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四月は弥生を逃がさない  作者: 一ノ瀬友香
第二幕 私的幸福論
6/9

第二話 放課後の合同巡回

 放課後を告げるチャイムが鳴った瞬間、弥生の脳内には『脱兎』の二文字が、巨大なフォントで浮かび上がっていた。

 担任教師の話が終わるや否や、弥生は誰よりも早く、且つ目立たない動作で通学鞄を掴む。

 朝のメッセージ爆撃に始まり、昼の公開処刑ランチ、そして午後の授業中も背中に突き刺さり続けたクラスメイトたちの好奇の視線。精神的な摩耗は、限界値を突破している。

 寄り道など論外だ。一秒でも早く帰宅し、布団に包まって、動画サイトでお気に入りの時代劇を視聴しながら、現実逃避をする。それだけが、今の弥生に残された唯一の救済だった。

 さようなら、学校。また明日、少しだけほとぼりが冷めた世界で会いましょう。

 そんな別れの言葉を胸に、弥生が教室の扉に手をかけたとき、スカートのポケットに仕舞ってある携帯電話がブブッと短く、しかし不吉な振動を伝えてきた。

 嫌な予感しかしない。無視して帰りたかったが、もしも緊急の連絡だったらと思うと、確認しないわけにはいかないのが小市民の悲しい性だ。

 画面を見る。メッセージアプリの通知欄には、予想通り、そして予想以上に厄介な人物の名前が表示されていた。

 差出人の欄には、舞の名前。弥生は恐る恐るメッセージを開いた。そこには挨拶も前置きもなく、ただ慈悲のない命令文だけが記されていた。

『風紀委員会室へ直行しなさい。五分以内に来ないと学内放送で呼び出すから、そのつもりで』

 理不尽すぎる脅し文句に、弥生の思考は一瞬停止した。

「……鬼」

 がっくりと肩を落とす。三分。カップラーメンが出来上がるよりも早い。

 学内放送で『一年C組の望月さん。至急、風紀委員会室へ』などと晒されれば、ただでさえ注目を浴びている今の状況では、致命傷になりかねない。

 弥生は脱兎の如き速さで帰宅する計画を破棄し、忠実な下僕となって風紀委員会室へと走った。

 呼吸が浅くなり、肺が悲鳴を上げる。階段を駆け上がり、廊下を滑るように曲がり、息も絶え絶えに風紀委員会室の扉を開け放つと、そこにはいつもの光景があった。

 夕日が射し込む長机の上座。舞はティーカップを片手に、優雅に脚を組んで座っている。その手元には、有名パティスリーの包み紙が散乱していた。

「四分二十八秒。中々優秀じゃない。意外な才能だわ」

 舞は壁かけ時計を確認し、満足げに頷く。

「はあ、はあ……。急に呼び出して、なんなんですか。今日は非番のはずですが……」

 弥生が抗議すると、舞はわざとらしく目を丸くした。

「あら、話してなかったかしら? 今日から一週間、特別期間に入ることになったのよ」

「特別期間?」

「ええ。名づけて、『春のウキウキ、密着合同パトロール』よ」

 舞は真顔で、とんでもなくふざけたタイトルを口にした。

「……はい?」

 弥生は耳を疑った。今、なんと? ウキウキ? 密着? 深夜のバラエティ番組か何かだろうか。

「あの、舞先輩。私の聴覚がおかしくなったんじゃなければ、すごく頭の悪そうなタイトルが聞こえたんですが」

「失礼ね。キャッチーで親しみやすいネーミングでしょう? 正式名称は『学内規律の引きしめに関する合同プロジェクト』なんだけど、長いから変えたのよ」

 舞は机の上に置かれた書類を、ぱらりと指で弾いた。

 そこには確かに、尤もらしい明朝体で正式名称が記されているが、舞の口から出た通称の胡散くささは拭えない。

「最近、学内の規律が緩んでいるという報告が多数寄せられているの。挨拶の励行、制服の着こなし、放課後の過ごし方……。どれも由々しき事態だわ」

