せっかく夫と甘いひと時を過ごしていたのに今更聖女と言われても…ねえ?
オーガスト王国からほど近いクアラパーツは一応王国領という事になっているが、廃墟地と揶揄されるほど荒れ果てていた。
なぜなら、王国内ではその存在は駆逐されたとされ姿を見せなくなって久しい魔物が頻発するからだ。もちろん、海も常に荒れ狂いとてもではないが船をつける事も出来ない。だから、王家はいつの頃からかクアラパーツから目を背け、地図からも抹消していた。しかし、それも半年前までの話。
「穏やかですわね」
シンプルなれど上品な装いで優雅にマカロンを口に運ぶ赤い髪の女。
場所はクアラパーツ領主夫妻が住まう屋敷。
「すべてはマトリエルのおかげだ」
「ふふ。ザハルート様ったら相変わらず口が上手いんですから」
傍らに寄り添う黒髪を靡かせた紫の瞳の青年はその整った顔をマトリエルに向けた。
その表情はどこまでも優しくて、甘い。
「俺は本心を言っているだけだ」
「もう。照れてしまうわ」
「そうやって、真っ赤な顔になるマトリエルも可愛いが俺としては少しは馴れて欲しいとも思うぞ。もっと、触れたいからな」
「そう言う所ですよ!」
今までの人生では味わった事のないほど、マトリエルは心底幸せを感じていた。
ザハルートとの穏やかな会話に胸躍る中、邪魔が入るようにプライベートな空間に転移魔法陣が出現する。現れたのは招かれざる客が二人。
かなりみすぼらしい恰好をしている若い男と女である。
「あら、エリオット殿下ではありませんの。一体、どうなさったの?」
オーガスト王国の王太子はやせ細り、その麗しい金髪は抜け落ちていた。陶器のように美しかった肌も荒れ果て、艶もない。それでもかろうじて面影を残す姿に思わずマトリエルは目を真ん丸にした。そして、その傍らに寄り添い、俯いているのは聖女と呼ばれていたマトリエルの二つ下の妹、ジュゼだ。手入れに余念がなかったオレンジの髪は短く切られ、ボサボサである。さらに足は泥だらけでもある。
「やっと。会えた。頼む。マトリエル。すぐに王国に戻ってくれ」
藪から棒になんだと思った。
マトリエルはオーガスト王国において王家に次ぐ名門、オフィーリス公爵家の娘であった。
故に生まれた時から歳の近かったエリオットとの婚姻が決められていたのだ。
幼い頃のエリオットはそれは可愛かったし、マトリエルにも優しかった。
共に王国の未来を築いていこうと約束もした。だというのに、マトリエルが十歳になった年に母が病死してからすべてが変わってしまった。父の愛人だった継母とその娘たるジュゼが屋敷に来たのだ。母を愛していたと思っていた父に他にも女性がいたのには驚いたが、貴族の中にはそうした人間も多いと言い聞かせて妹を受け入れた。ジュゼは美人系のマトリエルとは異なり、愛らしい見た目の可憐な少女であった。さらに言えば、ジュゼは魔法の才に長けたオフィーリス家の中でも群を抜いて魔力が高かった。だから、数百年周期で選ばれる聖女には彼女が選ばれると一族の人間も王家も誰もがそう思っていたのだ。だから、エリオットが恋焦がれるのも仕方がないのかもしれない。
「なぜ、お前が私の婚約者なのだろうな。ジュゼならよかったのに」
面と向かってそんな事を言われて傷つかないとでも思っているのだろうか。
「ああ。ジュゼ。聖女が私の伴侶なら良かったのに。今からでも遅くない。マトリエルとの婚約を破棄して、お前と婚約しようか」
「嬉しいわ。エリオット」
マトリエルがそばにいるというのにまるで見せびらかすように逢瀬を重ねる二人に涙を流した事だって一度や二度ではない。その時に自分はエリオットが好きなのだと痛感もさせられた。何より悔しいのはジュゼがエリオット以外の男達とも関係を持っているのを知っていてもなお何も出来なかった事だ。
真実をエリオットに伝えようかとも思ったが、彼はマトリエルの言葉には耳を傾けてはくれない。こんな苦しい思いをするなら、いっそのことこちらから婚約破棄しようかとも思った。しかし、父に相談したところで首を縦には振ってくれなかった。
古いしきたりで王家に嫁ぐのは長子でなければならないという約束が成されていたからだ。
その理由はマトリエルにもよく分からない。けれど、継母とジュゼにはそれらが許せなかったのだろう。ある時から身に覚えのない男遊びの噂が飛び交うようになった。その相手はどれもジュゼの相手であった。そして、ジュゼへの嫌がらせの告発まで出される始末。
