第一話 その背中、ロックオンにつき
ゴールデンウィーク。その甘美な響きは、学生という身分に於いて、一種の魔法の呪文に近い効力を持っている。
四月という激動の季節を生き延びた者にのみ与えられる、一時的な停戦協定。
新学期の緊張、人間関係の摩擦、そして個としての尊厳を取り戻すための、聖なる一週間である。
カレンダーの日付が四月から五月へと切り替わったその朝、弥生は泥のように眠っていた布団から這い出し、カーテンを勢いよく開け放った。
「……勝った」
窓から差し込む陽光を全身に浴びながら、弥生は誰に聞かせるわけでもなく勝利宣言を呟いた。
空は突き抜けるような青。雲一つない快晴だ。
だが、今の弥生にとって最も重要な天気予報は、降水確率〇パーセントという事実よりも、アヴリル注意報が解除されているという一点に尽きる。
今日から数日間、学園へ行かなくていい。
あの重厚な生徒会室でコーヒーの香りに怯えることも、教室や廊下で公開処刑に遭うことも、休み時間に狂気じみた手作り弁当を強要されることもないのだ。
携帯電話をズボンのポケットに入れて、キッチンへと向かう。しんと静まり返ったリビングダイニングには、誰の気配もなかった。
共働きの両親は、カレンダーの赤い数字とは無縁らしく、今日も朝早くから仕事に出かけて不在だ。誰にも気兼ねする必要はない。
弥生は冷蔵庫から抹茶ラテを取り出すと、テーブルの上に置かれていた買い置きのあんぱんの封を切った。
大きくひと口かぶりつき、それを追うように、抹茶ラテを喉の奥へ流し込む。冷たい液体が、乾いた体に染み渡る。それは正しく、自由の味がした。
「さて、と」
弥生はリビングのソファに腰を下ろし、携帯電話のカレンダーを表示する。そこには、この連休中に消化すべきタスクが記されていた。
とはいえ、『英単語の予習』だの『数学の課題』だのといった、優等生的なものではない。
リストの一番上に書かれているものは、『劇場版・幕末人斬り伝』の鑑賞。これである。最近公開されたばかりの、硬派な時代劇映画だ。
主演は渋い演技に定評のあるベテラン俳優で、若者受けを狙った恋愛要素など微塵もない、血と汗と泥にまみれた男たちの挽歌。これこそが、弥生の心の栄養素だった。
「上映時間は、十一時の回がベストかな。そのあとはどこかでお昼ご飯を食べて、帰りに本屋へ寄って…うん、完璧」
脳内でシミュレーションを組み立てるだけで、口元が緩んでしまう。
誰にも邪魔されない、誰にも見られない、完全なるソロ活動。町人Aが町人Aとして、群衆の中に紛れて生きることを許される時間。
弥生は鼻歌混じりに身支度を始めた。顔を洗い、歯を磨き、選んだ服は、白いパーカーとベージュのフレアミニスカート。
背景素材として処理されてしまうような地味な服装だが、それがいい。今の弥生が求めているのは、『個性』ではなく『迷彩』なのだから。
長い黒髪を三つ編みに結び、小さなショルダーバッグに財布と携帯電話を放り込む。
「行ってきます」
誰もいない玄関に向かって挨拶をし、スニーカーに足を突っ込んで、外の世界へと飛び出した。
駅前の繁華街は、連休初日ということもあって、凄まじい熱気に包まれていた。
色とりどりの服を着た人々が行き交い、巨大なビジョンからは流行りの音楽が流れている。
カップル、家族連れ、友人同士のグループ。誰もが楽しげに笑い、休日という非日常を謳歌している。その喧騒の中を、弥生はするすると泳ぐように歩いていた。
雑踏は心地よかった。ここでは誰も弥生のことなど見ていない。
月宿学園では、歩くだけで後ろ指を指され、好奇と嫉妬の視線に晒され続けていた。
あの針の筵のような環境に比べれば、無関心な他人の群れは、温かい羊毛の毛布にも等しい。私は今、自由なのだ。
その事実を噛みしめながら、映画館のある商業施設のエレベーターに乗り込む。
チケットは事前にネット予約していない。ふらりと立ち寄り、その場の気分で席を選ぶ。そんなアナログな工程もまた、休日の醍醐味の一つだ。
自動発券機の前に並び、画面を操作する。目当ての『幕末人斬り伝』は、客層が渋いせいか、ゴールデンウィークだというのに空席が目立っていた。
「やっぱり、後ろの席がいいよね。端っこの、落ち着く場所……」
弥生は最後列の、通路側の席を選択した。隣は空席。その隣も空席。完璧なソーシャルディスタンス。
ポップコーンを咀嚼する音が響くことも、前の人の座高が高くてスクリーンが見えないという悲劇も回避できる。
発券されたチケットを大事に財布に仕舞い、売店でSサイズのオレンジジュースを購入する。上映開始まで、あと十分。
ロビーのソファに腰を下ろし、予告編が流れるモニターをぼんやりと眺めながら、弥生は至福のため息をついた。
