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四月は弥生を逃がさない  作者: 一ノ瀬友香
第二幕 私的幸福論
7/10

第三話 逃げられない石

 翌朝。月宿学園の昇降口には、重苦しい空気が澱のように溜まっていた。

 外の天気は快晴だというのに、校舎に充満しているものは、梅雨時の湿気を煮詰めたような不快指数一〇〇パーセントの気配だ。

 弥生が足を踏み入れた瞬間、ざわりと波が引くような音がした。

 それは比喩ではなく、実際に周囲の生徒たちが弥生を中心として円状に距離を取り、遠巻きに観察する体勢に入った音だった。

 突き刺さる視線の質が、昨日とは明らかに異なっている。

 昨日の視線が『困惑』や『好奇』といった無色透明なものであったなら、今日のそれは明確に『嫉妬』や『敵意』という名の、どす黒い色彩を帯びていた。

(……知ってる。この感じ、時代劇で見たことある)

 弥生は床に視線を固定し、極力気配を殺して踵を進める。

 無実の罪を着せられた町娘が、お白洲へ引き立てられていくときの空気感だ。あるいは、側室の寵愛を受けた腰元が、奥御殿の女中たちから総スカンを食らうときの陰湿な静寂。

 どうやら、昨日のアヴリルによる密着指導は、劇薬として効きすぎたらしい。

 学内に於ける絶対君主ことアヴリル。

 彼女の寵愛を一身に受け、あろうことか公務中にスキンシップまで交わした事実は、アヴリルを崇拝する信者たちにとって、許されざる冒涜として映ったようだ。

 弥生は小さくため息をつき、自分の靴箱の前へ辿り着いた。

 いつも通り、解錠するために番号錠へ手を伸ばす。けれど、そこで指先が止まった。

 鍵が、かかっていない。ダイヤルは解錠の番号で揃えられたままになっており、つまみを回すまでもなく、無防備な状態を晒している。

(あれ? 昨日、鍵をかけ忘れたっけ?)

 記憶を巻き戻してみる。昨日は舞に呼び出され、直後にアヴリルとの巡回があり、疲労困憊で帰宅した。

 確かに意識は朦朧としていたが、靴箱の施錠というルーチンワークを忘れるほど、呆けていただろうか。

 まさか、誰かが勝手に番号を合わせて開けたというのか。だとしたら、あまりにも気持ち悪い。

 弥生は首を捻ると、薄気味悪い予感を抱きつつ、目の前の扉を開いた。刹那、パサリという乾いた音と共に、一枚の紙片が足元に滑り落ちる。

「……」

 弥生の動きが凍りつく。周囲の視線が一層、痛いほどに集中するのがわかった。

 それは、四つ折りにされた上質なレポート用紙だった。淡いラベンダーの香りが微かに漂う辺り、差出人の育ちのよさと、それに反比例する底意地の悪さが透けて見える。

 弥生は震える手で紙片を拾い上げた。

 開くまでもない。中身の文面など、火を見るより明らかだ。『放課後、体育館裏へ来い』か、もしくは『調子に乗るな』という警告か。

 いずれにせよ、昭和の時代から続く伝統芸能が、令和の進学校でリバイバル上映されるとは思わなかった。このアナログさが、逆に執念深さを物語っているようで、ぞくりとする。

 弥生が紙片を開くと、そこには達筆なペン字で、こう記されていた。

『今日の昼休み、中庭へ来られたし』

 予想通り、果たし状だった。しかも『来られたし』という古風な命令形に、妙なプライドの高さが滲んでいる。

 差出人の名前はない。だが、その余白には『逃げれば、もっと酷い目に遭わせる』という、無言の圧力がびっしりと書き込まれている気がした。

(行きたくない……)

