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四月は弥生を逃がさない  作者: 一ノ瀬友香
第二幕 私的幸福論
5/10

第一話 公開処刑のファンファーレ

 朝、目が覚めた瞬間に最初に感じたのは、絶望だった。カーテンの隙間から差し込む陽光は、皮肉なほどに清々しい。

 小鳥の囀りさえ聞こえてきそうな爽やかな朝だというのに、弥生の心には、鉛を溶かし込んだような重たい雲が垂れ込めていた。

 布団という名の絶対防壁から、顔だけを出す。枕元には、携帯電話が鎮座している。

 それは現代社会における必需品であり、情報端末であり、今の弥生には、逃れられない呪いの受信機でもあった。

 恐る恐る、画面をタップする。ロック画面に表示された通知の羅列を見て、弥生はひっと短い悲鳴を上げながら、再び布団の中へと潜り込んだ。

 メッセージアプリからの通知だ。差出人の欄には『天野・クリスティーヌ・アヴリル』の文字。それが三件も連なっている。

 見間違いであってほしかった。あるいは、昨日の出来事すべてが悪夢であってほしかった。しかし、現実は非情だ。

 弥生は震える指でパスコードを解除し、トーク画面を開く。

 午前六時三十分。

『おはよう、弥生さん。よく眠れたかしら?』

 そんな優雅なメッセージと共に、可愛らしい白猫が窓辺で優雅に紅茶を飲んでいるスタンプが送られてきていた。

 午前七時。

『今日の天気予報は晴れよ。赤い傘の出番がないのは残念だけど、その分、太陽の下のあなたを見られるのが楽しみだわ』

 午前七時十五分。

『まだ寝ているのかしら? お寝坊さんね。でも、そんなところも可愛いわ』

 文面だけを見れば、付き合いたてのカップルのような甘いやり取りだ。けれど、弥生にとっては、時限爆弾のカウントダウンに見える。

(ま、まずい。返信しないと……)