 舞は深刻そうな顔を作ってみせたが、その瞳の奥には、隠しきれない愉悦の色がちらついていた。

「そこで、風紀委員の巡回に生徒会役員が同行し、活動内容を監査、及び指導することになったの。素晴らしい試みでしょう?」

「……あの、舞先輩」

 弥生はじっとりと、上司を見据えた。

「それ、ただの口実ですよね?『密着』って部分に、公私混同な下心が透けて見えるんですけど」

「いいえ。私はいつだって、この学園の風紀を第一に考えてるわ」

 舞は白々しく言い放つと、弥生の背後にある出入り口のほうへと視線を向けた。

「ほら、あなたの担当監査官が来たわよ」

 振り返るまでもない。廊下から近づいてくる足音のリズムだけで、相手が誰なのかわかってしまう自分に嫌気が差す。

 コン、コン、コン。礼儀正しいノックのあと、扉が開かれた。

「失礼します」

 凛とした声と共に現れたのは、やはりと言うべきか、アヴリルだった。

 茜色に染まった廊下に佇み、ブロンドの髪を輝かせる姿は、宗教画の天使が地上に降り立ったかのような神々しさだ。

 しかし、その天使が腕につけているものは、生徒会の腕章ではなく、風紀と書かれた腕章だった。

「ごきげんよう、弥生さん。今日はよろしくね」

 アヴリルは、極上の微笑みを弥生に向ける。

「あ、天野先輩……。まさか、私の担当って……」

「ええ、私よ。くじ引きで公平に決めた結果、偶然にも弥生さんの担当になったの。運命を感じてしまうわね」

「そんな出来レースのくじ引き、この世に存在していいんでしょうか……」

 弥生が呟くと、舞がくすりと小さく笑った。

「細かいことを気にしないの。トップ同士の連携は組織の要よ。アヴリルには、弥生の指導を徹底的にやってもらうから、覚悟しておきなさい」

「ええ、任せてちょうだい。弥生さんのことは、手取り足取り、隅から隅まで、厳しく指導してあげるわ」

 言いながら、アヴリルが一歩近づいてくる。彼女の言葉には、公務の厳しさより、もっと粘着質で甘美なニュアンスが含まれていた。

「さあ、行きましょうか。放課後の校舎は、指導すべき場所がたくさんあるもの」

 アヴリルが差し出してきた手を見て、弥生は悟った。

 これは巡回ではない。公務という名の皮を被った、逃げ場のないデートの始まりなのだと。

 弥生がその絶望的な事実を噛みしめる間もなく、アヴリルは優雅に歩き出す。二人が足を踏み入れた放課後の廊下は、独特の喧騒に包まれていた。

 部活動に向かう生徒たちの足音、教室から漏れる笑い声、遠くのグラウンドから響くかけ声。そんな青春の一ページの中を、弥生は胃痛を堪えながら歩いていた。

 隣には、学園の至宝であるアヴリルの姿。二人が廊下を行くたびに、周囲の空気がさざ波のように揺れるのがわかる。

「あれって、天野会長だよね? なんで風紀の腕章をつけてるの?」

「隣にいるの、例の一年?」

「マジかよ。噂じゃなくて本当だったのか……」

 すれ違う生徒たちはみんな、驚愕の表情で道を空ける。まるで大名行列だ。

 アヴリルという圧倒的な光の隣にいるせいで、影であるはずの弥生の存在まで、浮き彫りになってしまっている。

「……あの、天野先輩。少し距離が近くないですか? 巡回中ですので、もう少し離れていただいたほうが……」

 弥生が小声で提案するが、アヴリルは涼しい顔で首を振った。

「そんなことはないわ。監査のためには、対象の行動を詳細に観察する必要があるの。これでも遠いくらいよ」

 そう言って、彼女はさらに距離を詰めてくる。肩と肩が触れ合うどころか、歩くたびに二の腕が擦れ合う距離だ。

 弥生は必死に仕事に集中しようとした。あくまで、これは業務だ。私は風紀委員。彼女はただの監査官。