 本心からそう思う。しかし、行かなければ、今度は靴箱に画鋲や生ゴミが投入される、陰湿な嫌がらせコースに突入するだけだ。

 一度相手の言い分を聞いて、サンドバッグのように罵倒を受け流し、身の程を弁えますと平謝りでもすれば、許してもらえるだろうか。

 できることなら、今すぐこの紙切れをくしゃりと丸めて、ゴミ箱に放り投げたい。けれど、弥生はその衝動をぐっと飲み込んだ。

 背中に突き刺さる無数の視線。そのどこかに、手紙を入れた犯人が紛れ込んでいて、こちらの反応を監視しているかもしれない。

 もしもここで手紙を捨てれば、宣戦布告と受け取られ、事態が悪化するだけだ。今は相手を刺激せず、従順な獲物を演じるしかない。

 弥生は手紙を丁寧に折り畳むと、音を立てないように、そっとスカートのポケットに仕舞い込む。

 上履きに履き替える動作は、これから負け戦が決まっている古戦場の最前線へ送り込まれる足軽の如く、悲壮な色を帯びていた。

 教室までの道のりが、これほど長く感じられたことはない。自分の席に辿り着き、椅子に腰を下ろしても、安息は訪れなかった。

 授業中も、クラスメイトたちから注がれる視線と、ポケットの中にある紙切れの存在感が、弥生の精神をじわじわと削っていく。

 教師の声は遠いBGMのように右から左へと抜け、黒板の文字も、ただの記号の羅列にしか見えない。脳内のメモリは、昼休みの防衛策をシミュレーションすることだけに消費されていた。

 ただひたすらに、砂時計の砂が落ちる姿を眺めるような、虚無と焦燥が入り混じった時間が過ぎていく。

 そして、無情にもそのときは訪れた。

 四時間目の終了を告げるチャイムが、まるで断末魔の叫びのように、校舎に鳴り響いたのだ。

 弥生は教科書を机の中に押し込むと、通学鞄には見向きもせず、弾かれたように席を立つ。中には弁当が入っているものの、空腹など微塵も感じなかった。

 今日もアヴリルが手作り弁当を持参して迎えに来るかもしれない。だが、この呼び出しに応じる以上、彼女と優雅にランチタイムを過ごしている暇はないのだ。

 幸い、今日はアヴリルからのお迎え予告のメッセージは来ていない。生徒会長としての公務が忙しいのだろうか。

(今のうちに、行っちゃおう)

 弥生は逃げるように教室を飛び出した。

 月宿学園の中庭は、表向きは生徒たちの憩いの場とされているが、実際には校舎の影になりやすく、人目が届かない死角である。

 煉瓦造りの花壇には、美しく手入れされた薔薇が咲き誇っているけれど、今の弥生には、その棘がやけに鋭く見えた。

 指定された場所に到着すると、そこにはすでに先客がいた。三人組の女子生徒だ。大人びた風貌からして、恐らく上級生だろう。

 真ん中に立つ生徒は、緩く巻いたロングヘアをツインテールにした、如何にも気が強そうな美少女だ。その両脇を固める二人も、取り巻きと呼ぶには洗練された雰囲気を纏っている。

