第5話 犬が吠える玄関
犬という生き物は、人より先に何かに気づくことがある。
人には見えないものに反応することがある。
何もない空間に向かって耳を立てたり、低くうなったり、一点をじっと見つめたりすることがある。
恒一はそういう場面を何度も見てきた。
接骨院には犬を連れて来る患者も時々いる。
散歩の途中に寄る人もいれば、家族のように抱いてくる人もいる。
そういう犬は、院内のある場所をじっと見つめることがある。
人には何も見えない。
だが犬は、低くうなる。
そこにはたいてい、何かがいる。
その日の午後、玄関の扉が静かに開いた。
「こんにちは」
顔を出したのは三十代くらいの女性だった。
玄関の横のリードフックに、中型の柴犬がつながれていた。
毛並みのいい柴犬で、まだ若いのか目がよく動く。
だが今は落ち着かず、玄関を見つめている。
「どうしました」
恒一が聞くと、女性は少し困ったような顔をした。
「腰なんですけど……」
女性は診察ベッドに座った。
犬は玄関の外で座っていたが、耳を立てて落ち着かない様子だった。
恒一は腰を触診した。
腰から背中にかけて筋肉が張っている。
「何か無理しました?」
「いろいろと片付けものが溜まってしまって」
「なるほど」
恒一は手を動かしながら聞いた。
「あの子のお名前は?」
「チョビです」
犬はその瞬間、ぴくっと耳を動かした。
そして。
玄関の中を見た。
じっと。
恒一もつられて玄関の方を見た。
誰もいない。
ガラス戸の向こうには、いつもの住宅街があるだけだ。
しかし恒一には見えた。
玄関の外に、男が立っている。
六十代くらいだろうか。
作業着姿。
長く庭仕事でもしていたような、古い服だった。
静かに建物を見上げている。
女性は気づいていないが、犬だけがそれを見ていた。
玄関の外から、チョビが低くうなった。
ぐるる、と喉を鳴らす。
「すみません」
女性は申し訳なさそうに言った。
「最近、玄関に向かってうなることが多いんです」
「玄関ですか」
女性は驚いた。
「そうなんです」
「夜ですか」
「ええ」
女性はため息をついた。
「夜になると必ず玄関で吠えるんです」
犬はまだ玄関の方を見ている。
恒一は男の影を見た。
男はただ立っている。
中に入りたいようで、しかし入れない様子だった。
「その家、最近引っ越しました?」
「はい」
「前の家は?」
「父の家です」
恒一の手が止まった。
「お父さん?」
女性はうなずいた。
「去年亡くなって」
恒一は玄関の外の男を見た。
男は建物の方を見上げている。
しかし入らない。
「お父さん、犬が好きだったんですか?」
女性は少し笑った。
「大好きでした」
「散歩も、餌も、全部父がやっていました。私より懐いてたくらいです」
犬はうなるのをやめた。
代わりに、じっと玄関の中を覗いている。
そして、尻尾をゆっくり振り始めた。
まるで、久しぶりに知っている人を見つけたように。
恒一は静かに言った。
「家に帰ってきてるみたいですね」
女性は笑った。
「そんなわけ……」
だが言葉が止まる。
犬が立ち上がったからだ。
チョビは玄関の外で立ち上がり、リードを引くようにして玄関のほうを見た。
男は建物の方を見上げている。
そしてチョビは、その場に座り込んだ。
尻尾をパタパタと振った。
恒一は窓の外を見た。
玄関の外で、男がしゃがんでいる。
犬の目線に。
そして、犬の頭を撫でる仕草をした。
犬は嬉しそうに目を細めた。
女性は首をかしげた。
「最近、玄関の前でこうなんです」
恒一は少し笑った。
「怒っている様子がないなら大丈夫ですよ」
女性は安心したように息を吐いた。
「近所に迷惑かけるんじゃないかと思って」
「そのうち吠えなくなりますよ」
恒一は男を見ながら言った。
「帰る場所を確かめているだけでしょう」
女性は苦笑した。
「父らしいです」
治療が終わり、女性は帰っていった。
犬は玄関の外で一度だけ振り返った。
そして。
空に向かって、小さく鳴いた。
恒一は接骨院の前に立った。
男はまだそこに立ち、静かに建物を見ている。
「もう大丈夫ですよ」
恒一は言った。
男はゆっくり振り向いた。
そして。
小さくうなずいた。
次の瞬間、姿は消えていた。
静かな夕方の風だけが通った。
その夜。
恒一はまた夢を見た。
おかっぱ頭の少女。
少女は玄関に立ち、帰る人を見送る門番のように見えた。
何かを見送っている。遠ざかる背中だった。
少女は小さく手を振った。
そして、恒一のほうを見て言う。
何かを。
恒一は耳を澄ませた。
だが、やはり声は聞こえない。
ただ、少女の唇がこう動いている気がした。
――ちゃんと帰れたね。
恒一は目を覚ました。
窓の外はまだ暗い。
恒一は静かに言った。
「……そうだな」
この町には、まだ帰れていないものがたくさんいる。
だから今日も誰かがやって来る。
腰が痛いとか、肩が上がらないとか。
そんな理由で。
そして時々、その後ろに何かが立っている。