「あ、そこの男子! 廊下を走らな――」

 注意しようと声を張り上げようとした瞬間、アヴリルの手が伸びてきた。

「お待ちなさい、弥生さん」

「え?」

「ネクタイが、少し曲がっていてよ」

 アヴリルは立ち止まり、弥生の正面に回り込んだ。白く細い指が、弥生の胸元を飾るネクタイに触れる。

「みっともない格好をしていては、示しがつかないわ。じっとしていて」

「い、いえ! 自分で直せますから!」

「駄目よ。私が直したいの」

 有無を言わせぬ圧力。弥生は直立不動で硬直するしかない。

 アヴリルはゆっくりと、時間をかけて、ネクタイを整える。彼女の指先が、わざとかと思うほど、鎖骨や首筋の辺りを掠めた。ひやりとした指の感触に、弥生の背筋が粟立つ。

 至近距離にあるアヴリルの顔。長い睫毛が伏せられ、陶器のような肌が夕日に染まっている。美しい。悔しいけれど、見惚れてしまうほど綺麗だ。

 周囲の生徒たちが息を飲んで、その光景を見守っているのがわかった。

「……天野会長、あの子の世話を焼いてるの?」

「なんか、不可侵領域って感じ……」

「尊い……」

 囁き声が聞こえる。これは誤解だ。完全に誤解されている。

 アヴリルは丁寧にネクタイを結び直すと、最後にぽんっと、弥生の肩を軽く叩いた。

「はい、綺麗になったわ。これでこそ、私のパートナーね」

 彼女は満足げに微笑んだ。その笑顔は、慈愛に満ちた聖女のもののようでいて、その実、周囲に対して『この子は私のものよ』と宣言する、女王のそれだった。

 自分たちの半径五メートル以内に近づくことを許さない、強烈な所有権の主張。弥生は顔から火が出る思いだった。

「……仕事に、なりません」

「あら、なぜ? 私は身嗜みの指導をしただけよ」

 アヴリルは悪びれもせず、再び歩き出す。この人は、確信犯だ。公務という建前があれば、何をしても許されると思っている。

 そのまま二階の渡り廊下付近まで来たときだった。

「こら、そこ! 上履きの踵を踏まない! 何度言ったらわかるのぉ?」

 抜けるように高い声が響いた。見ると、前方で一人の女子生徒が、だらしない格好の男子生徒を呼び止めていた。

 勿忘草色のロングヘアを揺らし、毅然とした態度で違反切符を切っているのは、水無月だ。

「げっ、東……。勘弁してくれよ」

「勘弁も何もないよ。次にやったら反省文だからねぇ。はい、行ってよし!」

 男子生徒を追い払った水無月は、ふとこちらに目を向けると、露骨に顔を引きつらせた。

「うわぁ」

 彼女の口から漏れたのは、同僚への挨拶ではなく、ドン引きの声だった。弥生は救世主に会った気分で、駆け寄ろうとした。

「お、お疲れ様、水無月! 奇遇だね。こっちのエリアだったんだ!」

「う、うん。偶然だねぇ、弥生ちゃん。……っていうか、何? その状況」

 水無月の視線は、弥生の背後にぴったりと張りついているアヴリルに向けられている。

「アヴリル先輩、お疲れ様です」

「ええ、お疲れ様」

 アヴリルの声色は、普段通り柔らかく、上品なものだった。

 だが、弥生は気づいてしまった。アヴリルの目が、まったく笑っていないことに。

 ハイライトが消えた灰茶色の瞳が、冷ややかに水無月を見下ろしている。さっきまで弥生に向けていた熱っぽい眼差しとは、温度差にして一〇〇度くらいの開きがある。

「東水無月さん、といったわね? あなたは一人で巡回かしら? 熱心ね」

「はあ、どうも。私の担当監査官が、風邪で休みなものでして……」

「そう。こんなに真面目な風紀委員がいてくれれば、学園の未来も安泰だわ。ところで――弥生さんは、いつまで立ち話をしているつもり? 巡回中だというのに、楽しそうじゃない」

