第8話 迎えの灯り
夜の病院は、どこか現実から切り離された場所のように感じることがある。
昼は人の出入りが多く、看護師の声や機械の音が絶えない。
だが夜になると静まり返る。
廊下は長く、照明は暗く、足音だけが響く。
駐車場にはほとんど車がなく、外灯だけが地面を白く照らしていた。
自動ドアが静かに開いた。
消毒液の匂いが鼻につく。
夜間受付の窓口には警備員が一人座っていたが、声をかけることもなく軽く会釈をするだけだった。
恒一はその廊下を歩いていた。
接骨院を閉めてから向かったのは、車で二十分ほどの総合病院だ。
夕方、一本の電話がかかってきた。
「祖母が入院していて……」
電話の主は女性だった。
「先生に診てもらった腰が、また痛いって」
本来、入院患者の施術は接骨院の仕事ではない。
病室での施術は原則として難しい。
だが家族の強い希望で、担当医師の許可も出ているという話だった。
恒一は治療道具を持って病室へ向かった。
四人部屋の奥のベッドに老婦人が横になっていた。
「先生?」
付き添いの女性が立ち上がった。孫だそうだ。
「神谷恒一です」
老婦人はゆっくり目を開けた。
「接骨院の先生かい」
「はい」
恒一はベッドの横に座った。
その瞬間だった。
窓の外に、灯りが見えた。
ぼんやりとした、白い灯り。
最初は街灯かと思ったが違う。高さが違う。
灯りは窓の外の空中に浮かび、提灯のようにゆっくり揺れている。
恒一は視線を窓から外した。
家族は気づいていないが、老婦人だけが窓を見ていた。
「きれいだねぇ」
孫が振り返る。
「何が?」
「灯り」
孫は首をかしげた。
「何もないよ」
恒一は老婦人の腰に手を当てた。
骨盤は少し傾いている。
長く寝ているせいで筋肉が落ちていた。
触れていると、身体の衰えとは別に、どこか遠くへ引かれていくような静けさを感じる。
時間が静かに閉じていく気配。
こういう感触を、恒一はこれまで何度も経験していた。
ゆっくりと腰を整える。
老婦人は窓を見たまま言った。
「先生」
「はい」
「あれは何だろうね」
恒一は少し考えた。
「迎えかもしれませんね」
孫は笑った。
「またそんなこと」
だが老婦人は静かにうなずいた。
「そうかもしれないね」
灯りはゆっくり増えていく。
一つ現れ、その横にまた一つ並ぶ。
誰かが順に並べているようだった。
窓の高さに合わせるように、同じ位置で揺れている。
音はしない。
恒一は何も言わない。
老婦人は灯りを見つめている。
その目は、不思議と穏やかだった。
「懐かしいね」
老婦人は言った。
「昔、お盆に提灯を灯したんだよ」
孫は微笑んだ。
「そうなんだ」
「帰ってくる人が迷わないように」
恒一は窓の外を見た。
灯りは増えている。
五つ、六つ。
静かに浮かんでいる。
まるで道を作るように。
治療を終えた。
「少し楽になります」
老婦人はうなずいた。
「ありがとう」
そして窓を見たまま言った。
「まだ行かないよ」
灯りは揺れたが消えない。ただ静かに浮かんでいる。
恒一は荷物をまとめた。
帰り際、孫が言った。
「先生、ありがとうございます」
「いえ」
「祖母、最近よく窓を見てるんです」
恒一はうなずいた。
「見えているのかもしれません」
孫は少し不思議そうな顔をした。
その夜。
恒一は接骨院の前で空を見上げた。
遠くの病院の方に、小さな灯りがいくつも浮かんでいる。
そしてその中心に、一つの影が立っていた。
老婦人。
まだそこにいる。
灯りはその周りを囲むように揺れている。
恒一は小さくつぶやいた。
「まだなんですね」
灯りは消えず、ただ待っている。
三日後。
電話がかかってきた。
「祖母、亡くなりました」
孫の声だった。
「昨日の夜です」
恒一は空を見た。
病院の方向。
そこにはもう灯りはない。
ただ夕方の空が広がっているだけだった。
その夜。
恒一はまた夢を見た。
おかっぱ頭の少女。
少女は暗い場所に立っている。
少女の足元にも灯りがあり、宙に浮いたまま静かに並んでいる。
少女はそれを見回し、ひとつひとつ確かめていた。
まるで道を間違えないか見ているようだった。
少女はそれを指さして何かを言う。
恒一は耳を澄ませた。
やはり声は聞こえない。
だが唇の形が読めた。
――迷わないように。
目が覚めた。
窓の外はまだ夜明け前だった。
恒一は静かに言った。
「……そういうことか」
人は一人で行くわけではない。
迎えが来て、灯りが道を作り、誰かが見送る。
この町には、まだたくさんの灯りがある。
恒一にはそれが見えてしまう。ただ、それだけのことだ。