マトリエルは反論したかった。むしろ、ジュゼにあたり散らされていたのはマトリエルの方だ。妹は姉より魔力が高い事を鼻にかけ、無能な姉だと蔑んできた。
本来なら公爵家の娘として対等であるはずなのに、ぞっこんの継母の手前、お父様も使用人達も誰も味方にはなってくれなかった。
そして、訪れた王太子の二十歳の誕生日パーティでマトリエルは彼らにありもしない悪評で糾弾されたのだ。
「お前みたいなふしだらな女が未来の王妃とはありえん。その顔を二度と見せるな!」
「お姉さま。安心して。エリオットには私がついてるから。でも、私はどんなお姉さまも大事に思ってるわ」
涙を流すジュゼに人々はなんて、お優しい方だと噂する。
「だが、よく聞け。俺だってお前の事を突き放す事はしない。その醜い心が少しでも更生出来るように願って、クアラパーツの廃墟伯に嫁ぐという名誉を与えてやろう」
王太子の高らかな宣言に野次馬の声は大きくなる。
――「あの魔物の巣窟にオフィーリス家の人間を?」
――「クアラパーツを治めている廃墟伯は魔物の血を引いているというじゃないの」
――「何より、あそこは王国領内でしたかしら?」
様々な憶測が会場を包み込む。
ジュゼはゆっくりとマトリエルに歩み寄った。
「廃墟伯に喰われてしまえばいいのに。ふふっ!」
ジュゼの囁きが耳をかすめたけれど、マトリエル以外に誰にもその声が届く事はなかった。
こうしてマトリエルはクアラパーツの領主、ザハルートに嫁ぐ事になったのだ。
マトリエルだって彼に関する噂を耳にしていた。
魔物と血の契りを交わしたから王国内には姿を見せなくなった魔物が横行しているのだとか、主食は人間であるとか。その見た目は怪物であるとかいろいろである。
だが、実際にあったザハルートはそのどれにも当てはまらなかった。
横行する魔物の討伐にまい進し、常に民の事を思っている。かと思ったら、涙もろくもあり、マトリエルに抱き枕をしてもらわなくては眠れないような人でもあった。そして、何より、マトリエルを人として妻としてきちんと向き合ってくれたのだ。共に歩んでいきたいとも言ってくれた。そんな人だから、マトリエルもクアラパーツのために何かしたいと思ったのだ。ジュゼほどの魔力はないにしろ、一般の魔法師に比べてば十分と実力はあった。だから、ザハルートと共に魔物討伐に出て、腐った大地を癒して回った。そうしているうちになぜだか魔物の数は減っていき、半年も経つと魔物は姿を消したのだ。
ザハルートはマトリエルのおかげだというけれど、彼やその家臣方の長年の活動が実を結んだのだ。マトリエルはそう思っている。そして、充実もしていた。
だから、今さら戻って来いとはどういう了見だ。
今更言われても…ねえ?
「クアラパーツも王国領だと記憶していましたが?」
マトリエルはザハルートに目配せする。
「そうだ。我が領土は王国の物だと認識していたが?」
ザハルートの眼差しはかなり冷たい。
だが、マトリエルを抱き寄せるその手は優しい。
「誰だお前は!」
「酷いですわ。私の夫に向かって」
「はぁ?こいつが?あの?」
エリオットの間抜けな声が部屋に消えていく。
「嘘よ。こんな美形が。そんな…。これなら、私が…」
「どういうことだ?ジュゼ?」
「何でもないわよ」
爪を噛みながら苦虫を噛みしめたような顔を浮かべるジュゼ。
今思えば、彼女が関係を持っていた男達も顔がよかった。
異母妹は美形に弱いようだ。
ザハルートはゆっくりと立ち上がろうとする。その瞳には殺意がにじみ出ており、エリオットたちは思わず喉を鳴らした。
だが、マトリエルがザハルートのローブの裾を握り、制する。
「折角の訪問ですもの。お話ぐらいは聞いてあげてもいいですよ。まあ、約束もなく踏み込んできたのは怒ってますけれどね」
「マトリエル。お前は優しいな。だから、聖女に選ばれたんだろうな」
「はい?聖女はジュゼでしょう?」
「いや、選ばれたのはお前だ。マトリエル」
聖女とは初代聖女が神聖な魔力を持つ初代国王と共にあみ出した王国を守る結界の修復を担う女性の事を指す。数十年に一度、綻びが出たタイミングで教会が保管している初代聖女が残した魔法具たる魔水晶にその姿を映すのである。オフィーリス公爵家からも数多の聖女が誕生してきた。そして、どの女性も高い魔力を有していた。だから、この時代の名誉ある職はジュゼだと本人も家族もそう思っていたのだ。
「魔水晶に私の姿が映ったのですか?」