 彼女たちは弥生の姿を認めると、扇子でも広げるような優雅さで、冷ややかな視線を向けてきた。

「来たわね、一年生」

 真ん中の女子生徒が口を開く。声は綺麗だが、温度がない。

「初めまして、望月弥生さん。突然呼び出して悪かったわね」

「い、いえ……。それで、ご用件は……」

 弥生が恐る恐る尋ねると、彼女はふっと鼻で笑った。

「単刀直入に言うわ。天野会長に近づくのはやめなさい」

 やはり、その話題だ。テンプレート通りの展開に、弥生は逆に冷静さを少しだけ取り戻した。

「あの方の隣に立つ資格があるのは、選ばれた人間だけなの。あなたみたいな、どこにでもいる平凡な一年生が、気安く触れていい方ではないのよ」

「そ、それは、私も重々承知してます……!」

 弥生は首がもげるのではないかという勢いで、激しく肯定した。

 相手の主張は尤もだ。いや、むしろ弥生自身が日々、鏡の前で自問自答していることそのものである。誰よりも自分が、この現状の理不尽さを嘆いているのだから。

「私だって、近づきたくて近づいてるわけじゃありません! むしろ逃げたいんです! でも、向こうから来るんです! 不可抗力なんです!」

「言い訳は見苦しいわよ」

 魂の叫びとも言える弥生の訴えは、残念ながら、目の前の少女には届かなかった。

「向こうから来る? 天野会長が、あなたみたいな地味な生徒に執着する理由なんてないでしょう? どうせ、あなたが何か汚い手を使ったに決まってるわ」

「汚い手って……」

「風紀委員の立場を利用して、興味を引いた? それとも、あの方の優しさにつけ込んで、あることないことを吹き込んだのかしら?」

 彼女が一歩近づくと同時に、フレグランスの匂いが鼻をつく。それはアヴリルのような上品な香りではなく、鼻の奥がツンとするような、きつい花の香りだった。

「昨日も見かけたわよ。天野会長にネクタイを直させてたでしょう? あの方が奉仕をするなんて、ありえないことなの。その薄汚れた制服に、あの方の神聖な指先が触れたと思うだけで、吐き気がするわ」

