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四月は弥生を逃がさない  作者: 一ノ瀬友香
第三幕 黄金の休日
9/9

第二話 ルビーの首輪をつけて

 重厚な防音扉が開き、シアター内からロビーへと吐き出された瞬間、眩い人工照明が網膜を刺激した。

 二時間という長丁場。映画館のロビーに戻ってきた弥生は、魂の半分をスクリーンの向こう側、幕末の京都に置いてきたような顔をしていた。

 対照的に、隣を歩くアヴリルは、極上のオペラを鑑賞したあとの貴婦人のように、恍惚とした表情を浮かべている。

「素晴らしい映画だったわ」

 アヴリルが、吐息混じりに感嘆の声を漏らした。

「まさか、あんなに情熱的な愛の物語だとは思わなかったわ」

「……愛?」

 弥生は思わず聞き返す。

 今、観たのは『幕末人斬り伝』だ。主人公が幕府への忠義のために人を斬り、最後は時代の波に飲み込まれて孤独に散る、血生臭い悲劇だったはずだ。どこに愛の要素があったというのか。

「ええ、そうよ。あの主人公、主君のためにすべてを犠牲にして、修羅の道を進んだでしょう?」

 アヴリルは熱っぽい眼差しで虚空を見つめ、夢見る乙女のように語り出す。

「己の手を血で汚し、心を殺し、世間から人斬りと蔑まれても、ただ一人のために剣を振るい続けた。あれこそが究極の献身、純度一〇〇パーセントの愛だわ」

「ええと、それは忠誠心とか、武士道とか言うんじゃ……」

「言葉なんてどうでもいいの。大切な人のためなら、世界を敵に回しても構わない。その狂気じみた一途さは、何よりも美しいもの」

 うっとりと頬を染める彼女を見て、弥生の背筋に冷たいものが走った。

 一般人が観れば『悲劇のヒーロー』で済む話を、この人は『愛の教典』として解釈したらしい。

 彼女の辞書における『愛』の定義が、一般社会のそれと大きく乖離していることが露呈した瞬間だった。

「そういえば、すっかりお昼時ね。どこかで休憩しましょうか」

 アヴリルは、内心で戦慄している弥生に気づかず、当然のようにその手を取った。

 連れられた先は、映画館と同じ複合施設に入っているカフェだ。高級ホテルのラウンジではない。弥生が友人と利用するような、ごく一般的なセルフサービスのチェーン店である。

 木目調のテーブルに、ガラス張りの明るい内装。お洒落だが、女子高生のお小遣いでも充分に入れる価格帯の店だ。

 全身をハイブランドで固めたアヴリルには不釣り合いかと思ったが、彼女は興味津々といった様子で、きょろきょろと店内を見回していた。

 二人は受付で注文したメニューをトレイに載せると、窓際の席を確保し、向かい合わせに座った。

 アヴリルが選んだものは、シンプルなホットコーヒー。対して、弥生が選んだものは、期間限定の濃厚抹茶バナナパフェだ。

 抹茶アイスと生クリームの山に、これでもかと言うほど、輪切りのバナナが突き刺さっているという。その姿は、カロリーの暴力の何者でもない。

「いただきます」

 映画館での緊張から解放され、糖分を欲していた弥生は、自然な動作でスプーンを手に取った。

 だがそのとき、対面の席から、妙な気配を感じた。

 顔を上げると、アヴリルがティーカップの取っ手に指をかけたまま、石像のように固まっている。

 その視線は一点、弥生のパフェ――正確には、そこに林立する黄色い果物に釘づけになっていた。

 彼女の柳眉が、ぴくりと引きつる。優雅な笑みを張りつかせてはいるが、頬の筋肉が微妙に痙攣しているのが見て取れた。

「……あの、どうしました? 天野先輩」

 弥生が尋ねると、アヴリルは金縛りが解けたように、はっと瞬きをした。

「え? い、いえ、なんでもないわ」

「そうですか? さっきから、私のパフェを睨みつけてた気がしたんですが」

「睨んでなどいないわ。ただ……ずいぶんと、その……存在感のあるトッピングだと思って」

 アヴリルの声が、いつになく上擦っている。彼女は努めて視線を逸らそうとするが、本能が危険を察知しているのか、どうしてもバナナから目が離せないようだ。

 弥生はピンときた。まさか。あの完璧超人、学園の至宝、絶対君主のアヴリルにも、弱点が?

