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第1話 パタパタ歩くもの

夜の接骨院は、昼とはまるで別の顔をしている。


昼間は患者の話し声や、ウォーターベッドの振動音、電気治療器の電子音で賑やかな院内も、診療時間が終われば、急に広く、妙に冷えて感じられる。蛍光灯を半分だけ落とした待合室は、白く浮かんで見えた。


神谷恒一は受付のカウンターで、最後のカルテを閉じた。


壁の時計は20時10分を指している。


「腹へったな、そろそろ帰るとするか」


誰に言うでもなくそうつぶやいて立ち上がった、その時だった。


――パタ。


恒一の足が止まった。


聞き間違いではない。今、確かに音がした。床を小さな足で叩くような、乾いた音。


院内には、もちろん誰もいない。最後の患者を見送ったのは30分も前だし、スタッフはもう帰っている。


恒一はため息をついた。


「またか……」


怖くはない。驚きもしない。ただ少し、面倒なだけだ。


――パタ、パタ。


今度は足音が二つ。診療ベッドの並ぶ奥のほうから聞こえた。


恒一は白衣の袖を少しまくり、ベッドの間をゆっくり歩く。カーテンはすべて開いている。隠れる場所などない。それでも、音は確かに、そこにいた。


――パタパタッ。


子供が裸足で走るような軽い音が、ベッドの端から端へ走り抜けていく。


恒一は目を少し細めた。


見えないわけではない。正確に言えば、見えすぎてしまうのだ。


誰もいないはずの場所に、いるものがいる。人の後ろに立つ影。誰も触れていないはずのカーテンが揺れる。壁際にしゃがみこんだまま、じっとこちらを見上げる何か。そんなものが見えるようになったのは、もうずいぶん前からだった。


きっかけが何だったのか、恒一自身にもよく分からない。


子供の頃から、ずっと同じ夢を見ていた。


おかっぱ頭の少女が出てくる夢だ。


片方の目が暗く塗りつぶされたように見えなくて、口だけが何かを動かしている。毎回、何かを伝えようとしているのに、その声だけがどうしても聞こえない。


気味が悪いと思ったこともある。だが、もっと厄介だったのは、その夢を意識しはじめた頃から、昼間でも見えなくていいものが見えるようになったことだった。


恒一は診療ベッドの脇に立ち、何もない床に向かって言った。


「……おい。いるんだろ」


しん、と静まり返る。


しかし、気配は消えていない。


目を凝らすと、床すれすれの高さに、空気の歪みのようなものが見えた。小さな人の形をしている。幼児くらいの背丈。輪郭はぼやけていて、顔ははっきりしない。ただ、そこにいることだけは分かる。


「遊びたいのか?」


言った瞬間、空気がふっと軽く揺れた。


――パタパタパタッ。


その何かは、まるで返事をするように院内を走り回った。


恒一は苦笑した。


「元気だな」


子供の霊か、土地に残った何かか、それとも別のものか。今のところ害はない。こういう手合いは、無理に追い払おうとすると、かえって拗ねることがある。恒一はカギを閉めると、奥の流しでモップを洗い、その日はそのまま帰った。


翌朝、開院前の室内の空気はまだ冷たかった。


シャッターを開け、入口のガラス戸を拭き、診療機器の電源を入れる。いつも通りの朝。だが恒一は、昨日の足音のことを忘れていなかった。


この手のものにはだいたい理由がある。


土地に由来するものか、物に宿るものか、人についてきたものか。


午前の診療が始まって1時間ほど経った頃、1人の女性が入ってきた。


「おはようございます。予約していた佐々木です」


四十代前半くらいだろうか。落ち着いた雰囲気の女性で、右膝を少しかばうように歩いている。


「はい、どうぞ。今日は膝でしたね」


恒一は診察ベッドへ案内しながら、何気なく彼女の背後に目を向けた。そして、心の中で「ああ」とつぶやいた。


……いた。


昨日の小さな影が、ぴたりと女性の後ろについている。今は走っていない。まるで人見知りをしている子供のように、女性のコートの裾をつまんでいるかのように見えた。


恒一は表情を変えずに問診票を受け取った。


「膝はいつ頃から痛みますか?」


「先月くらいからです。階段を降りる時が特に痛くて。立ち上がる時も少し……」


「腫れたり熱を持ったりは?」


「そこまではないです」


恒一は膝を軽く触診する。大きな損傷はなさそうだ。筋肉の張りと、少しの炎症。診療をしながら生活指導をすれば良くなっていくだろう。


しかし気になるのは膝ではない。その後ろの、小さな影だ。


恒一が患部の状態を確かめるふりをしながら女性の周囲を見ると、影は床の一点を見つめていた。熱心に、名残惜しそうに。


「佐々木さん、この辺りには前からお住まいですか」


女性は少し驚いたような顔をした。


「いえ、去年引っ越してきたばかりです」


「じゃあ、この辺にご縁があるのはお子さんですか」


「え? どうして分かったんですか?」


「何となくです」


恒一がそう返すと、女性は少し笑った。


「娘がいるんです。今、小学三年で」


「その前は保育園か幼稚園に?」


「はい。たんぽぽ幼稚園でした」


恒一の手が一瞬止まった。


やはり、と思った。


たんぽぽ幼稚園。


今この接骨院が建っている場所に、昔あった幼稚園の名前だ。


恒一は子供の頃、この土地の古い話を近所の老人から聞いたことがある。園庭で遊んでいた園児が、突然倒れてそのまま亡くなったこと。病気だったのか事故だったのか、詳しいことは曖昧になっているが、とにかく「小さな子が帰れなかった場所」だということだけは、この土地が覚えていたのだろう。


