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第9話 骨が覚えている

骨というものは不思議だ。


筋肉は疲れれば痛み、皮膚は傷ついてもやがて治る。


だが骨はそれだけではない。


人がどんな姿勢で生きてきたのか、どんな癖で体を使ってきたのか。


長い時間をかけて静かに形を変えながら、そのすべてを覚えている。


レントゲンには映らない癖が、骨には残る。


恒一はそう思っている。


その日の午後、接骨院の扉が開いた。


「すみません」


男はゆっくり歩いて入ってきた。


作業着姿の四十代くらいの男だった。


無理に普通を装っているような歩き方だった。


痛みをかばう人間の動きは、見れば分かる。


恒一は受付越しにそれを見ていた。


顔色は悪くないが、どこか疲れた表情をしている。


「腰ですか」


恒一が聞くと、男は苦笑した。


「そうなんですが……」


診察ベッドに座る。


「変なんです」


「変?」


「痛み方が」


男は腰を押さえた。


「急に来るんです」


「どんなときに」


「橋の近くを通ると」


恒一の手が少し止まった。


「橋?」


「ええ。家の近くに古い橋があるんです」


恒一は男の背後を見た。


誰もいない。


だが空気が少し重い。


恒一は腰に手を当てた。


その瞬間。


――水の音。


耳の奥で、水が流れる音がした。


ぽたぽた落ちる音ではない。


川の音。


夜の川の音。


冷たい水がゆっくり流れている。


視界が揺れた。


橋。


古い木の橋。


夜。


男が立っている。


足を踏み外す。


水に落ちる。


恒一は目を閉じた。



視界が戻る。


接骨院の天井。


ウォーターベッドの音。


いつもの院内。


男が不思議そうに言った。


「どうしました」


恒一は静かに聞いた。


「その橋で、誰か亡くなっていませんか」


男は驚いた。


「……祖父です」


恒一はうなずいた。


「いつ頃ですか」


「三十年前です」


男は遠くを見るような目をした。


「夜に川に落ちて」


恒一は腰を押した。


骨が固い。


原因は筋肉だけではない。


もっと深い場所だ。


「よくその橋を通りますか」


「毎日です」


男は苦笑した。


「通勤路なので」


恒一は少し考えた。


骨が覚えている。


人の体は、過去を忘れない。


血の記憶。


土地の記憶。


家族の記憶。


恒一はゆっくり腰を整えた。


骨の位置を整えるように、筋肉をゆるめる。


そして小さく言った。


「もういいですよ」


男は驚いた。


「え?」


恒一は腰を軽く叩いた。


「祖父さんに言っておきました」


その瞬間。


橋の映像がもう一度浮かんだ。


川の上。


老人が立っている。


濡れた服。


静かな顔。


何も言わない。


ただ孫の背中を見ている。


長い間そこに立っていたような顔だった。


やがて小さくうなずき、


川の霧の中へ消えていった。


恒一は目を開けた。


接骨院の天井。


男が腰を回している。


「……あれ?」


「どうしました」


「軽い」


男は驚いている。


「なんでだろう」


恒一は笑った。


「骨が覚えていただけです」


男は首をかしげた。


「骨?」


「ええ。人の体はいろいろ覚えています」


男は何度も腰を回した。


「嘘みたいだ」


帰り際、男は言った。


「先生」


「はい」


「今日、橋を通るのが楽しみです」


恒一はうなずいた。


「たぶん大丈夫ですよ」


男は笑って帰っていった。


 

その夜。


恒一はまた夢を見た。


おかっぱ頭の少女。


少女は橋の上に立っている。


川を見ている。


振り返り、恒一を見る。


何かを言う。


恒一は耳を澄ませた。


ほんの一瞬だけ声が聞こえた。


――覚えてる。


目が覚めた。


枕元の時計は午前三時。


恒一は天井を見ながらつぶやいた。


「……骨か」


人は忘れる。


忘れるから生きていける。


だが体は忘れない。


もっとも静かな場所に記憶が残る。


痛みとして現れることもある。


夢として現れることもある。


恒一には、それが見えてしまう。


この町には、まだ多くの記憶が埋まっている。


そして時々、それを思い出す人がいる。


恒一の仕事は、ただ体を整えることだ。


だが、その奥にある記憶に触れてしまうこともある。


それが少し面倒なだけだった。


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