第7話 天井の客
人が亡くなる前には、空気が少し変わることがある。
恒一はそれを何度か見たことがあった。
特別なことではない。病院や介護施設で働く人なら似た経験をしているだろう。
部屋の空気が静かになり、時間がゆっくり流れるように感じる。
ただ、恒一の場合は少し違う。見えてしまうのだ。
その日の午後、一本の電話が接骨院にかかってきた。
「出張で来てもらえますか」
声は若い男だった。
「祖父なんですが……寝たきりで」
恒一はメモを取りながら聞いた。
「腰ですか」
「ええ。ずっと痛がっていて」
住所は接骨院から車で10分ほどの住宅街だった。
恒一は治療道具を車に積み、向かった。
その家は古い木造の平屋だった。
玄関を開けた瞬間、線香の匂いが残り、空気が少し重かった。
若い男が出てきた。
「先生ですか」
「神谷接骨院の神谷です」
男は少し安心したような顔をした。
「祖父、奥です」
部屋に入ると、布団の上に老人が寝ていた。
九十近いだろうか。
やせ細った体。
だが目はまだしっかりしている。
「先生か」
老人は小さく笑った。
「はい」
恒一は布団の横に座った。
その瞬間。
すぐに気づいた。天井にいる。
部屋の隅。
天井の梁のあたりに、影のようなものが立っている。
二人。いや、三人かもしれない。
古い服を着た男たち。
軍服のようにも見える。
ぼんやりした人影が、静かにこちらを見ている。
恒一は視線をそらした。
家族は誰も気づいていない。
老人だけが、天井を見ていた。
そして、ぽつりと言った。
「おぉ」
孫が振り返る。
「どうした?」
老人は天井を見たまま言った。
「また来たのか……」
孫は苦笑した。
「まただよ」
恒一は聞いた。
「よくあるんですか」
孫はうなずいた。
「最近よく天井に話しかけるんです」
老人は小さく笑った。
「知り合いだ」
恒一は天井を見た。
影は動かない。
ただ立っている。
まるで順番を待っているようだった。
「腰、見ますね」
恒一は老人の腰に手を当てた。
骨は弱っている。
筋肉も固い。
だが、それ以上に感じるものがあった。
時間の重さだ。
長く生きた人には独特の重さがある。
恒一はゆっくりと腰を整えた。
老人は天井を見ながら言った。
「先生」
「はい」
「見えるのか」
恒一は少しだけ笑った。
「少しだけ」
老人はうなずいた。
「そうか」
そして天井を指した。
「昔の連中だ」
恒一は何も言わなかった。
老人は続けた。
「戦争でな」
老人は天井を見たまま、静かな声で言った。
「若い頃、一緒に行った奴らだ。みんな先に行っちまったんだ」
天井の影は動かない。
ただ待っている。
「迎えに来てるんだ」
老人は笑った。
怖がる様子はない。
むしろ、懐かしそうだった。
恒一は腰を整え終えた。
「少し楽になりますよ」
老人はうなずいた。
「ありがとう」
荷物をまとめて帰ろうとしたとき、老人が言った。
「先生」
「はい」
「まだ帰らん」
恒一は笑った。
「そうですね」
老人も笑った。
それから3日後。
孫から電話があった。
「祖父、亡くなりました」
静かな声だった。
「今朝です」
恒一は天井を見上げた。
接骨院の白い天井。
そこには何もいない。
「そうですか」
電話を切ったあと、恒一は窓の外を見た。
夕方の空だった。
そのとき。
接骨院の前の道を、数人の影が歩いていった。
古い軍服の男たち。
靴の音はしないが、歩いているのが分かる。
その後ろを、あの老人が歩いている。
背筋を伸ばし、腰ももう曲がっていない。
恒一は小さく頭を下げた。
「お疲れさまでした」
影は振り返らない。
ただ静かに歩いていく。
夕方の光の中へ。
その夜。
恒一はまた夢を見た。
おかっぱ頭の少女。
少女は空を見上げている。
その上に、いくつもの影が浮かんでいる。
ゆっくりと、どこか遠くへ流れていく。
影が遠ざかり、少女は手を振っていた。
そして恒一のほうを見て、何かを言う。
恒一は耳を澄ませた。
だが、声はやはり聞こえない。
唇の形だけが読めた。
――ちゃんと迎えに来るんだね。
恒一は目を覚ました。
枕元の時計は午前4時。
まだ外は暗い。
恒一は天井を見ながら、静かにつぶやいた。
「……来るな」
その声は、どこか優しかった。
この町にはまだたくさんいる。
順番を待つ者、帰れない者、そして迎えに来る者も。