 チクリと棘のある言葉。弥生は反射的に身を固くした。これは、自分と水無月が親しげに話していることへの牽制だ。

 水無月もまた、アヴリルが発する不穏な空気を察知したらしい。彼女は『やばい』と顔に書きながら、一歩後退った。

「あー、ええと……。こっちのエリア、まだ人通りが多くて忙しいんで、私はここで粘りますねぇ」

 水無月は視線を泳がせながら、早口で捲し立てる。

「弥生ちゃんたちは、そっちの特別教室棟をお願いできるかな? あそこ、人気がないからサボりの溜まり場になりやすいし、アヴリル先輩と一緒なら効果抜群だと思うんで!」

「え、ちょっ、水無月!?」

 弥生が縋るように呼び止める。だが、水無月の顔は完全に蒼褪めていた。

「ごめんね、弥生ちゃん。私の目には、アヴリル先輩の背後に、般若のお面が見えるの……!」

 捨て台詞のように小声で言い残すと、彼女は回れ右をして、早足気味にその場を去っていく。

 見捨てられた。あの優秀な仕事人は、アヴリルの圧に耐えかねて、同僚を人身御供に差し出したのだ。

「あの子、察しがいいわね。少しだけ評価してあげる」

 アヴリルがぽつりと呟く。その声には、邪魔者がいなくなったことへの、微かな安堵が含まれていた。

「だけど、東さんの言葉にも一理あるわ。特別教室棟のほうを、重点的に回りましょうか」

「は、はい……」

 弥生は力なく頷いた。

 特別教室棟。そこは放課後になるとほとんど人が立ち入らない、静寂のエリアだ。それはつまり、完全なる密室への招待状だった。

 本校舎から渡り廊下を越えると、空気の密度が変わったように感じられた。

 特別教室棟はしんと静まり返り、西日に照らされた埃が、キラキラと宙を舞っている。

 聞こえるのは、二人の足音だけ。さっきまでの喧騒が嘘のような静けさが、弥生の不安を煽る。

 アヴリルは上機嫌だった。鼻歌混じりに歩き、時折窓の外を指差しては、『あの雲、迷子の兎みたいね。誰かさんにそっくりだわ』などと、完全にデート気分の会話を振ってくる。

