第10話 古い橋の事故
町には、忘れられた場所というものがある。
そこで何があったのかを覚えている人は、少しずついなくなる。
時間が過ぎるほど出来事は形を失い、場所だけが残る。
誰かが死んだことも、事故があったことも、やがて語る人がいなくなる。
古い橋というのは、だいたいそういう場所だ。
人が落ちたことも、流されたことも、いつの間にか誰も口にしなくなる。
それでも橋だけは残り、何もなかったように使われ続ける。
その日の夕方、恒一は接骨院を閉めたあと車を走らせていた。
道は細く、街灯も少ない。
山の影であたりはもう薄暗い。
民家もまばらで、人の気配はほとんどない。
車を止めると、川の音だけが聞こえた。
風が草を揺らし、遠くでカラスが鳴いている。
こういう場所には昔の出来事が残りやすい。
恒一はそう思っている。
そこに古い橋がある。
昼間、腰の治療に来た男が言っていた橋だ。
三十年前、その男の祖父が川に転落した橋だった。
接骨院で聞いた話が頭から離れなかった。
老人に確認することがあったからだ。
恒一は車を路肩に止めた。
川はそれほど大きくない。
山から流れてくる細い川で、水は浅い。
だが橋はかなり古い。
欄干はところどころ新しい板に替えられている。
直しながら使い続けている橋だった。
夕方の風が吹いていた。
川の水音が静かに響く。
恒一はゆっくり橋の中央まで歩いた。
その瞬間だった。
空気が変わる。
川の音が遠くなる。
景色の色が少し失われる。
そして。
――ドン。
何かが落ちる音。
恒一は目を閉じた。
夜の橋。
雨。
濡れた板。
一人の老人が歩いている。
傘。
滑る足。
傾く体。
そして川へ落ちる。
水しぶき。
暗い流れ。
恒一は目を開けた。
橋の上には誰もいない。
ただ川が流れている。
しかし。
欄干の向こうに人影が立っていた。
濡れた服の老人。
長い時間そこに立っていたような顔だった。
帰ろうとして帰れず、同じ場所を見続けている目だった。
この場所だけ時間が止まっているようだった。
恒一は言った。
「まだいるんですか」
老人は振り向いた。
「ここで終わったからな」
声はかすれている。
「帰り道が分からん」
恒一は川を見た。
水面は静かだ。
だが、その下に何かが沈んでいる気配がある。
恒一は橋の上にしゃがんだ。
「三十年前ですか」
老人はうなずいた。
「孫が小さかった」
恒一は思い出した。
昼間の患者の顔。
同じ目だった。
「毎日ここを通るそうですよ」
老人は驚いた顔をした。
「そうか」
恒一は欄干に手を置いた。
「だからここにいるんですね」
老人は何も言わない。
恒一は静かに言った。
「帰っていいと思います」
老人は首を振った。
「帰る道がない。どこへ行けばいいのかな」
「……あれから三十年か」
川面を渡る風がふっと渦を巻いた。
そのときだった。
橋の向こうに誰かが立っていた。
小さな影。
おかっぱ頭の少女。
夢で見るときと同じだった。
少女は音もなく立っている。
そして手を上げた。
呼ぶように。
老人が顔を上げる。
目が変わる。
「そうか」
老人は小さく笑った。
「こっちか」
少女は何も言わない。
ただ待っている。
老人は恒一を見た。
「先生」
「はい」
「孫の腰、もう大丈夫だな」
「ええ」
老人は頭を下げた。
「ありがとう」
そして橋を渡った。
少女の前で止まり、
二人は夕方の光の中に溶けた。
川の音が戻る。
風が吹く。
橋の上にはもう誰もいない。
恒一はつぶやいた。
「……お前、何なんだ」
答えはない。
その夜。
恒一は夢を見た。
橋の上の少女。
少女は恒一を見る。
唇が動く。
――まだいるよ。
目が覚めた。
窓の外は夜明け前だった。
「……知ってる」
帰れないもの。
忘れられた記憶。
迎えに来るもの。
恒一にはそれが見える。
見えても出来ることは多くない。
ただ整えるだけだ。
ただ、それだけのことだった。




