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第3話 午後3時の夫婦喧嘩

午後三時は、接骨院にとって少し奇妙な時間帯だ。


外の商店街では、シャッターを半分下ろした店が増えてくる。昼の賑わいが嘘のように静かになる時間だ。


接骨院でも、午前の患者が帰り、午後の常連が来るにはまだ早い。


一日の中で、ほんの少しだけ時間が止まったような静けさがある。


ウォーターベッドの水音だけが、規則正しく揺れている。


恒一はカルテを閉じて、背伸びをした。


そのときだった。


入口のガラス戸が勢いよく開いた。


「先生!」


声と一緒に、小柄な男が入ってきた。


五十代くらいの丸顔で、どこか落ち着かない様子だ。


「ああ、王さん」


恒一はすぐに名前を思い出した。


近くで中華料理屋をやっている店主だ。腰痛で時々通っている。


「今日はどうしました」


「いや腰じゃないんだよ!ちょっと相談あるよ」


王は椅子に腰掛けながら、頭を抱えた。


「うちの店、すぐ女房と喧嘩になるよ。先生、本当に困るあるよ」


「喧嘩?」


「毎日だよ先生!」


王は深いため息をついた。


「午後三時になると、必ず喧嘩になる」


恒一は少し首をかしげた。


「三時?」


「そう」


王は手を振りながら言う。


「二時半くらいまでは普通なんだよ。ランチ終わって、片付けして、仕込みして」


そして腕時計を見る仕草をした。


「三時ぴったり」


王は続けた。


「必ず喧嘩になる。昨日なんてな、餃子の仕込みしてるだけなのにさ」


両手を広げる。


「俺な、“皮ちょっと薄いじゃない?”言っただけ。それで大喧嘩なる。お客さんも帰っちゃうんだよ」


恒一は少し笑った。


「それは……夫婦の問題じゃないですか」


「違うよ!」


王は即座に否定した。


「最初はそう思ったんだよ。でもな」


声を落とす。


「三時前になると、なんか変なんだ」


「変?」


「空気がおかしい。重くて、少し寒い感じする」


王は腕をさすった。


「寒い感じ」


恒一の表情が、少しだけ変わった。


「それで?」


「俺もイライラするし、女房もすぐ怒るよ。言わなくていいことまで言うんだ」


恒一は少し考えた。


「その店、いつからですか」


「三年前」


「前の店は?」


王は肩をすくめた。


「潰れた」


「その前は?」


「それも」


恒一はペンを置いた。


「三時ですね」


「そうだよ」


王は腕時計を見た。


まだ二時四十分だった。


「店、近いですか」


「歩いて五分」


恒一は立ち上がった。


「ちょっと見に行きましょう」


王は驚いた顔をした。


「え? 来てくれるのかい」


「腰もついでに見ますか」


王の店は、古い商店街の端にあった。


赤い看板に「王家餃子」と書いてある。


店の中は昼の片付けが終わったところだった。


厨房から、王の妻が顔を出した。


「あら先生」


笑顔だ。


少なくとも今は、喧嘩の気配はない。


「どうも」


恒一は軽く頭を下げた。


そのときだった。


店内に入った瞬間、恒一は足を止めた。


なんだか空気がおかしい。


暑い日なのに、店の奥だけ温度が低い。


冷蔵庫を開けたときのような冷たい空気が足元を流れた。


恒一は無意識に腕をさすった。


そして。


聞こえてきた。


――怒鳴り声。


しかし店の中には怒鳴っている人はいない。


恒一は壁のほうを見た。


古い木の壁は、長い時間の間に油や煙を吸い込み、黒く変色している。


その奥に、まだ何かが残っている気がした。


そして、そこにいた。


二人の男。


ぼやけた影のような姿。


互いに怒鳴り合っている。


だが声ははっきり聞こえない。


昔の出来事の映像だけが、そこに残っている。


恒一は時計を見た。


二時五十九分。


そして。


三時。


その瞬間だった。


「だからお前は!」


王の声が突然大きくなった。


「何よその言い方!」


妻も負けていない。


店の空気が一気に荒れる。


恒一はため息をついた。


やはりだ。


これは夫婦の問題ではない。


土地の記憶だ。


恒一は王の肩を軽く叩いた。


「王さん」


「なんだっ!今忙しい!」


「ここ、昔何がありました?」


王は怒鳴りながら答えた。


「知らん!」


そのとき、隣の八百屋の老人が店を覗いた。


「先生、来てたのか」


「この店、昔何でした?」


老人はあっさり答えた。


「質屋だよ」


 恒一はうなずいた。


「借金取りが来てた」


老人は苦笑した。


「毎日喧嘩してたな」


それで話がつながった。


恒一は壁を見た。


影の男たちは、まだ怒鳴り合っている。


何十年も前の怒りが、建物に染みついている。


恒一は言った。


「王さん、ちょっといいですか」


「なんだよっ!」


「この壁、少し開けてもいいですか」


王はイラっとした顔で言った。


「好きにしてくれ!」


恒一は壁の古い板を外した。


すると、中から古い帳簿が出てきた。


紙は茶色く変色している。


帳簿の表紙には『質帳』と墨で書かれていた。古い油の匂いがした。


恒一はそれを閉じた。


その瞬間。


怒鳴り声が消えた。


店の空気が軽くなる。


王はぽかんとした顔で言った。


「あれ?」


妻も首をかしげる。


「……何してたんだっけ」


恒一は帳簿を持ち上げた。


「これ、寺に持っていきましょう」


王はまだ状況が飲み込めていない。


「なんでだ?」


恒一は少し笑った。


「昔の長い喧嘩が、まだ終わってなかったみたいです」


その日の夕方。


帳簿は近くの寺で供養された。


それから王の店では、3時の喧嘩は起きなくなった。



数日後。


王は接骨院に来て言った。


「先生、最近な」


「はい」


「女房と仲良いんだ」


恒一は苦笑した。


「それは良かった」


王は腕を組んだ。


「でもな」


「なんです」


「厨房の奥がたまに寒い」


恒一は空を見上げた。


建物に残るものは、ひとつとは限らない。



そしてその夜。


恒一はまた夢を見た。


おかっぱ頭の少女。


少女は何かを言っている。


その背後には、古い帳簿が見えた。


口だけが動いている。


そして。


ほんの一瞬だけ、声が聞こえた気がした。


――まだ、いるよ。


少女の背後には、暗い店の壁が見えた。


あの中華料理屋の壁だ。


そこにはまだ、誰かが立っている気配がある。

恒一は目を覚ました。


天井を見ながら、小さくつぶやく。


「……どこにだ」


答えはない。


だが恒一は知っている。


明日もまた、誰かの後ろに何かが立っている。


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