、二つの双丘。
――で、でかい…。
まるで服の中にメロンでも入っているかのような、圧倒的な存在感。
厚い服の上からでも、はっきりわかるほどの巨乳、いや爆乳だった。
一瞬、自分の状況も忘れて眼前の女性の胸をガン見していた。
彼女は町で歩いたら、10人が10人とも間違いなく振り返るほどの現実離れした、紛うことなき美女だった。
「おい、寝起きそうそう、どこを見ている。……殺されたいのか?」
ゾっとするほど冷たい目で、女性は僕を睨み付けた。
僕がドMならば、彼女の目つきはご褒美なのだろうが、そんな性癖はない。
「ご、ごめんなさい」
「…次に私をエロい目で見たら、その目をくり抜いてやる。その覚悟があるなら、存分に見るがいい」
こ、こえええ!
僕は体中に冷や汗を垂らし、ガタガタと震えた。
二度と彼女をイヤらしい目で見ないようにしようと、僕は心の中で固く誓った。
「まあ、いい。…ところで私を誰だか知っているか?」
誰と言われても、もちろん知らない。
でも、「知りません」なんて素直に言ったら、もしかしたらこの人はまた怒るのではないか。
「何、私のことを知らない!? 万死に値する!!」とか言って、ザックリ殺られる僕の姿が、容易に想像できる。
しかし、もしも知ったかぶりをしても、同じ結果に終わるかもしれない。
ここは何て答えるのがベストなのだろうか…。
んー…。ここは正直に、知らないというしかないなか。
「すいません、知りません。よろしければ教えていただけますでしょうか」
彼女の表情は…よし、大丈夫だ。
緊張しすぎて変な口調になったが、別に大して怒っているようには見えない。
「…お前は、命の恩人の顔を知らないのか?」
あ、やっぱり駄目だ。彼女は怒ってる。
でも、ん? 命の恩人? いつ彼女に救ってもらったのだろう……………あ。
そうだった。
僕はB級の魔物のブラッドウルフに殺されたんだ。
無事に生きている、ということは、苛立たしげに僕を見ている彼女が救ってくれたのだろう。
命の恩人とは、そう意味か。
彼女は魔物から僕を救って、安全な場所まで運んでくれたのだ。
そんな相手にお礼も言わず、僕の態度は確かに失礼だった。
ちなみに僕が今いるのは小さな部屋のベットの上だ。
あたりには、何に使うのかわからない小物や、分厚い本、魔法陣の描かれた紙がごちゃごちゃと、床一面に転がっている。
お世辞にも綺麗な部屋とは言えない。
窓からは、生い茂った木々と青い空が見える。
多分僕が転移してから彷徨っていた、あの森の近くに立てられた建物だろうと思う。
「す、すいません! 記憶が混乱していて! あ、あの、魔物から救っていただいて、本当にありがとうございます!」
「魔物? 魔物ならお前のそばで、すでに死んでいたぞ」
「え?」
「あれはB級のブラッドウルフだな。お前その歳で、結構やるじゃないか」
どうやら僕の最後に放った、最大級の”ファイアーボール”が、ブラッドウルフに致命傷を与えていたらしい。
まあ、耳とか吹っ飛んでたもんな。運が良かった。
「ということは、あなたは僕をここまで運んでくれた、ということですか?」
「…………ああ。魔力が枯渇して、死んでいたお前をここまで運んでやった」
ん? 聞き間違いか?
今、彼女は何と言った? 僕が死んでいたと言わなかったか?