平和だ。四月の激動が嘘のようだ。アヴリルという台風の目から離れれば、世界はこんなにも穏やかで、静寂に満ちている。
携帯電話を取り出し、マナーモードに設定しようとしたとき、掌の中で、薄い板が短く震えた。
心臓が、嫌なリズムで跳ねる。メールではない。着信でもない。メッセージアプリの新着を知らせる振動だ。
(……まさか、ね)
弥生は自分に言い聞かせた。今はゴールデンウィークで、学園は休みだ。
それに、アヴリルには弥生の家の住所を教えていないし、さすがの彼女もGPSまで仕込んでいるわけではない。今日、弥生がどこで何をしているかなど、知る由もないはずだ。
恐らく、水無月からの暇潰しの連絡か何かだろう。
そう楽観視して、画面を点灯させる。ロック画面に表示された名前を見た瞬間、弥生の体温が二度下がった。
『天野・クリスティーヌ・アヴリル』
その文字列は、ホラー映画のタイトルロゴよりも遥かに禍々しく、弥生の視界を焼き尽くした。
指先が震える。見なかったことにしたい。電源を切って、海にでも沈めてしまいたい。けれど、そんなことをすれば、連休明けにどんな報復が待っているかわからない。
弥生は覚悟を決めて、メッセージを開いた。そこには、たった一行。
『後ろ』
思考が停止した。
後ろ? 後ろって、なんだ。物理的な方向のことか? それとも、過去を振り返れという哲学的な問いかけか? いや、違う。そんな文学的な意味であるはずがない。
弥生の脳裏に、サスペンスドラマの殺人鬼が、ターゲットの背後に忍び寄るシーンがフラッシュバックする。ゆっくりと、錆びついた蝶番のような動きで、首を回す。
ロビーは相変わらず混雑していた。楽しげなカップル、ポップコーンをこぼして泣く子供、パンフレットを立ち読みする老人。どこにでもいる、ありふれた休日の風景。
しかし、その雑踏の中に、明らかに異質な存在が一つだけあった。
自動発券機の影。観葉植物の緑に隠れるようにして、その人物は佇んでいた。大きな女優帽を目深に被り、顔の半分を覆うようなサングラスをかけている。
服装は、シックなモノトーンのワンピース。上質な生地の光沢と、計算され尽くしたシルエットは、遠目に見てもハイブランドのそれだとわかる。
まるで、パパラッチを避けてお忍びで来日したハリウッド女優だ。
周囲の空気から完全に浮いているその人物は、サングラス越しに、正確に弥生を捕捉していた。
彼女はゆっくりと、右手で持っていた携帯電話を掲げて見せた。そして、サングラスを指先で少しずらし、あの灰茶色の瞳を覗かせる。
にっこりと、美しくも恐ろしい笑みが、弥生に向けられた。
「ひっ……!?」
弥生は喉の奥で短い悲鳴を上げ、ソファから飛び退いた。幻覚ではない。本物だ。
なぜ? どうしてここに? ここは家から電車で三十分も離れた街なのに。偶然? いや、彼女の辞書に偶然という言葉はない。あるのは『必然』と『策略』だけだ。
アヴリルは優雅な足取りで、こちらへと歩み寄ってくる。刹那、人混みが海が割れるように左右に分かれた。誰もが彼女の圧倒的なオーラに気圧され、道を開けてしまうのだ。
逃げなければ。本能がそう警鐘を鳴らすが、足が竦んで動かない。
数秒後。アヴリルは弥生の目の前に到達していた。いつもの上品なフレグランスの香りが、映画館のポップコーンの甘い匂いを上書きする。
「奇遇ね、弥生さん。こんなところで会うなんて」
アヴリルはサングラスを外し、胸元にかけながら言った。その声は、普段よりも少しだけ甘く、弾んでいる。
「あ、天野、先輩……。どうして、ここに……?」
「お買い物に来たら、見慣れた背中を見つけてね。追いかけてきたのよ。人混みの中でも、あなたの背中だけは一等星のように輝いて見えたわ」
嘘だ。絶対に嘘だ。地味な出で立ちをした、俯き加減の背中が輝いて見えるはずがない。
もしもそう見えたのなら、彼女の目には弥生専用の高性能フィルターが標準装備されているに違いない。
「そ、そうですか……。奇遇、ですね……」
弥生は引きつった笑みを浮かべるのが精一杯だった。
「弥生さんは一人で映画? 何を観るの?」
「ええと、その……『幕末人斬り伝』です」
タイトルを口にするのも恥ずかしい。キラキラした生徒会長に教えるような作品ではない。
「あら、面白そう。私も観ようかしら」
「え?」
弥生は耳を疑った。
「い、いえ! やめたほうがいいです! これ、割と本格的な時代劇ですよ? 血飛沫とか飛びますし、お洒落なシーンなんて一つもないですし!」
「構わないわ。あなたが観たいと思う映画なら、私にとっても名作に違いないもの」
論理が破綻している。だが、アヴリルはすでに券売機の方へと視線を向けていた。
「どの席を選んだの? まだ空いているかしら」
「え、あ、最後列の、右端ですけど……」
「わかったわ」