マトリエルは意外と言いたげに口を押えた。
「ふっ!当然であろうな。クアラパーツを穏やかな地に作り変えたのはマトリエルなのだから」
ザハルートは愛おしげにマトリエルの髪を指で遊ぶ。
「もう。ザハルート様ったらすぐにそうやって私を甘やかすんですから」
「どうあってもお前を甘やかしたくなるのさ」
恋人達の戯れを前にジュゼの顔は怒りで真っ赤になっていく。
「殿下。やっぱり、この女が聖女だなんて何かの間違いよ。もう一度、選出の儀を!」
「ジュゼ。口を慎まないか。お前のわがままに付き合って二十回もやったじゃないか」
「だって…。おかしいじゃない!私が聖女のはずなのに!」
ジュゼは拳で何度も床をその拳で叩く。
「人様の屋敷を殴るような真似はやめてもらえます?」
「どうして、あんたなのよ!魔力も低いくせに」
「低いっていうのは酷い言い草だわ。たしかに潜在的は魔力はジュゼの方が高かったとは思うけれど魔法の技術ってそれだけではないはずよ。実際、過去には微々たる魔力でも最高ランクの魔法師になった方なんてごまんといるわ。そんな事、ジュゼだってよく知ってるはず…」
マトリエルの言葉にジュゼは初めて聞いたとでも言いたげに目を大きく見開いた。
「まさか、知らなかったの?こんなの魔法史の中でも初級よ?ああ、ジュゼ。私は以前に忠告したわよね。魔力が高いからって鍛錬を怠ったら大変な事になるって」
ジュゼが妹として現れてから一年ぐらい経ってから言った言葉だ。だが、この妹はマトリエルが自分に嫉妬しているのだと泣きわめき父や継母に泣き付いた事は今も記憶にはっきり残っている。
そう言えば、あの時は妹へのいじめだと父に決めつけられて一週間ほど屋根裏部屋に閉じ込められたっけ?
思い出しただけで、なんだか、胸が痛くなる。
トラウマっていうのはそう簡単には消えないのだろう。
そう思っていると震える手に暖かな温もりが広がっていく。
ザハルートの大きな手が重なっているのだ。
「マトリエルの魔法は誰よりも優しくて暖かくて強い。それは俺やこの領地の人間なら誰だって知っている。聖女に選ばれるのも当然だ」
「ザハルート様」
「勝手に我が屋敷に踏み入った挙句に我が妻を愚弄するとは万死に値する。このまま、立ち去らぬというなら牢屋に放り込んでやるが?」
ザハルートは無言で控えていた武装執事たちに合図を出す。
筋骨隆々で戦闘能力の高いこの屋敷の執事達はこれまた冷たい表情で招かれざる客達を抑え込もうと動き出す。
「ま…待て。王国は今、大変なんだ。数百年ぶりに街中に魔物が大量発生しているんだ」
「まあ。それはお気の毒に」
「聖女のお前が早く結界を補強してくれなきゃ、その内、死人が出るかもしれない」
「ですが、私に何の関係が?」
「冷たい事を言うなよ。お前は私の婚約者だろう?未来の王妃じゃないか!」
この男はアホなのだろうか?
婚約破棄したのはお前だろうが!
マトリエルはこれが王国の王太子だとは嘆かわしいと思った。
「ちょっと、どういう事よ。私が婚約者でしょ!」
「ジュゼ。何度も言ったじゃないか。どんな事をしてもマトリエルを連れて帰らなきゃ俺達に明日はないって」
「だからって、この女をまた婚約者にするだなんて、私、嫌よ!」
「うるさい!黙ってろ!聖女だって言うから可愛がってやったのに。お前のせいで窮地に立たされてるんだぞ!このままだったら、王太子からも降ろされかねない」
「こっちだって、お父様に睨まれてるのよ!この女…お姉さまを縄で縛ってでも連れて帰らなきゃお母様共々、家を追い出されちゃう」
喚き散らすエリオットとジュゼ。
「ああ!なんでこんな事に。クソ!お前が死んでくれれば、私が聖女だったかもしれないのに。廃墟伯も噂とは似ても似つかないし!クソッ!ぐえっ!」
エリオットはジュゼの頭を抑え込んだ。
「頼む。ジュゼは黙らせるから王国に戻ってくれ。聖女なんだから」
「随分、虫が良い事ね。ジュゼとの会話を元に推測すると噂は本当だったようね」
「噂?何の話だ」
「王国内に魔物をおびき寄せたのはエリオット殿下でその事を国王陛下は大層お怒りである。さらに国民からは王家への不信感も高まっていると。まさか、私を追い出したのが原因だとは思いませんでしたけれどね。おそらく、陛下に泣き付いて私を連れ戻したら不問に付してもらうつもりなんでしょう?」
「そうだ。お前を連れ返らなきゃ俺は廃嫡されてしまう。頼むから助けてくれ」
