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オレンジ色に染まった草原。
アーク様、あまり遠くに行かれませぬように。背後で従者が気遣わしげに声を掛けてくるが、俺にとっては雑音に過ぎない。
誰もいない草原。夕暮れの色に輝く春の草花。
俺は深く深く息を吸い、目の前に広がる光景に驚嘆の声を上げた。
屋敷の窓からは見ることのない、どこまでも続く草原。地平の彼方に沈みかけた太陽がやけに大きく見えて、手を伸ばせば掴めそうなくらい、間近に迫って見えた。
だっと、駆けだす。従者の悲鳴が遠く、遠くなる。
微かに響く虫の音。風を受けてそよぐ名もない草花。
今まで見たことがない、美しい世界だった。
そうだ、せっかくだし母さんのために花でも摘んでいこう。そう思って草原を駆けている俺の目に、小さな人影が映る。
逆光になっているため、こちらからはその姿がうまく認められない。
俺は、足を止めた。俺の気配に気付いたらしい、向こうの人影も、はたりと動きを止める。
大きなふたつの目が、じっと俺を見つめていた。
こんこん
妙な音。ドアをノックした時のような、テーブルをペンで叩いた時のような、軽い音。
その音が俺を現実に引き戻した。
はっと覚醒すると、そこは既に見慣れつつあるジジイの家の一部屋で。今にも落ちてきそうな天井が目に飛び込んできた。
こんこん
まだ音がする。窓の方だ。
何ごとかと、眠い目を擦って窓の方を見やると。
変質者がいた。
「……!?」
「あ、おはっす」
変質者は俺と目を合わせ、ニッと笑った。眩しいくらい清々しい笑顔で。
「ここ、開けてよ。さすがに腕がだるいからさぁ」
「おまえ……テディか?」
変質者ことテディはこっくり頷き、三度窓の枠を叩く。
「つまみを引いたら鍵が外れるから。ほら、早く早く」
「お、おう……」
テディに言われるまま、俺はベッドから体を起こして窓の鍵を外した。テディは手慣れた手つきで窓を押し開け、するりと俺の部屋に侵入してきた。
「やっほ、よく寝れた?」
「……まあな。昨夜はユイが本を読んでくれたから」
「ああ、寝物語ってやつね」
「それは違う」
素早いツッコミ。うん、今日も俺は体調ばっちしだ。
ばっちしなんだけど……。
「……で、おまえは何で窓から?」
窓ガラスにべったり顔をくっつける痴女がいるって通報しかけたぞ。だがテディは悪びれることなく、癖の強い髪をぼりぼりと掻きながら笑った。
「いや、これも訓練のうちよ。あたしは朝、誰よりも早く起きて自主トレするのが日課なのよ。まずは、家の壁を素手で上る練習。ついでにあんたを起こそうと思ってね」
ああ、そういえばもう日付が変わったんだ。ユイを観察する(むしろ観察された)一日は終わりで、今日はテディの様子を見る日。
「公子様も、筋トレするんでしょ? よかったら一緒にどうかと思ってね」
「申し出は有難いんだが……」
俺は、窓の外を見やった。テディ曰く今は「朝」らしいが、まだ外は真っ暗。お星様が名残惜しげに輝いております。
「ちなみに……今、何時だ」
「んー? そうね、朝の四時くらい?」
「いくら何でも早すぎだろ」
屋敷にいた頃と違い、ここ数日は規則正しい(?)生活を送っているように思われる。以前は夜更かしして書類整理なんてザラだったが、昨夜もユイの朗読を聞いて彼女を部屋に送った後時計を見たが、深夜ちょっと前くらいだった。
だからといって、朝の四時に起こされても困るんだが……。
「おまえはいつもこのくらいには起きているのか?」
「そだよ。ちなみにあたし、一番早く寝て一番早く起きるの。昨日はご飯の後すぐ寝たし」
そういえば確かに、わりと早い時間からテディの部屋の明かりは消えていたような。
「……で、鶏が鳴く前から筋トレするのが日課になってるってことか」
「そゆこと」
ニッと笑い、テディは俺の寝間着の裾を掴んで引っ張る。
「ほらほら、早く行こう! これから本格的に運動始めるから!」
「そ、それは構わないが……まず、着替えさせてくれ」
「うい、了解」




