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三時間半。そう、あの釜を全部洗うのに三時間半かかった。
想像以上に、釜は汚れていた。内部にこべりついた薬の滓はしぶとく引っ付いており、タワシでかなりこすらないと剥がれない。釜自体もそこそこでかいんだし、付着物をそぎ落とすのだけでも重労働だった。洗剤はとにかく種類が多いし、しかもどれもこれも変な匂いのものばかりだ。掃除に取りかかる前に一応、上着は脱いでおいて正解だった。
そういうわけでサランが予想した以上に時間を食ってしまい、フラフラになりながらキッチンに戻ったときには……既に晩飯は終わっていた。
「遅かったわねぇ、純情君」
今日の飯当番でもあるリンリンだけがキッチンに残っていて、俺を出迎えた。
「私たちはもう、自分の分は食べたから。一応、あんたのは残してるからありがたく思いなさいよ」
「……ああ」
声がかすれる。叫んだわけでもないのに、なんでこんなに喉が痛いんだろう。あの洗剤、たぶん人体にはあまりよくないんだろうな。
「ほれ、座った座った。胃が弱っているあんたのために、フルーツ風味のマンジューを作ったのよ」
「え、本当か?」
マンジューは本当においしかった。手を洗い、席に着くとリンリンは保冷室からマンジューの乗った皿を持ってきた。今朝食べたのは真っ白な皮のマンジューだったが、これはほんのりと色が付いている。手前のは薄桃色で、奥のは黄色と草色だな。
「中にフルーツが入っているのか?」
「そうね。生地にも練り込んでいるから。そっちのがイチゴで、こっちのはオレンジと草」
「くさ?」
イチゴ味マンジューを割りながら聞き返す。草って、食い物だっけ?
「草。もちろん食べられる草ね。ちょっと青臭いけど、ヘルシーなのよ。ヨモギって言うんだけど、こっちらへんではあまり生えてないわね」
「……ああ、聞いたことのない草だ」
順に食べてみたが、どれもこれも予想以上においしかった。イチゴやオレンジには中がクリープたっぷりで、果実をぶつ切りにしたものが入っていた。草の方は……リンリンによると「アンコ」というらしい、甘いものが入っていた。
「やっぱりリャンシの伝統料理もうまいな」
「ありがと。私と結婚すれば毎日作ってあげるけど」
「……い、いや、そういう問題じゃないんだが……」
マンジューはうまいが、それだけのためにリンリンと結婚するなんて……リンリンの方が迷惑だろう。
そう思いながら草マンジューを咀嚼していると、ふっと俺の正面に座ってたリンリンの目つきが柔らかくなった。
「……私はいいんだよ」
「え?」
「どうせ、結婚するならフォルセスの誰かと、って思ってるし」
両手で頬杖をつき、俺が皿に残していたイチゴマンジューの食い差しをひょいっと奪って、遠慮無く食べだしたリンリン。
「言ったでしょ? リャンシは一夫多妻制だから。故郷に帰って結婚したら、絶対その男の『たった一人の女』にはなれないから」
しんと、キッチンに静寂が訪れる。
そうだ。リャンシは一夫多妻制が認められている。それが、法律だから。
「フォルセスに来たときはびっくりしたわ。だって通りすがりの旦那さんが、たった一人の奥さんと仲むつまじげに散歩してるんだもの。大勢の妻を侍らすんじゃなくて、二人で、手をつないで。それがこの国の常識なんだと知って……すごい、羨ましかった」
だから、とリンリンはもう一つ、俺の皿からマンジューを奪った。
「私、あんたに選ばれなくても大丈夫。フォルセスでいい男を見つけて、嫁入りすんだから。で、たった一人の『お嫁さん』になるの」
リンリンの夢は。
母をフォルセスに連れてくること。店を開くこと。それから……真摯な男の元に嫁ぐこと。
お嫁さんになる、なんてフォルセスの女の子なら誰でも夢見ること。でも、リャンシで育ったリンリンには、叶えがたかったこと。
「……そうか。俺が誰を選ぶかなんて俺にもまだ分からないが……応援しているぞ、リンリン」
「ありがと」
今日一番のきれいな笑顔で、リンリンは笑った。
「……でも、ちょっと遅くないか?」
「何が?」
「いや、俺よりも年上で婚活中って……」
「あら、今日は私とお風呂に入りたいって? もう、積極的な公子様ねぇ」
「言ってない」
「ほらほら、遠慮しないで。体の隅から隅までこのリンリン姉様が洗ってあげるわぁ」
「お、おい、どこに手をかけている!」
「なーによ、年上のお姉様に体を洗ってほしいって、今言ったでしょ?」
「言ってない! ちょ、待て! 脱がすな!」
「うっふふふ、さぁて、一緒に背中流し合いましょうか? アーク君?」
「嫌だ! 離せ! そこに触るなーーーーー!」
大魔術師の家の夜は、にぎやかに更けていった。