「……もしかして天野先輩、バナナが嫌いだったりします?」

 試しに鎌をかけてみる。すると、アヴリルはわかりやすく動揺した。

「そ、そんなことはない……わよ? 食べ物は神様の恵みだもの。好き嫌いなんて、するはずがないでしょう?」

 嘘だ。確実に嘘をついている。

 ティーカップを持つ指先が微かに震えているし、灰茶色の目に至っては、左右に泳ぎまくっている。

 弥生の中で、弥生の中で小さな悪戯心が芽生えた。今まで散々、彼女のペースに巻き込まれ、翻弄され続けてきたのだ。少しくらい、一矢報いても罰は当たらないはずだ。

 これは日頃の復讐であり、健全なコミュニケーションの一環である。

 弥生は自分に正当性を主張すると、スプーンでバナナの輪切りと生クリームを、たっぷりと掬い上げた。

「そうですか。好き嫌いがないなんて、さすがは天野先輩です。このバナナ、すごく熟れてて甘そうですよ。ひと口、どうですか?」

 弥生は満面の笑みで、スプーンをアヴリルの口元へと差し出した。

「ほら、あーん」

「え……っ!?」

 アヴリルの動きが停止した。彼女の瞳の中で、二つの感情が激しく衝突し、火花を散らしていることがわかる。

 大好きな弥生から『あーん』をしてもらえるという至上の喜び。そして、大嫌いなバナナを口に入れなければならないという絶望的な恐怖。

「どうしたんですか? 神様の恵み、食べないんですか?」

 弥生はさらにスプーンを近づけ、追い打ちをかける。アヴリルの美貌が、苦悶に歪んだ。

「そ、それは……その、嬉しいのだけれど……」

「遠慮しないでください。はい、あーん」

 口元に、バナナを持っていく。甘いバナナの香りが漂ったのか、アヴリルがびくりと肩を跳ねさせた。

 彼女は助けを求めるように視線を彷徨わせたあと、覚悟を決めたように、恐る恐る口を開こうとする。だが、唇がわなわなと震え、どうしても受け入れることができない。

 数秒の葛藤の末、アヴリルはがっくりと項垂れた。

「……ごめんなさい」

 彼女は片手で口元を押さえ、白旗を上げるように首を振った。

「やっぱり、私には無理だわ。これ以上は勘弁してちょうだい」

「やっぱり、駄目なんですね」

「ええ。あの独特な食感と、甘ったるい匂いが、どうしても生理的に……」

 アヴリルは涙目になりながら、か細い声で告白する。その姿は、女神と崇められている生徒会長とは程遠い、ただの好き嫌いのある女の子だった。

 あまりのギャップに、弥生は思わず噴き出しそうになるのを堪えながら、スプーンを引っ込める。

「意外です。天野先輩にも、苦手なものがあったんですね」

「……誰にでも、弱点の一つや二つはあるものよ」

 アヴリルは少し拗ねたように唇を尖らせると、コーヒーの香りで肺を浄化するように、ティーカップを口元に添えた。その仕草が、不覚にも可愛いと思ってしまった。

 完璧な仮面の下に隠された、人間らしい一面。それを知ってしまったことで、弥生の中にあった警戒の壁が、ほんの少しだけ低くなった気がした。

 カフェをあとにすると、二人は商業施設を出て、午後の日差しが降り注ぐ繁華街へと繰り出した。

 現在、ゴールデンウィークの真っ只中だ。

 街はお洒落な服を着た若者や、ショッピングを楽しむ家族連れで溢れ返り、巨大ビジョンからは流行りの音楽が流れている。

 その喧騒の中を、アヴリルと手を繋いで歩く。それは弥生にとって、公開処刑にも似た、奇妙な体験だった。

 すれ違う人々が、アヴリルの圧倒的な美貌に息を飲み、その直後、隣にいる地味なパーカー姿の弥生を見て、疑問符を浮かべる。

 だが、アヴリルは周囲の目など意に介さない。彼女の瞳は、雑踏に埋もれることなく、隣にいる弥生だけを映している。まるで、世界には自分たちしか存在していないかのように。