「やれやれ。どこまでもご自分が一番なのね。嘘でも“国民のために”とでも言えば、私だって心動いたかもしれないのに」
「ああ。国民のためにだ!」
「もう遅いわよ。大体、結界の修復って聖女でなくても出来るんでしょう?」
確かに結界を張った初代聖女が作った魔水晶が選び出した女性達は結界の魔力と相性が良い。故にその修復も一日で済む。だが、通常の魔法師でも作業は出来るのだ。
数十年はかかるだろうが、王国には名だたる魔法師が数多くいるのだ。力を合わせれば一年もすれば完了するだろう。
「何を言っているんだ。我が国において、聖女は絶対だ。そんな事、マトリエルだって分かっているだろう?」
「確かに初代聖女様は救世主だったのかもしれませんけれどね。それを後々の者達に押し付けるのは違うんじゃありません?実際、私は聖女だと思われていたジュゼと比較されて嫌な思いをしてきたんですから」
「だから、そんな事態はもう二度とないんだよ!」
「おかえりください!話す事は何もありません。私はクアラパーツの廃墟伯の妻。王国領とはいえ、王家からの恩恵は何もなかったんですから他国という扱いで構いませんわよね」
マトリエルはザハルートを見た。
「ああ。そうだな。地図すら抹消されてるんだ。その認識でいいだろう」
その間もエリオットに頭を抑え込まれたジュゼは何か言っているが言葉になっていない。
「こんなに頼んでいるのにか!こうなったら、ジュゼが言った通り、力づくって連れ返るだけだ!」
エリオットは黄金に輝く魔力を練り上げた。さすがに腐っても王国の王族。放たれる雷の鎖はまっすぐにマトリエルに向けられる。だが、それが彼女に届く事はなかった。
素手でザハルートに掴まれたからだ。
そして、一瞬の内に粉々に弾け飛ぶ。
「なっ!」
「黙って聞いていればヘドが出る。よほど殺されたいらしい!」
「そんな馬鹿な。俺の魔法が!神聖な力なんだぞ!」
ザハルートはマトリエルの腰に手を回す。
「この際だから教えてあげるわ。王家がザハルート様の一族を廃墟伯だの呪われているなどと言って蔑んだのはご自分達の魔法を無力化させてしまうからよ。だから、王国領であっても迫害してきたの。まあ、よく言えば、手が出せなかったんでしょうね。長らくその領内を結界外に追い出していたのは自滅を狙っての事だったのでしょう。ですが、おあいにく様、クアラパーツはこうして平和です」
「あっ…あああっ!」
エリオットはその場で膝をついた。
「よくもこの私の綺麗な顔を床に押し付けてくれたわね」
エリオットの手が緩んだのを見計らってジュゼは婚約者の頬を思いっきり平手打ちした。
だが、半ば気絶しているエリオットはその痛みすら感じていないようだ。
「ちょっとっ!何するのよ!私は聖女なのよぉ!」
そうして、未だ聖女の夢を見ているジュゼと言葉を発しなくなったエリオットは武装執事達に腕と腰を掴まれて、領地外に放りだされるのであった。
後に流れてきた噂によるとエリオットは廃嫡どころか平民落ちさせられ、魔物討伐に駆り出されているらしい。陛下も我が子に酷な事をなさると思ったが、エリオットが言った通り聖女信仰が根強い国民達の感情を逆なでしないためであろう。何より、自分達の庇護下に置くはずだった聖女を追い出した教会も黙ってはいない。これを発端として、王家に刃を向けるかもしれないと思えば安い処置とも言える。
そして、ジュゼは父たるオフィーリス公爵からの許しを得られずにかなり辺鄙な所にある修道院に送られたらしい。その近くには凶悪犯が送られる鉱山があるのだが、果たして彼女は無事なのだろうか?
なお、オフィーリス公爵は一族から聖女であるマトリエルへのこれまでの態度を糾弾され、当主の座を降ろされたらしい。今は名も知らぬ親戚がその後を継いでいるようで、継母も追い出されたと聞く。
もしかしたら、オフィーリス家と王家の間に交わされた長子のみを嫁がせるという約束事もマトリエルが聖女であるのと関係していたのかもしれない。
しかし、そんな話もマトリエルには関係ない話だ。
「邪魔が入ったが、これからは二人だけの時間だ」
「ふふっ!ザハルート様ったら本当に甘えん坊なんだから」
「マトリエルに甘えられるのは俺だけであって欲しい」
「ええ」
ザハルートはマトリエルを抱きかかえて、寝室へと向かうのであった。
聖女?
もしこの先、その名を名乗る日が来るならすべてはザハルート様とクアラパーツのために。
今日もクアラパーツは平和である。
お読みくださりありがとうございます。