アヴリルは微笑むと、迷わず自動発券機へと向かった。慣れない手つきで画面を操作する彼女の背中を見ながら、弥生は呆然と立ち尽くす。
終わった。私の一人の時間が。安息の休日が。聖なる町人Aとしてのひとときが、音を立てて崩れ去っていく。
戻ってきたアヴリルの手には、一枚のチケットが握られていた。
「無事に買えたわ。あなたの隣の席よ」
彼女は勝利の女神のように、チケットをひらつかせる。
「……隣、空いてましたか」
「ええ。まるで、私のために空けておいてくれたみたいにね」
それはそうだろう。あえて、空いている場所を選んだのだから。
「さあ、行きましょうか。ポップコーンも買わないと。実は私、映画館のポップコーンって、食べたことがないのよね」
言いながら、アヴリルは自然な動作で弥生の手を取り、その指に自分の指を絡ませてくる。いわゆる、恋人繋ぎだ。
制服越しに腕を組んだときとは違い、素肌が直接触れ合う感触と、掌から伝わる体温が、より生々しく感じられる。
周囲の客たちが、ぎょっとこちらを見るのがわかった。
日本人離れした絶世の美女と、どこにでもいそうな平凡な一般人。そんな不釣り合いな二人が、固く指を絡ませて歩いているのだ。注目の的になるのは当然だった。
「あ、あの、天野先輩。これ、恥ずかしいです……」
「我慢をして。はぐれたら大変でしょう?」
映画館のロビーで迷子になる女子高生などいない。だが、アヴリルの腕の力は、弥生の逃走を許さない拘束具のように強固だった。
売店に並び、アヴリルはメニュー表を興味深そうに眺める。
「あなたのお勧めは?」
「ええと、無難に塩とキャラメルのハーフ&ハーフとか……」
「では、それをお願いするわ。一番大きいサイズで」
「え、特大ですか? 二人でも食べ切れないかもしれませんよ?」
「大丈夫よ。残ったら、私が責任を持って持ち帰るわ」
「持ち帰るって……。湿気ちゃいますよ?」
「構わないわ。あなたが触れたものなら、私にとってはフルコースの一部だもの」
さらりと恐ろしいことを言われ、弥生は愕然とした。この人は、他人の食べ残しすら、聖遺物として扱いかねない。
店員から手渡されたバケツを思わせるポップコーンを抱え、弥生はアヴリルに連行されるようにして、シアター内へと入る。
薄暗い場内。最後列の端の席。本来なら、誰にも邪魔されずに映画の世界に没頭できる特等席だ。
しかし今、自分の隣には、スクリーン上のどんな俳優よりも存在感を放つアヴリルが座っている。
彼女は狭い座席に窮屈そうに身を沈め、長い脚を持て余していた。それでも、その所作の一つ一つが絵になるから憎らしい。
「暗いわね」
アヴリルが耳元で囁く。
「映画館ですから……」
「ふふ、なんだかドキドキするわ。密室で、二人きりなんて」
彼女の解釈にかかると、映画館すらも愛の逃避行の舞台に変換されてしまうらしい。
やがて、場内の照明が落ち、スクリーンに光が投影される。本編が始まった。重厚な音楽と共に、幕末の京都の町並みが映し出される。
刀と刀がぶつかり合う音。男たちの怒号。普段なら、弥生は開始五秒でスクリーンに釘づけになっているところだ。だが、今日はまったく内容が入ってこない。
なぜなら、隣に座るアヴリルの気配が、あまりにも濃厚すぎるからだ。
暗闇の中で、彼女の肩が触れる。そのたびに、弥生の意識はスクリーンから引き剥がされ、隣の熱源へと吸い寄せられる。
アヴリルは映画を観ているのだろうか。それとも、つまらないと退屈しているだろうか。気になって、そっと横目で盗み見る。
スクリーンの光に照らされたアヴリルの横顔は、彫刻のように美しかった。彼女はまっすぐに前を見据えている。真剣な眼差しだ。
そのとき、アヴリルの手が伸びてきた。ポップコーンを取ろうとしたのだ。同時に、弥生も手を伸ばしていた。容器の中で、二人の指先が触れ合う。
「……っ」
弥生は反射的に手を引っ込めようとしたが、アヴリルの指が、弥生の指を逃がさなかった。ポップコーンの山の中で、彼女の指が弥生の指に絡みつく。
「あ、天野、先輩……?」
小声で呼ぶと、アヴリルは顔を向けずに、口元だけで微笑んだ。彼女は弥生の手を握ったまま、離そうとしない。
スクリーンでは、主人公が敵の集団に囲まれ、絶体絶命のピンチに陥っている。だが、弥生にとってのピンチは、そこではなかった。
暗闇と轟音に守られたこの場所で、指を絡められ、体温を共有しているこの状況。映画の内容なんて、もう一ミリも頭に入ってこない。
弥生の心臓の音だけが、劇中の太鼓の音よりも大きく、耳元で鳴り響いていた。これはデートだ。
弥生は認めざるを得なかった。不本意で、強引で、理不尽極まりないけれど。この甘くて苦しい時間は、紛れもなくデートなのだ、と。
©一ノ瀬友香2026.




