第11話 病院の帰り道
病院の帰り道というのは、どこか静かすぎることがある。
昼間は人であふれている場所でも、夜になると急に人影が減る。
車の音も少なくなり、街灯の光だけが長く伸びる。
人の気配が消えると、昼間には気づかない音が聞こえる。
川の音、風の音、遠くの踏切の音。
そして、ときどき、それ以外の音もする。
その日の夜、恒一は接骨院を閉める準備をしていた。
時計は八時を過ぎている。
そのとき、入口の扉が慌てたように開いた。
「先生!」
男は何度も後ろを振り返りながら入ってきた。
扉を閉めてからもしばらく入口を見ている。
追われている人間の動きだった。
息が荒い。
二十代後半くらいだろう。
「どうしました」
男は周囲を見回した。
誰もいないことを確認してから言った。
「変なものを見たんです」
恒一は椅子を指した。
「座ってください」
男は腰を下ろしたが、まだ落ち着かない様子だった。
「病院の帰りなんです」
「どこの病院です」
「町外れの総合病院です」
恒一は少しうなずいた。
何年か前、行政の方針で
中心部にあった病院が郊外の山の上へ移転した。
山の上にぽつんと建つその病院は、
昼でも人の気配が薄く、
夜になると余計にうら寂しい。
恒一も前に行ったことがある。
「祖母の見舞いで……」
男は続けた。
「帰り道を歩いていたら……」
声を落とした。
「後ろに足音がするんです」
「振り返りました?」
「ええ。でも誰もいない」
「歩くとまた聞こえるんです」
男は机を指で叩いた。
トン、トン。
「同じリズムで足音がする」
恒一は静かに聞いていた。
「それで?」
「怖くなって走ったんです」
男の声が震えた。
「そしたら……走る音が増えたんです」
恒一は目を細めた。
「増えた?」
「一人じゃない」
男は顔を上げた。
「三人くらい」
接骨院の空気が少し冷えた。
恒一はゆっくり聞いた。
「帰り道、どこを通りました」
「川沿いの道です」
恒一は少し考えた。
病院から町へ戻る道。
昼間でも人が少ない。
夜はほとんど誰も通らない。
古い遊歩道で、舗装が割れている場所もある。
水の音だけが続いている。
「街灯は?」
「少ないです」
「途中で誰か見ました?」
男は首を振った。
「いや……でも」
少し考えて言った。
「橋の近くで、誰か立ってた気がします」
恒一の手が止まった。
「行きましょう」
男は驚いた。
「え?」
「まだいるかもしれない」
二人は車でその場所へ向かった。
川沿いの道。
夜の風が冷たい。
街灯はまばらだった。
男が指をさした。
「ここです」
橋の手前。
恒一は車を降りた。
空気が違う。
静かすぎる。
川の音も弱い。
恒一はゆっくり歩いた。
橋の上。
そして見えた。
三人。
川の向こうに立っている。
ぼんやりした影。
古い服。
濡れている。
恒一は小さく息を吐いた。
「そういうことか」
男が震えた声で言った。
「いますか」
「ええ」
「三人ですか」
「三人です」
影は動かない。
ただ立っている。
恒一は橋の欄干に手を置いた。
その瞬間。
映像が浮かぶ。
夜の川。
車。
ブレーキ音。
そして落ちる音。
恒一は目を開けた。
事故だ。
三人。
同じ車。
同じ場所。
「ここで亡くなってます」
男は震えた。
「俺を追ってきたんですか」
恒一は首を振った。
「違います」
「帰り道を探してる」
三人とも町のほうを見ている。
帰りたい場所を探している目だった。
恒一は静かに言った。
「道、こっちです」
恒一は橋の中央に立ち、
町のほうを指した。
そのときだった。
遠くに小さな影が立っていた。
おかっぱ頭の少女。
少女は静かにこちらを見ている。
そして町のほうを指した。
三人の影が動いた。
一歩。
二歩。
橋を渡る。
恒一の横を通る。
冷たい風が吹いた。
三人の影は町の灯りの中へ消えた。
男はその場に座り込んだ。
「……行きました?」
「ええ」
男は長く息を吐いた。
「なんだったんですか」
恒一は川を見た。
「帰り道です」
男は震えたまま言った。
「俺、なんで見えたんでしょう?」
恒一は少し笑った。
「たまたまです」
だが本当は違う。
あの少女が呼んだ。
その夜。
恒一はまた夢を見た。
橋の上に立つ少女。
少女は恒一を見る。
唇が動く。
――まだいっぱい。
恒一は目を覚ました。
窓の外はまだ暗い。
「……知ってる」
この町にはまだ残っている。
帰れないもの。
迷ったもの。
忘れられた場所。
そして、それを迎えに来るもの。
恒一にはそれが見えてしまう。
見えるからといって、どうにか出来るわけではない。
ただ道を教えるだけだ。
ただ、それだけだった。