 既読をつけてしまった以上、放置は許されない。

 相手はあのアヴリルだ。無視を決め込めば、生徒会長の権限で名簿を閲覧し、SPを引き連れて、自宅まで突入してくる可能性すらある。

 今はまだ住所を知られていないはずだが、彼女ほどの権力者になれば、個人情報の壁など紙切れ同然だろう。弥生は冷や汗を拭いながら、文字を入力した。

『おはようございます、天野先輩。すみません、寝坊しました。今から準備して学校へ行きます』

 送信ボタンを押す。その直後だった。

 画面上に既読マークがついたのは、コンマ一秒後。そして、弥生が瞬きをする間に、新しいメッセージが吹き出しとなって現れた。

『おはよう。返信ありがとう。学園で待っているわね』

 さらに、ハートマークを飛ばす白猫のスタンプ。

「早っ!?」

 弥生は思わず携帯電話を取り落とした。

 即レスどころの騒ぎではない。まるで画面の向こうで、弥生が送信する瞬間を、今か今かと待ち構えていたかのような反応速度だ。

 これは、監視だ。デジタル回線を通じた、二十四時間体制のパノプティコン。弥生は天井を仰ぎ、深いため息をついた。

「……行きたくない」

 本気でそう思った。

 風邪を引いたことにして休もうか。いや、そんなことをすれば、お見舞いと称してアヴリルが家を特定し、乗り込んでくるかもしれない。それはもっと怖い。

 詰んでいる。どう足掻いても、弥生の運命は袋小路に入り込んでいた。

 逃避は不可能だ。そう悟った弥生は、覚悟を決めて身支度を整えると、足を引きずりながら玄関の扉を開けた。

 外の世界へ踏み出すと、昨日の豪雨が嘘のように、突き抜ける青空が広がっていた。水溜まりが、陽光を反射してキラキラと輝いている。

 世界はこんなにも美しいのに、弥生の心は闇市のように薄暗い。

 通学路を歩き、校門が見えてくるにつれて、心拍数が上がっていく。

 弥生は通学鞄を盾にするように胸元へ抱え、顔を半分ほど隠して、気配を消すことに全力を注いだ。

 私は石ころ。私はアスファルトの染み。私は背景の一部。自己暗示をかけながら、昇降口へと足を踏み入れる。刹那、場の空気が変わったのを肌で感じた。

「……あれ、あの子じゃない?」

「え、本当? 風紀委員の?」

「嘘でしょ。あんな地味な子が?」

 さざ波のような囁き声が、全方位から押し寄せてくる。

 直接話しかけてくる者はいない。だが、突き刺さる視線の数は、普段の比ではなかった。好奇心、困惑、そして値踏みするような眼差し。

 昨日の下校時、美貌の生徒会長と相合傘で腕を組んで帰ったという事実は、一夜にして学園中の噂となっていたらしい。SNS社会の伝播速度を呪いたい。

(幻聴だ。これは幻聴。みんな、昨日のドラマの話をしてるだけ)

 弥生は必死に心を無にし、靴箱を開ける。上履きに履き替えようとしたとき、背後から男子生徒たちの会話が漏れ聞こえてきた。

「天野会長、趣味が変わったのかな」

「あるいは、あの一年にとんでもない才能があるとか」

「いや、実は某国の王族の隠し子説に一票」

 話が壮大になりすぎている。王族の隠し子が、スーパーの見切り品のみたらし団子で喜ぶわけがないだろう。

 しかし、不幸中の幸いと言うべきか、聞こえてくる声に悪意は少なかった。

 これが少女漫画なら、『あんた生意気よ』などと因縁をつけられ、靴に画鋲を入れられる展開だが、月宿学園の生徒たちはそこまで暇ではないらしい。

 彼らの反応は、ひとことで言えば、困惑だった。

 高嶺の花であるアヴリルが目をかける相手が、あまりにも平凡すぎる弥生だったがゆえに、嫉妬という感情すら湧かず、ただただ疑問符が浮かんでいる状態なのだ。

 それは、まるで高級フレンチのメインディッシュに、お茶漬けが出てきたような違和感とでも言うべきか。

「珍獣扱い、だな……」

 弥生は小さく呟くと、逃げるようにその場を去った。

 教室に入ると、一瞬だけ静寂が訪れた。クラスメイトたちの視線が、一斉に弥生に注がれる。

 だが、誰も話しかけてはこない。どう接していいのかわからないという戸惑いが、教室中に充満している。

 弥生は誰とも目を合わせず、教室の最後列、窓際にある自分の席へと滑り込んだ。ここだけが、自分の聖域である。

 机に突っ伏し、息を吐く。教室という箱庭の隅っこで、息をひそめていれば、嵐はいつか過ぎ去るはずだ。

「おはよぉ、弥生ちゃん。朝からお疲れモードだねぇ」

 頭上から降ってきた声に、弥生はびくりと肩を跳ねさせた。顔を上げると、隣の席のあずま水無月みなづきが、頬杖を突きながら、こちらを見下ろしている。

 緩やかなウェーブがかかった勿忘草色のロングヘアをふわりと揺らし、にやにやと表情を緩ませる様は、面白いニュースを見つけてご機嫌な野次馬そのものだった。

「……おはよう、水無月。私はもう、朝からライフがゼロだよ」

「だろうねぇ。今朝のトレンド、完全に弥生ちゃんだもん。『あの子が生徒会長のシンデレラか?』って持ちきりだよ」

「シンデレラなんて素敵なものじゃないよ。あれは、ドナドナされる子牛を見る目だった……」

 弥生が再び机に額を擦りつけると、水無月は可笑しそうに笑った。

「それで、実際どうなのさ? 昨日のあれ」

 水無月は椅子を引き寄せ、声をひそめる。その目は、獲物を狙う週刊誌記者の如く輝いていた。

「アヴリル先輩と、どういう関係? ただの先輩後輩じゃ、あんな距離感にならないでしょう。腕を組んで、相合傘して、見つめ合っちゃうなんてさ」

「そ、それは成り行きというか、不可抗力というか……」

「えー? 不可抗力で、あのアヴリル先輩が平委員と腕組みなんてするかなぁ」

 水無月は意地悪く追及してくる。

「もしかして、弱みでも握られた?」

 ドキリとした。弱み。そう、ある意味ではその通りだ。

 三年前の雨の日。誰も見ていないと思って、映画の主人公気取りで赤い傘を回し、ステップを踏んでいたあの姿。

 それを、よりにもよって憧れの生徒会長に一部始終見られていたなんて、黒歴史以外の何者でもない。それを盾に取られているようなものだ。

「……似たようなもの、かも」

「ふぅん」

 弥生が曖昧に答えると、水無月は興味深そうに目を細めた。

「そういえば、昨日はごめんね。家庭科部の活動が長引いちゃって、委員会に顔を出せなかったからさ。こんな面白いイベントがあるなら、クッキーなんて焼いてる場合じゃなかったよ」