 理不尽な言いがかりである。

 そもそも、ネクタイを直させたのではない。直されたのだ。強制的に。

 だが、狂信的な信者に何を言っても無駄だろう。彼女たちの世界では、アヴリルは絶対的な神であり、その神を惑わす弥生は、排除すべき異端者なのだ。

「身の程を知りなさい。今、あなたが浴びている光はあなたの実力じゃない。天野会長のご慈悲という名のスポットライトを盗んでるだけなのよ」

 彼女の言葉は鋭利なナイフのように、弥生の最も繊細な部分を抉った。

 反論できない。なぜなら、その通りだからだ。

 自分はしがない町人Aだ。本来なら、スポットライトなど浴びるべきではない。日陰でひっそりと生きるのがお似合いの人間だ。

 それなのに、アヴリルの気まぐれに巻き込まれ、分不相応な場所に引きずり出されている。その居心地の悪さを、誰よりも感じているのは弥生自身なのだ。

「……仰る通りです。私も、自分の分は弁えているつもりです」

 弥生は唇を噛みしめると、視線を落とした。

「これからは、極力お目にかからないように努力します。公務以外では近づきませんし、話しかけられても逃げます。それで、許していただけないでしょうか」

 これ以上ないほどの全面降伏。プライドをかなぐり捨てた、土下座外交だ。けれど、相手の怒りの炎は、それくらいでは鎮火しなかったらしい。

「口先だけなら、なんとでも言えるわ」

 真ん中の女子生徒が、ぴしゃりと叩きつけるような口調で言い放つ。

「言葉じゃなくて、態度で示してもらわないと。……そうね、たとえば」

 彼女は足元の花壇から、泥のついた石ころを一つ拾い上げた。次いで、弥生の手を取り、その掌に石を押しつける。

「あなたみたいな人間には、この石がお似合いよ。これを大事に持って、一生、路傍の石として生きると誓いなさい。今ここで、天野会長との絶縁を宣言して」

 屈辱的な要求だった。泥にまみれた石ころが、掌を汚す。泥の冷たさが、掌から心臓へと伝播していく。

 惨めだった。悔しかった。だが、反論する言葉を持たない自分は、本当にこの石ころと同じなのかもしれない。そんな諦めが、涙よりも先に込み上げてくる。

「……わかり、ました」

 弥生が掠れた声で答えようとした、そのときだった。

「何をしているのかしら?」

 その声は、決して大きくはなかった。しかし、中庭の空気を一瞬にして凍りつかせ、時を止めるには充分すぎるほどの威厳を孕んでいた。

 温度が、下がる。うららかな春の日差しが降り注いでいるはずなのに、まるで極寒のブリザードが吹き荒れたかのような錯覚。

 三人の女子生徒が、弾かれたように振り返る。弥生もまた、石を握りしめたまま、声の主を見た。

 煉瓦造りのアーチの下に、腕を組みながら佇む人物がいた。

 風に靡くブロンドの髪。深い輝きを湛えた灰茶色の瞳。唇には感情の一切を感じさせない、能面のような笑みを浮かべている。

 学園の至宝と呼ぶべき美貌の生徒会長が、断罪という名の剣を携えて、そこに立っていた。

「あま、の、会長……?」

 さっきまで弥生を見下していた傲慢な色は瞬く間に霧散し、真ん中に立つ女子生徒の喉からは、引きつった声が漏れた。

 アヴリルは優雅な動作で腕を解くと、ゆっくりと歩き出す。静まり返った中庭に、ローファーの足音が、コツ、コツと死刑執行のカウントダウンのように響く。

 彼女は弥生たちの目の前で一度立ち止まり、まるで汚い物でも見るような目で、三人の女子生徒を一瞥した。そして、弥生へと視線を移す。