あ、死にかけていたの間違いか。
「ありがとうございます。…その、死にかけのところを助けていただいて。あの時は本当に死んだと思いました。あなたには感謝してもしきれません」
「おい。死にかけていたのではない。お前は死んでいたのだ、魔物と一緒にな」
「…え?」
「つまり、私が見つけたときには、お前は死体だったというわけだ」
聞き間違いではなかった。
死体だったとは、心臓が止まっていたという意味だと思う。
そして、彼女は僕の体をここへ運びこみ、心臓マッサージか、その他何らかの方法で蘇生に成功したのだ。
彼女は未だにイライラした様子で僕を見ている。
彼女は椅子に座り直し、ぴっちりとした黒いタイツに包まれた長い足を組みなおす。
僕は何気なく、彼女が肩に掛る美しい黒髪をたくし上げる姿を眺めていた。
そして、彼女の長く尖がった耳が僕の目に映った。
「あの、あなたはもしや、吸血鬼族なんですか?」
長く尖った耳に赤い瞳。
聖騎士団の神父服が話していた、吸血鬼族の特徴と一致する。
「ん? そうだが。…ああ、耳が見えたか。うかつだったな。……で、お前はそれを知ってどうする? 逃げるか? それとも立ち向かうか?」
「そ、そんな。命の恩人に対して、そんな失礼なことはしませんよ」
「………どうやら、本心から言っているようだな」
彼女は少しだけ目を見開き、驚いた顔をしている。
やっぱり吸血鬼族は、この世界では恐れられているのだろうか。
彼女も僕が恐れおののくと思っていたようだ。
しかし、安心してほしい。
僕も最近になってハーフではあるが、吸血鬼族だと判明したところだ。
同族を怖がるなんてことはない。
「吸血鬼族って聞いたら、普通の人はどういう反応をするんですか?」
「そうだな……。まず、泣き叫ぶ。そして大抵は動けなくなるか、逃げるな。たまにだが、いきなり殺しにかかってくる奴もいるな」
そ、そんなに怖がられているのか。
1000年前の魔災戦争が原因で恐れられていると聞いたが、どれだけの人間を殺したのだろう。
それに彼女の口ぶりからすると、恐怖しているのは人族だけではなさそうだな。
「安心してください。僕はあなたを恐れることなんてありません。……僕もハーフですが、吸血鬼族らしいですからね」
僕は彼女を安心させるために、自信を持って言い放った。
これで彼女も警戒を解いて、態度を軟化してくれるかもしれない。
「………誰に聞いたかは知らないが、………お前は吸血鬼族ではなく、ただの人族だぞ」
「……え?」
僕の顔は彼女の言葉を聞いた途端、すべての表情が抜け落ちたような、間抜けなものに変わった。
「お前は吸血鬼族ではない」
「そ、そんな! でも僕の父親が吸血鬼族だって……。それに、目も赤いですし!」
「母親の種族は人族だろう?」
「え? そうですけど…」
「人族と吸血鬼族が交われば、必ずハーフが生まれると思っているのか? それは間違いだ」
「ど、どういうことですか?」
彼女の説明によると、両親のどちらか片方が吸血鬼族の場合、種族の特性をもったハーフが生まれる可能性は大体50%くらいらしい。
つまり、吸血鬼族の種族としての特性が遺伝しない場合があるのだ。
そして僕は父親から特性を受け継いでおらず、種族はただの人間であるということだった。
瞳が赤いのは、父親の瞳の色が遺伝したのだろうと言われた。
なんじゃそりゃ。
少し前のドヤ顔を決める自分を、ぶん殴りたくなってきた。
僕だって、全種族最強と呼ばれる血を受け継いでいると思って、ワクワクしていたのに。
なんだか夢が壊された気分だ。
「つまり、僕は目が赤いだけの、人間だと?」
「何度も言わせるな。お前は、そこらじゅうにいる人族共と、同じだ。…いや違うな」
「ど、どこがですか?」
「…お前は、そこらにいる人族共より、バカだ」
「…」
くそ、好き勝手言いやがって…。
命の恩人じゃなければ、暴言の一つでも吐いているところだ。
「と、いうことだ。よかったな。吸血鬼族じゃなくて」
非常に複雑な気分だ。
これ以上、聖騎士団の連中に追われなくて済む喜ぶ自分もいれば、種族としての力が手に入らないのも嫌だと思う自分もいる。
まあ、もうどうしようもないか。
吸血鬼族でないなら、人族として強くなるだけだ。
そういえば、吸血鬼族でないなら、僕とリリーは無実の罪で家を追われたことになる。
くそ! あの神父服、許さない!