診療を終える頃には、佐々木の膝の動きは少し軽くなっていた。


「炎症はそれほど強くないので、今日は電気と手技で整えておきました。無理せず、階段は手すりを使ってください」


「ありがとうございます。だいぶ楽になりました」


女性は立ち上がり、頭を下げた。


その後ろで小さな影も一緒に揺れている。


恒一は迷ったが、ひとつだけ聞いてみた。


「佐々木さんの娘さん、たんぽぽ幼稚園、好きでした?」


「ええ。すごく。今でもたまに『昔の園庭が夢に出てくる』って言うんです」


恒一は無言でうなずいた。


女性が帰り、ガラス戸の開閉音が止むと、院内にはふたたび静けさが戻った。


そしてすぐに、――パタ。


小さな足音が鳴った。


恒一が振り返ると、影はまだいた。今度は待合室ではなく、診察ベッドの間を走り回っている。昨日よりも少し機嫌が良さそうに見える。


「なるほどな。あの女性についてきたんじゃない。この場所を覚えてたのか」


影は答えない。


だが、ぱたぱたと走り回る様子は、まるで「ここで遊んでいた」と訴えているようにも見えた。


恒一は倉庫を開け、小さなポリ袋を取り出した。中には淡い茶色の砂が入っている。


昨年、裏の花壇を掘り返したときに出てきたものだ。今の地面の下から、古い土や砂が層になって出てきた。その中に、妙に柔らかくて明るい色の砂があった。たぶん、昔の園庭の名残だろうと恒一は思って、なぜか捨てずに取ってあった。


恒一は診察ベッドの間の床に、その砂を少しだけ撒いた。


「ほら」


影がぴたりと止まる。


「遊び足りなかったんだろ。今日だけだぞ」


その瞬間だった。


――パタパタパタパタッ!


今までで一番はっきりとした足音が、院内いっぱいに響いた。ベッドの脇を抜け、受付の前を回り、待合室を横切って、また戻ってくる。まるで小さな子供が、嬉しくてたまらない様子で走り回っているようだった。


恒一は腕を組み、黙ってそれを見ていた。


不思議と怖さはなかった。


あるのは、少しの切なさだけだ。


走る音はしばらく続き、やがてゆっくり弱くなっていった。


――パタ。

――パタ。


最後の2歩を踏んで、静かになる。


院内の空気が、ふっと軽くなった。


恒一は砂を撒いた床に目を落とした。


小さな足跡が、いくつもついていた。


裸足の、幼い足の跡。


「満足したか」


答えはない。


だが、もう気配はどこにもなかった。


恒一はしゃがみ込み、その足跡をしばらく見ていた。子供の足跡というものは、どうしてこんなにも無防備で、こんなにもあっけないのだろう。


ほうきを持ってきて砂を掃き集めると、恒一はそれを紙に包んだ。


あとで裏手の木の下にでも戻してやろう。あまり人のいる場所に置いておくものでもない。


夕方、最後の患者が帰ったあと、恒一は包んだ砂を持って外へ出た。接骨院の裏手には、小さな空き地があり、今は使われていない古い遊具の名残のような鉄棒が1本だけ残っている。


その根元に砂をそっと撒く。


「こっちのほうが広いぞ」


風が吹いた。


まだ少し冷たい、夕方の風だった。


その時、背後で小さな笑い声のようなものがした気がして、恒一は振り返った。


誰もいない。


ただ、空き地の隅に植わった雑草が、揺れているだけだった。


「……帰れたなら、それでいい」


そうつぶやいて院内に戻ったその夜、恒一はまたあの夢を見た。


暗い場所に、おかっぱ頭の少女が立っている。


いつもと同じ夢のはずなのに、その夜は少しだけ違った。


少女の口元が、昨日よりはっきり動いて見えた。


何かを言っている。


必死に、何かを。


恒一は耳を澄ませた。


だがやはり、声は聞こえない。


その代わり、少女の見えているほうの目が、まっすぐ恒一を見ていた。


そして、夢の奥のどこかで、また小さな足音がした。


――パタ、パタ。


そこで恒一は目を覚ました。


枕元の時計は午前4時23分。


まだ外は暗い。


天井を見上げたまま、恒一はゆっくり息を吐いた。


「……次は何だ」


問いかけても、もちろん答えはない。


だがそれでも恒一は知っている。


明日もまた、誰かが体の痛みを訴えてこの接骨院にやってくるだろう。腰が痛い、膝が痛い、肩が上がらない。そういう当たり前の悩みを抱えて、人は来る。


そして時々、その後ろに、いてはいけない何かが立っている。


恒一の仕事は、骨や筋肉を整えることだ。


できれば、それだけしていたい。


けれどそうもいかないらしい。


見えてしまう以上、放ってはおけない。


恒一は布団から起き上がり、まだ薄暗い窓の外を見た。


夜と朝の境目の色をした空の向こうで、また何かがこちらを見ている気がした。



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