 その掌にある泥だらけの石を見た瞬間、アヴリルの瞳から、完全に光が消えた。

「ごきげんよう、皆さん」

 アヴリルが口を開く。その声は、鈴を転がすように美しく、同時に、背筋が凍るほどに冷たかった。

「ご歓談中に失礼するわね。それで――私の可愛い後輩に、一体何をプレゼントしていたのかしら?」

 ピシリと、空気が軋む音がした。アヴリルの纏っている冷気が、中庭の穏やかな陽だまりを物理的に圧迫し、空間そのものを歪ませているかのような錯覚に陥る。

 真ん中の女子生徒は、驚愕に凝り固まった表情を浮かべたまま、口元を震わせた。

「あ、天野会長……。ち、違います。これは、その……」

「違う? 何が違うのかしら」

 アヴリルは歩みを止めない。優雅な、しかし捕食者を思わせる足取りで、彼女たちの至近距離まで肉薄する。

「私の目は節穴ではないわ。あなたたちが、弥生さんにそれを贈呈しているところを、特等席で見せてもらったもの」

「み、見て……」

「ええ、そこの渡り廊下から。最初は微笑ましい交流かと思っていたのだけれど……どうやら、私の勘違いだったようね」

 アヴリルの声の温度が、さらに一度下がる。彼女は弥生を振り返ると、泥にまみれた手を取って、自分の両手で優しく包み込んだ。

「あ、天野先輩……! 汚れます、から……っ」

 弥生は慌てて手を引こうとするが、アヴリルの拘束は鋼のように固く、微動だにしない。

 白魚のような指が、遠慮なく泥に触れる。制服の袖口が汚れることなど、意に介する様子もない。その光景に、三人の女子生徒は息を飲んだ。

「あ、天野会長! いけません! 手をお放しください! 会長の手が汚れてしまいます!」

「そうです! その子は、その……ただの勘違いした一年生です! 天野会長が、そこまでしてあげる必要なんてありません!」

 彼女たちは悲鳴のような声を上げた。

 それは弥生への直接的な罵倒ではなく、あくまで『アヴリルの高貴さを守りたい』という忠誠心を装った言葉だった。

 けれど、その裏には『こんな泥だらけの女、天野会長が触れる価値もない』という強烈な差別意識が張りついている。

 だが、アヴリルは彼女たちの言葉を、羽虫の羽音ほどにも気にしていない様子で顔を上げる。

 その瞳には、侮蔑の感情すら浮かんでいない。あるのは、絶対的な無関心と、底知れぬ不快感のみ。

「汚れる、ね」

 アヴリルは短く零すと、弥生の掌にある石を、自らの指先で摘まみ上げた。

「確かに、そうかもしれない」

 彼女は石を太陽に翳す。泥がついた無骨な石は、逆光の中で黒い影となって浮かび上がった。

「道端に転がっていれば、誰も見向きもしないでしょう。蹴飛ばされ、踏みつけられ、風景の一部として埋没していく。あなたたちの言う通り、汚れた石ころに過ぎないわ」

 アヴリルの言葉に、女子生徒たちは安堵の表情を浮かべた。女神は自分たちの正しさを認めてくれたのだ、と。

 しかし次の瞬間、アヴリルはその石を、愛しげに自分の胸元へ抱き寄せた。

「だけど、それを拾って、宝石だと決めるのは誰かしら?」

「え?」

「価値とは、他人が決めるものではないわ。見出した者が決めるのよ」

 言いながら、アヴリルは凍てつくような流し目を三人に向ける。

「私がこの石をダイヤモンドより美しいと言えば、それはダイヤモンドになる。私が彼女を必要だと言えば、彼女は学内で最も貴い存在になる。それが、この月宿学園に於ける私のルールよ」