思い出すと腹が立つ。
勘違いで、僕とリリーの幸せな日々を壊しやがって…。
これでもしもリリーが生きていなかったら、命を懸けても必ず復讐してやろう。
そうだ。僕は街を目指していたんだった。
魔物と初めて戦ったり、死にかけたりで、すっかり目的を忘れていた。
街に行って、なんとしても強力な魔法を使えるようになるのだ。それも出来るだけ早く。
「あの、すいません。…救っていただいたところ、悪いのですが、人のいる大きな街への道を教えていただけませんか?」
「街? 人族のいる街なんかへ、行きたいのか?」
彼女の言葉には、いちいち人族への嫌悪が含まれている。
わざとなのか、無自覚かはわからないが。
僕は黙って頷く。
リリーを救うためだ。1秒だって無駄にはできない。
街へ行って、具体的にどうやって魔法を覚えるかはまだわからない。
それでも立ち止まっている時間なんて、僕にはないのだ。
「ダメだ。許可できない」
やっぱりダメだったか。
今までの彼女の高圧的な態度を見て、なんとなく断られるだろうとは思っていた。
やはり、自分でなんとかするしかない。
「………別に街へ行くこと自体は、かまわない」
「あ、そうなんですか?」
街への道筋を教えるのは嫌だ、ということだろうか。
あ、彼女は吸血鬼族だもんな。
僕が街へ行って、居場所をバラしたりしたら、それこそ聖騎士団がやってきて、僕の二の舞になるじゃないか。
「僕があなたの正体をバラす心配はありません。なんでしたら、森を出るまで目隠しをしていただいてもかまいません」
「いや、そういうことじゃない。バレたとしても、また場所を変えればいいだけだし、大抵の奴は殲滅できる」
さすが最強の種族といったところだろう。自信満々だ。
殲滅とか、なんて物騒なんだ。
「街へ行けば、お前は必ず殺されるぞ」
殺される? 目が赤いからか?
目の色だけで、襲ってくるような物騒な連中は、そうそういないと思いたい。
なんだったら、サングラスでもかければいい。この世界にあるかわからんが。
「お前は私が見つけたとき、すでに死んでいた、と言ったな? 私はお前を蘇らせるために、吸血鬼族だけが使える特質系”血従魔法”の”血の隷属”を使った。その魔法でお前は蘇り、私の”眷属”つまり、奴隷になったのだ」
「…」
「つまりお前は人族でありながら、吸血鬼族の僕になった。街へ行って正体がバレれば、狙われないわけがない。お前は弱いから、すぐに殺されるだろうな」
「…」
「私が魔法を使えば、お前を強制的に従わせることができる。魔法を使って、私が死ねと言えば、お前は自分の意思に関係なく、自殺する。お前の命は私のものということだ」
「…」
「そしてお前は私を決して、殺すことができない。つまり、死ぬまでお前は私の奴隷ということだ。嬉しいだろう?」
「…」
「もっと良いことを教えてやる。眷属になれば、肉体が最高の状態になった状態で老いが止まる。つまり、不老になるのだ。そして、不老になった眷属は私が死ぬまで、年老いて死ぬことはない。だが、不死ではないから気をつけろよ。致命傷を受ければ、死んでしまうからな」
「…」
「…さっきから、どうした? 恐れ多くも人族風情が私の眷属になれたのだぞ? ……ああ、感激すぎてで声もでないのか。そうだろう、そうだろう。もっと私に感謝するがいい」
僕の頭は、完全にオーバーヒートを起こしていた。
彼女は何故こんな話に、僕が大喜びすると思っているのだろうか。
普通は逆の反応をするだろう。
どれだけポジティブなんだ、この女は。
僕以外の人間だったら、まず間違いなく発狂している。
驚愕の事実を聞いた頭は熱暴走を起こし、まともに思考が働かない。
ふぅ…。いったん落ち着こう。
「あの! …………あ、やっぱりいいです」
一体僕は何から彼女に質問するべきなのだろうか。
いろんな考えがぐちゃぐちゃと頭を巡り、途中で言葉を切ってしまった。
聞きたいことは、たくさんある。
でも、僕は何から質問すればいいのだろう。
それから10分以上が経過し、ようやく僕の思考能力は通常状態に戻ることができたのだった。