「あの、天野先輩。雲の話もいいですが、不審な点がないか、確認を……」

「そうね。……あら?」

 アヴリルが足を止めたのは、第二音楽室の前だった。

「鍵が開いているみたい」

 彼女はドアノブに手をかけ、静かに捻った。鍵がかかっているはずの扉が、音もなく開く。

「確認しましょう」

「え、でも、中には誰も……」

「一般生徒が隠れているかもしれないわ。風紀委員としては、見過ごせないでしょう?」

 アヴリルは悪戯っぽく笑うと、弥生の手を引いて、中へと入った。

 音楽室には、誰もいなかった。

 グランドピアノが黒い巨体のように鎮座し、壁にはバッハやベートーヴェンの肖像画が飾られている。夕日が窓から差し込み、部屋全体を茜色に染め上げていた。

「……誰もいませんね。行きましょう、天野先輩」

 弥生が踵を返そうとした瞬間、背後でカチャリと鍵をかける音がした。

 心臓が跳ねる。恐る恐る振り返ると、アヴリルが扉の前に立ち塞がっていた。

「天野、先輩……?」

「まだよ。窓の鍵も確認しないと」

 アヴリルはゆっくりと近づいてくる。その瞳は、夕日のせいだけではない、妖しい輝きを宿していた。

「ねえ、弥生さん」

 彼女の声が、甘く、低く、鼓膜を震わせる。

「さっき、東さんとずいぶんと親しげに話をしていたわね」

 確信に触れてきた。

 弥生はじりじりと後退る。背中がグランドピアノに当たった。

「そ、れは……クラスメイトですし、風紀委員の同僚でもありますし……」

「そう。クラスメイトで同僚、ね」

 アヴリルは一歩、また一歩と距離を詰めてくる。

「私の前ではこんなに緊張しているのに、あの子の前ではリラックスした顔を見せるのね。……少し、妬けるわ」

 その言葉は、冗談には聞こえなかった。

 彼女の手が伸び、弥生の逃げ道を塞ぐようにピアノの縁に突かれた。壁ドンならぬ、ピアノドンだ。

「あ、あの、天野先輩。今は、公務中、です……」

「ええ、そうね。だから、これは指導よ」

 そう言って、アヴリルは顔を寄せてきた。鼻先が触れ合う距離。彼女から漂う、フレグランスの上品な香りが、弥生の思考を麻痺させる。

「あなたは、昔から無防備すぎるわ」

「え……?」

「三年前、誰もいないと思って、雨の中で踊っていたときも。そして今、誰にでもそんな不用心な笑顔を見せているときも」

 アヴリルの瞳が、危険な色を帯びて揺らめく。

「そんな無防備な顔を晒していたら、悪い狼に食べられてしまうかもしれないわよ」

「お、狼って……」

 今、目の前にいる、世界一美しい狼のことだろうか。

「私以外の前で、隙を見せないで」

 アヴリルの指先が、弥生の髪を掬い上げる。次いで、彼女は弥生の首筋に顔を埋めるようにして、深く息を吸い込んだ。

「ひゃっ……」

 弥生は悲鳴を上げそうになり、自分の口元を両手で覆った。

 温かい吐息が肌にかかる。ぞくりとした快感と恐怖が、背骨を駆け上がった。

「……いい匂い」

 アヴリルが陶然と呟く。

「私のフレグランスの香りが、あなたの体から仄かに感じるわ。……嬉しい」

 この巡回中、彼女が執拗に距離を詰めてきた結果だろうか。あるいは、今こうして首筋に顔を埋めていることで、意図的に移しているのか。

 どちらにせよ、これは明確なマーキングだった。目には見えない首輪。所有者の証。

「これで、悪い虫も寄ってこないわね」

 アヴリルは顔を上げて、弥生を見つめた。その瞳は、甘く、深く、どこまでも重い愛情を湛えていた。

「弥生さんは、私だけのものよ。……わかった?」

 拒否権などない。肯定以外の言葉は、この空間には存在しない。弥生は操り人形のように、こくこくと頷くことしかできなかった。

「よろしい」

 アヴリルは満足げに目を細めると、すっと身を引いた。さっきまでの妖艶な空気は鳴りをひそめ、いつもの完璧な生徒会長の仮面が戻ってくる。

「さあ、窓の確認も終わったことだし、戻りましょうか。舞が首を長くして待っているわ」

 彼女は何事もなかったかのように微笑み、扉の鍵を開ける。取り残された弥生は、グランドピアノに寄りかかったまま、しばらく動けなかった。

 血が逆流するような感覚。首筋には、彼女の吐息の熱が火傷のように残っている。

 公私混同。職権乱用。そんな言葉では生温い。

 この人は、本気だ。本気で、弥生という存在のすべてを侵食し、支配しようとしている。

「……面倒くさい、なんてレベルじゃない……」

 弥生は呆然と呟いた。

 美しく、完璧で、そして底なしに昏い愛情を持つ生徒会長。その魔の手から逃れる術は、やはりどこにも見当たらなかった。

 巡回という名の密会を終え、二人が風紀委員会室に戻った頃には、窓の外は完全に夜の帳が下りていた。

 そんな中、弥生は魂が抜けたような表情で椅子に座り込んでいた。対照的に、アヴリルは肌艶もよく、エネルギーに満ち溢れている。

「お疲れ様。ずいぶんと熱心な巡回だったみたいね」

 舞が、アヴリルから提出された活動報告書に目を通しながら告げた。

 そこには、『風紀委員・望月弥生への指導記録』として、彼女の些細な行動、発言、表情の変化までもが、緻密に記録されていた。

 一見すると完璧な監査報告だが、その執着的なまでの情報量は、もはや観察日記の域を超えている。

「ええ、とても有意義だったわ。弥生さんも、風紀委員としての自覚が深まったんじゃないかしら?」

 アヴリルが同意を求めるように微笑む。弥生は死んだ魚のような目で、明後日の方向を見据えたまま答えた。

「……はい。身も心も、指導されました……」

「あらそう。それは何よりだわ」

 舞は報告書をファイルに仕舞い込むと、にやりと口角を吊り上げた。

「成果は上々みたいだし、この合同強化週間、延長してもいいかもしれないわね」

「本当? それは素敵な提案だわ」

「か、勘弁してください……っ!」

 弥生の悲痛な叫びが、夜の風紀委員会室に木霊する。

 アヴリルの侵攻は、まだ始まったばかり。聖域を失った町人Aの受難の日々は、これからが本番なのだった。


©一ノ瀬友香2026.

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