 あまりにも不遜で、独善的な理屈だ。けれど、彼女が口にした瞬間、その暴論は疑う余地のない世界の理へと変貌してしまう。

 アヴリルという存在が放つ輝きには、理不尽さえも正当化する、抗いがたい強制力があった。

 彼女は手にした石ころを、傍らにある花壇の縁に置いたのち、スカートのポケットからハンカチを取り出す。レースの縁取りが施された、見るからに高価なシルクのハンカチだ。

 アヴリルは純白のそれで、弥生の汚れた掌を丁寧に拭い始めた。

「あ、あの、天野先輩! ハンカチが……っ」

「いいのよ。あなたの汚れを拭えるなら、このハンカチも本望でしょう」

 アヴリルは優しく、慈しむように泥を拭き取っていく。指の一本一本、爪の隙間まで、愛撫するように。

 これに対して、女子生徒たちは信じられないものを見たという顔で石化していた。

 自分たちの崇める女神が、進んで卑しい女の泥を拭っているのだ。その光景は、彼女たちの常識を根底から粉砕するのに充分だった。

「さて」

 アヴリルは弥生の手を放すと、くるりと踵を返し、改めて三人と対峙する。

 弥生に向けていた春の日差しのような慈愛は、瞬きをする間に消え失せていた。そこに立っているのは、感情の一切を凍結させた、絶対零度の女神である。

「私が選んだ宝石に泥を塗り、傷つけようとした罪。どう償ってくれるのかしら?」

 静かな問いかけ。しかし、その背後には断頭台が見えるような圧迫感があった。

「わ、私たちは、ただ、天野会長のためを思って……!」

「私のため?」

 アヴリルは心底理解できないと言わんばかりに小首を傾げると、形のいい唇の端をわずかに吊り上げた。

「私の意思を勝手に推測し、私の所有物に手を出し、私の時間を無駄にさせることが、私のためになると? 思い上がりも甚だしいわ」

 彼女はこれ以上話すことはないといったふうに、ひらりと手を振る。

「下がりなさい。今後、二度と私の視界に入らないように気をつけて。あなたたちがそこにいるだけで、この美しい中庭の景観が損なわれてしまう」

 それは、社会的な死刑宣告も同然だった。

 憧れの生徒会長から、存在そのものを否定されたのだ。彼女たちのプライドは粉々に砕け散り、その破片すら残らなかった。

「も、申し訳ありませんでしたぁ……っ!」

 三人は涙目で叫ぶと、蜘蛛の子を散らすような勢いで、その場から逃げ出した。中庭に、静寂が戻ってくる。

 風が吹き抜け、花壇の薔薇がざわざわと揺れる中、弥生は呆然と立ち尽くしていた。あまりの急展開に、脳の処理が追いつかない。

 助かった。それは間違いない。だが、助けられた相手が、苛めっ子よりも遥かに強大なラスボスだったという事実は、素直に喜んでいいものだろうか。

「弥生さん」

 アヴリルがこちらに向き直る。その表情は、さっきの冷酷さが嘘のように柔らかかった。

「怖かったでしょう? もう大丈夫よ」

 彼女はそっと手を伸ばし、弥生の頭を撫でた。幼い子供をあやすような、優しい手つき。

 しかし、弥生は気づいてしまった。彼女の双眸の奥に、暗い炎が揺らめいていることに。

「ごめんなさい。私の管理が行き届いていなくて、不快な思いをさせてしまったわ」

「い、いえ……。助けていただいて、ありがとうございました」

「お礼なんていらないわ。自分のものを守るのは、当然のことだもの」

 自分のもの。その言葉が、ずしりと重く響く。やはりアヴリルの中で、弥生は所有物としてカテゴライズされているらしい。

「それにしても」

 アヴリルの視線が、花壇の縁に置かれたままの石ころへと注がれる。一連の騒動の元凶である泥だらけの石は、場違いな供物のように、そこに鎮座していた。

「この石、どうしましょうか?」

「え? あ、これは……捨てます。こんなもの、持ってても仕方ないですし」

 忌まわしい記憶ごと葬り去ろうと、弥生が花壇の土の上に石ころを払い落とそうとした、そのときだった。

 横から伸びてきたアヴリルの手が、弥生よりも早くその石を攫い、自らの掌中に収めた。

「駄目よ」

「はい?」

「それは、あなたが私との絶縁を誓わされそうになった証拠品であり、同時に、私があなたを選んだ記念すべき石よ」

 アヴリルは愛しげに石を眺めると、汚れていることも厭わず、自分のスカートのポケットにそれを仕舞い込んだ。

「ええっ!? 天野先輩、制服が汚れます!」

「構わないわ。これは私たちの絆の象徴として、生徒会室に飾っておきましょう」

「やめてください! ただの泥だらけの石ですよ!? そんなものを飾られたら、私の公開処刑が永続展示されちゃいます!」

 弥生は悲鳴を上げたが、アヴリルは聞く耳を持たない。

「それは素敵なオブジェになると思うわ。タイトルは『逃げられない石』かしら」

 ネーミングセンスがホラーだ。

 アヴリルは楽しそうに笑うと、弥生の手を取り、指を絡める。いわゆる、恋人繋ぎだ。

「さあ、行きましょう。お弁当が冷めてしまうわ」

「……お弁当って、まさか」

「ええ、今日も作ってきたの。タコさんウインナー、昨日の倍は入れておいたわよ」

 昨日の倍。つまり、あのどこから見ても目が合うモナリザウインナー軍団が、重箱の中で大行進しているということか。

「そ、それは楽しみ、ですね……」

 弥生は精一杯の感謝を示そうと口角を持ち上げたが、頬の筋肉が恐怖で痙攣し、ひきつけを起こしたような不気味な笑みを張りつかせることしかできなかった。

「ありがとう。今日は天気がいいから、生徒会室のバルコニーで食べましょう。全生徒に見える位置で、ね」

 アヴリルは悪戯っぽく、しかし本気度一〇〇パーセントの瞳でウィンクをする。

 全生徒に見える位置。それは即ち、さっきのような襲撃者に対する最大級の牽制であり、見せしめなのだろう。

 確かに、守られている。けれど、それは高い塀に囲まれた牢獄の中で、厳重に管理されているのと同義だった。

「はあ……」

 弥生は深いため息を吐き出す。

 握られた掌は少しだけ冷たく、アヴリルが好んでつけているフレグランスの上品な香りが、弥生を包み込んでいる。

 それらにめまいを覚えながら、弥生は大人しく引かれていくしかなかった。背後の花壇では、風に吹かれた薔薇たちが、くすくすと笑っているような気がした。

 町人Aとしての平穏な日常は、もはや遠い過去の遺物だ。これから弥生を待つのは、美しき女神の掌で転がされ続ける、小さな石ころとしての運命だけだった。


©一ノ瀬友香2026.

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