第2話 タオルのようなもの
春先の午前中は、接骨院がいちばん落ち着く時間帯だ。
常連の佐藤さんが新聞をめくる音がした。
「先生、今日は暖かいな」
「春が近いですね」
通勤ラッシュも終わり、家事をひと段落させた人たちがぽつぽつと来院する。神谷恒一の接骨院でも、いつもの顔ぶれが入れ替わりながら治療を受けていた。
ウォーターベッドが静かに揺れている。
受付の横では電気治療器が規則正しい電子音を鳴らしていた。
恒一はカルテを書きながら、ふと入口のガラス戸に目を向けた。
少し落ち着かない様子の女性が立っていた。
「すみません……」
控えめな声だが、どこか困り切った響きがあった。
恒一はペンを置いた。
「どうぞ。初めてですか?」
「はい。あの……体の痛みじゃないんですけど」
女性はそう言って、申し訳なさそうに頭を下げた。
こういう言い方をする人はだいたい二種類いる。
本当に身体の相談だけの人か、あるいは身体以外の何かを抱えている人だ。
恒一は受付の椅子をすすめた。
「とりあえず座ってください。お話だけでも大丈夫ですよ」
女性は30代半ばくらいだろうか。少し疲れた顔をしている。
その女性は椅子に腰掛けると、スマートフォンを取り出した。
「父のことで……相談なんです」
「お父さん?」
「認知症なんです。最近ひとり暮らしになってしまって」
女性は画面を操作しながら続けた。
「心配なので、部屋の中に防犯カメラをつけたんです。ひとりの時の様子を確認できるように」
恒一はうなずいた。
今は珍しくない話だ。
「それで……これなんです」
女性はスマートフォンを差し出した。
再生された動画は、暗い部屋の映像だった。
カメラは天井の隅から室内を見下ろしている。
映像の右上には時刻が表示されていた。
02:13。
ベッドで老人が眠っている。
しばらく何も起こらない。
老人の寝息だけが、かすかに聞こえる。
その時だった。
カメラの端で、何かが揺れた。
画面の中央に、何かがふわりと浮かんだ。
白いものが……。
タオルのようにも見える。
長さは三十センチほどだろうか。
それが、空中をゆっくり舞っている。
ひらひらと、まるで水の中に漂う布のように。
ぼそっと女性が言った。
「これ、何だと思いますか……?」
恒一は動画をもう一度見た。
昔から、こういうものを見ることがあった。
子供のころは人に言うと気味悪がられた。
だから今では、できるだけ深く考えないようにしている。
すぐに分かった。
これは布ではない。人魂でもない。
形が違う、質感も違う。
これは……、髪の毛だ。
束ねられた、長い髪。
恒一はスマートフォンを返した。
「この家には、お父さんのほかに誰かいますか」
「いいえ。父親だけです」
「お母さんは?」
その言葉に女性の表情が少し曇った。
「3年前に亡くなりました」
恒一はゆっくり息を吐いた。
「髪、長い人でしたか?」
女性は目を丸くした。
「え……はい。長かったです」
やはり。
恒一は腕を組んだ。
「動画に映っているのは、タオルじゃないと思いますよ」
「えっ?」
「おそらく髪の毛だと思います」
女性は言葉を失った。
しばらくして、小さく言った。
「そんな……」
「その髪、家のどこかにありませんか」
女性は考え込んだ。
そして、ふと思い出したように顔を上げた。
「押し入れに……箱があります」
「箱?」
「母の遺品なんです」
恒一は立ち上がった。
「お父さんの家、近いですか」
「車で10分くらいです」
「じゃあ、今から行きましょう」
女性は驚いた顔をした。
「え、いいんですか」
「放っておくと、たぶん続きますよ」
恒一は白衣を脱いで、車のキーを取った。
こういうものは、早いほうがいい。
その家は古い木造の平屋だった。
庭の手入れはされているが、どこか静まり返っている。
女性が玄関を開ける。
「父さん、いる?」
奥から声が返ってきた。
「おう」
老人は居間の座布団に座っていた。
テレビを見ている。
恒一はその後ろを見た。
いた。
白いものが、ゆっくり漂っている。
長い髪。
女性の母親のものだ。
そして老人は、空中に向かって手を伸ばしていた。
老人の指先が、空中の何かをなぞっていた。
ゆっくりと、ゆっくりと。
まるで誰かの髪を梳くように。
老人は微笑んでいた。
女性は気づいていない。
恒一は静かに言った。
「押し入れ、見せてもらえますか」
女性はうなずいた。
押し入れの奥から、小さな木箱が出てきた。
中には、白い紙に包まれた髪の束。
長く、美しい髪。
恒一はそれを見て言った。
「お母さんのですね」
女性は黙ってうなずいた。
「母は……髪が自慢だったんです」
女性は小さく笑った。泣いているようにも見えた。
「美容院にも行かないで、自分で手入れをしていて……切って取っておいたんです。亡くなる前に」
恒一は少し考えた。
「供養したほうがいいと思います」
女性は戸惑った。
「でも……」
「悪いものではないです」
恒一は言った。
「ただ、このままでは、お父さんが戻れなくなる…と思います」
女性は黙ったまま髪の束を見つめていた。
やがて、小さくうなずいた。
その日の夕方、女性は近くの寺でその「髪」を供養してもらった。
そして、家に戻ると、空中の「髪」は消えていた。
老人はテレビを見ながら言った。
「今日は来なかったなあ」
突然の父親のことばに女性はぎくりとした。
「えっ、誰が?」
老人は首をかしげた。
「誰だろうな」
それ以上は何も言わなかった。
数日後、その女性が接骨院を訪ねてきた。
女性はおもむろに恒一に頭を下げた。
「ありがとうございました」
恒一は軽く手を振った。
「お父さんは、たぶん覚えていませんよ」
「え?」
「でも、たぶん」
恒一は窓の外の庭に目を向けた。
「会いに来てたんでしょう」
女性は何も言わなかった。
ただ、少しだけ笑った。
その夜。
恒一はまた夢を見た。
暗い場所。
おかっぱ頭の少女。
少女は相変わらず何かを話している。
だが、その夜は少しだけ違った。
少女の手が、何かを指している。
それは、長い髪だった。
白く揺れる髪。
恒一は目を覚ました。
天井を見上げながら、つぶやく。
「……お前、全部見てるのか」
もちろん答えはない。
だが夢の中の少女は、確かに笑っていた。
その口元はどこか歪んでいた。
まるで面白いものを見つけた子供のように。