「ねえ、弥生さん。あのお店を見てみましょうよ」

 アヴリルが指差したのは、駅ビルに入っているアパレルショップだった。流行を取り入れた手頃な価格帯の店で、女子高生でも気兼ねなく入れる雰囲気だ。

「え、ここですか? 天野先輩が着るような服、置いてないと思いますけど……」

「いいのよ。私の服じゃなくて、あなたの服を見たいんだもの」

 アヴリルは軽やかに微笑むと、躊躇する弥生の手を引いて、店内へと連れ込んだ。

 アップテンポなBGMが流れる店内には、所狭しとハンガーラックが並んでいる。

 アヴリルは迷いのない手つきで、次々と服を手に取り、吟味していく。その楽しげな眼差しは、大事なペットに新しい首輪を選ぶ飼い主のように感じられた。

 やがて、彼女は一着の淡いピンクのワンピースを選び出すと、弥生の体に宛がった。

「やっぱり。思った通りだわ」

 アヴリルは満足げに頷く。

「とても似合うわよ、弥生さん」

「え、そうですか? 私には、ちょっと可愛すぎません?」

「そんなことはないわ。今のパーカー姿も素敵だけど……この色は、あなたの隠れた透明感を引き出してくれるわ」

 アヴリルは弥生の髪を優しく撫でながら、弥生の双眸を覗き込んだ。

「あなたは何色にも染まれる素質があるの。だから、色々なあなたを見てみたいのよ。私が見つけた、新しいあなたを」

 その言葉には、今の弥生の姿を否定するニュアンスは微塵もない。

 あるのは、愛する人形に新しいドレスを着せてみたいという、純粋で無邪気な、そして少しばかり所有欲の透ける願望だ。

「試着だけでも、どう?」

「……試着だけ、なら」

 アヴリルの熱意に押され、弥生は試着室へと入った。

 カーテンを閉め、服を着替える。鏡の前に立つと、そこには普段より少しだけ背伸びをした、華やかな自分がいた。悪くない、と思ってしまう自分が、少し恥ずかしい。

 カーテンを開けると、アヴリルは目を輝かせた。言葉を失ったように数秒見惚れたあと、ほう、と熱い吐息を漏らす。

「可愛い……。本当に、お人形さんみたい」

 彼女は弥生の手を取り、くるりと回させる。品定めをするような、それでいて愛しむような視線が、弥生の全身を舐め回した。

「ねえ、これを着て、帰りましょう? プレゼントさせて」

「えっ!? だ、駄目ですよ! こんなの、買ってもらえません!」

 我に返った弥生は、慌てて首を横に振った。

 いくら一般的な価格帯とはいえ、アヴリルに服を買ってもらうなんて、あまりにも申し訳ない。

 それに、衣食住の『衣』まで彼女に握られてしまえば、何かが決定的に崩れてしまう気がした。対等な関係ではなく、本当に飼われる側になってしまうような危機感。

「お願い。私のわがままを聞いてくれない?」

「駄目です。お気持ちだけ受け取っておきます。それに、似合うって言ってもらえただけで、充分嬉しいですから」

 弥生が頑なに拒否をすると、アヴリルは少しだけ残念そうに眉を下げたが、それ以上の無理強いはしなかった。

「……そうね。あなたがそこまで言うなら、諦めるわ」

 アヴリルは慈しむように弥生の姿を目に焼きつけると、ふわりと微笑んだ。

「その姿を見られただけで、よしとしましょう」

 結局、服は元の棚に戻し、店を出ることになった。

 少しだけほっとした弥生だったが、弥生をカスタマイズしたいというアヴリルの欲求が、それで収まるはずもなかった。

 次に向かったのは、同じビルの中にあるアクセサリーショップだ。そこは、先ほどの洋服店よりは少し背伸びをした価格帯の、ジュエリーを扱う店だった。

 アヴリルはショーケースを眺め、迷うことなく一つのネックレスを指差した。

 細いシルバーのチェーンに、小さな赤いルビーがひと粒ついたものだ。シンプルだが、血のような深紅が目を引くデザインである。

「これを」

 購入は一瞬だった。アヴリルは店員に告げると、流れるような動作で支払いを済ませてしまったのだ。

 彼女は包装を断り、その場で箱からネックレスを取り出す。

「天野先輩!? あの、買っちゃったんですか!?」

「ええ。服は駄目でも、これくらいなら受け取ってくれるでしょう?」

 有無を言わせぬ笑顔。アヴリルは弥生の背後に回り込むと、三つ編みに結んだ黒髪をさらりと払った。

「じっとしていて」

 アヴリルの指が、弥生の首筋に触れる。冷たい金属の感触と共に、カチリと留め具が嵌まる音がした。それは、首輪をつけられた音のように聞こえた。

「……綺麗」

 アヴリルは弥生の胸元で輝く赤い石を見つめ、陶然と呟く。

「あなたのための『赤』よ。これで、悪い虫除けになるわね」

「虫除け、ですか……?」

「ええ。その石は、他人があなたを見たときの『信号機』になるの」

 アヴリルはルビーの赤を指先でなぞりながら、口元を緩ませる。その笑みは、甘く、暗く、底知れない。

「胸元でそんなに綺麗な赤が光っていたら、『止まれ』の合図に見えるでしょう? あなたには、こうして贈り物をする特別な相手がいるのだと、周囲に知らしめることができるわ」

 弥生は、ショーウィンドウに映る自分の姿を見た。

 地味なパーカーの胸元に、ひと粒の赤い宝石。その不釣り合いな輝きは、確かに強烈な違和感と存在感を放っている。まるで、所有者の影をちらつかせるタグのようだ。

 それでも、不思議と嫌な気分ではなかった。

 鏡の中の自分は、相変わらず地味で平凡だ。けれど、胸元にひと粒の赤があるだけで、どこか特別な『誰か』になれたような気がした。

 何より、隣にいるアヴリルが、世界で一番美しい宝物を見つけたかのように、蕩けるような笑顔を浮かべている。

 その幸せそうな表情を見ていると、首元の冷たい感触さえも、じんわりとした温かな安らぎに変わっていくようだった。

 弥生はそっと、ルビーの表面を指先で撫でる。この赤い石は、虫除けの信号機などではない。自分を彼女の元へと繋ぎ止める、甘くて重い、逃れられない引力そのものだ。

 そう自覚しながらも、弥生は鏡の中のアヴリルに、小さく笑みを返した。


©一ノ瀬友香2026.

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