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木立を進むにつれて、匂いも強くなる。間違いない、これは庶民愛用の胚芽パンが焼けた香り……うーん、ここに住む人の今日の晩飯には胚芽パンが並ぶのか。ちょっと食べてみたいかもな。
まあ、飯より先に便所だ。
ふいに、目の前の木立が開けた。ずっと視界を覆っていた広葉樹が取っ払われたそこに現れたのは……。
「……家……なのか?」
俺としては、よくある……レンガ屋根に白い壁、庭先に花を植えられたポットが並んでいる……そういう一般家庭を期待したのだが、あいにく、ここにそびえるのはどう見ても「一般家庭」にはほど遠い住宅だった。
……いや、すまないが家の外見は後で説明する。それよりも! 便所! さっきからこれしか言っていない気もするがとにかくこの尿意をどうにかしたいのだ!!!
せわしなくドアをノックしてみる。……このドアの形もなかなか……個性的だが、それよりも!
「すまない! 旅の者だが……誰かいるか!」
パンを焼いているのだから、留守ということはなかろうが……。
俺の祈りが通じたのか、間もなく個性的な形のドアノブがゆっくりと回り、きしみの音を立ててドアが内側に開いた。
住人は用心深いようだ。完全にドアを開けることはせず、小さく開いた隙間から、ひょっこりと二つの目がのぞいた。
「……どちら様でしょうか。お薬の注文ですか?」
若い女の声。落ち着いているし、その話し方からも、どうやら少なくとも常識人であることは分かった。
「いや、薬ではなくて……」
「では、例の借金取りですか?」
言いながら、女の声がすっと低くなる。元々細めの茶色の目がさらに細くなり、問答無用でぱたん、とドアが閉まった。
「お引き取りください。今、姉様たちは留守ですので」
「いや、借金取りでもなくて……」
俺が相当焦っているのを察したのだろうか。ドアが閉まったまま、女のくぐもった声が聞こえてきた。
「では、何の用でしょうか」
……くっ、やはり恥は捨てねばならないか……!
「便じ……いや、手洗いだ! すまないが……手洗いを貸してくれないだろうかっ?」
「え?」
再び、ドアが開く。女は戸惑ったような、申し訳なさそうな顔でドアを押し開いた。
「そうだったのですか……分かりました。では、どうぞお入りください」
「あ、ああ……面目ない」
女がドアを開いて俺を招き入れてくれたため、俺は彼女について家の中に入った。
……ん? 今さっき、ドアは外向きに開いたよな? 最初は、内向きに開いていたような……。
俺の背後で、ぱたん、とドアが閉まった。
既に夕方にさしかかっていることもあり、部屋の中は暗い。いや、夕方であることを差し引いても、異様に暗いような……。
「足下にご注意ください」
そう言って、女は俺の手を引いて廊下らしき所を進んでいく。女は夜目が利くのだろうか、明らかに障害物があると思われるところをひょいひょいと跨いでいき、危険な物体があるらしき箇所では俺に注意を促した。
「ごめんなさいね、師匠と姉様がものを散らかしっぱなしにしていまして……あっ、そこにカエルの干し物があるので。踏まないようにしてくださいね。蹴ったら姉様に怒られてしまいます」
「お、おう……」
……カエル?
へんてこな家だが、便所はまともだった。少なくとも、うちの屋敷にあるのと大差はない。
女は便所の戸を開け、ランプをともして(あれ、今マッチを使ったか? 素手で火を付けたように見えたが……)一歩下がった。
「では、私は少し離れた所で待ってますので、どうぞごゆっくり」
「……ああ、すまない」
用を足しながら、改めて思う。
まず、この家の形。例えて言うなら……そうだな……俺の家に飾っている年代物の壺……あれに土台が付いたような……そんな形だった。
俺の家の壺なんか見たことない! ってやつは、とりあえずよくある陶製の壺をちょっと横に広げて、台座をつけたような形だと思ってくれ。
とにかく、一見すればとてもとても民家だとは思えない形状をしていた。家と言うよりは巨大はオブジェだったな。
それで、さっきも疑問に思ったことだが、間違いなくドアは内側外側両方に開いた。普通、ドアってものは内側外側、どっちかにしか開かないよな? 両方に開いたら意味ないし。
だが、実際ここのドアは開いていた。そして、ドアとして機能していた。
それに加えて、あの女の言動。
『師匠』
『カエルの干し物』
『素手で火を付ける』
……なんだか、とてつもない家に転がり込んでしまったようだ。
洗面台で手を洗いながら、俺はそう思った。
そしてその予想がまんざら外れていなかったことを、この十五秒後に悟るのだった。