 この水無月という少女は、風紀委員会と家庭科部をかけ持ちしている器用な人間だ。昨日の定例会議にいなかったのも、そのためらしい。

「……いや、来なくて正解だったよ。巻き込まれたら、水無月まで灰になってたかもしれない」

「あはは、怖い怖い。でも、弥生ちゃんは気をつけたほうがいいかもねぇ」

「え?」

「アヴリル先輩って、見た目は女神だけど、中身は結構重そうだから。弥生ちゃんみたいな無防備な子なんて、骨の髄までしゃぶり尽くされちゃうかもよ?」

 水無月はからかうように言って、ウィンクをした。冗談めかした口調だったが、弥生にはそれが、的確すぎる予言に聞こえてならなかった。

 午前中の授業は、針のむしろだった。

 背中に突き刺さる視線を物理的に感じながら、弥生はひたすらノートを取る振りをして、耐え忍んだ。

 そして、待ちに待った昼休み。四時間目の終了を告げるチャイムが鳴り響く。

(よし、今日は購買には行かない。教室でお弁当を食べて、静かに過ごそう)

 移動教室や購買の混雑に巻き込まれれば、また好奇の目に晒される。今日はこの席を一歩も動かない。ここを要塞とする。

 弥生が通学鞄から弁当箱を取り出そうとしたとき、不意に、教室の扉がけたたましい音を立てて開け放たれた。

 乾いた滑車と衝突音が響き、それはよくある日常の光景として、処理されるはずだった。他のクラスの生徒が、友人を呼びに来ただけだろうと。

 そう思った弥生だが、すぐに教室内の空気が一変したことに気づいた。雑談のざわめきが、波が引くように消える。

 代わりに満ちたのは、ピンと張り詰めた緊張感と、それを上回る圧倒的な高揚感。そして、凛とした気配。まさか。

 嫌な予感が背筋を駆け上がる。弥生は錆びついた首を、ぎぎぎと入り口のほうへと向けた。

 そこに、彼女はいた。アヴリルだ。

 制服の着こなし一つ乱れぬ完璧な姿で、彼女は教室の入り口に佇んでいた。ブロンドのハーフアップが、神々しいほどの光を放っている。

 その姿は、庶民の長屋に迷い込んだ貴族のお姫様そのものだった。

「うわぁ、本当に来た……!」

 隣で水無月が、驚いたように呟くのが聞こえた。

 アヴリルは教室内を見回し、弥生の姿を見つけた瞬間、その美貌に満面の笑みを咲かせた。

「見つけた」

 彼女は迷うことなく歩き出した。机の間を縫うように、優雅な足取りで進んでくる。生徒たちはモーゼの十戒のように、慌てて道を開けた。

 コツコツとローファーの音が響くたび、弥生の心臓が早鐘を打つ。やめて。こっちに来ないで。私の平和な聖域を壊さないで。

 心の叫びも虚しく、アヴリルは弥生の机の前に到達した。

「ごきげんよう、弥生さん」

 鈴を転がすような声が、静まり返った教室に響き渡る。

「ご、ごきげんよう、天野先輩……」

 弥生は、引きつった笑顔で応じるのが精一杯だった。クラスメイトの視線が、レーザーサイトのように二人に集中している。

「あの……どうして、ここに?」

「どうしてって、お昼休みだもの。あなたを迎えにきたのよ」

 アヴリルは当然のことのように言い放った。

「む、迎え?」

「ええ。一緒にランチをしましょう?」

 それは疑問形だったが、実質的には命令に等しい。

 アヴリルは弥生の机の上に置かれた弁当包みを見ると、愛しそうに目を細めた。

「お弁当を持参しているのね、偉いわ。だけど、今日は私が用意してきたから、それは夕食に回してちょうだい」

「え? 用意って……」

「夕食に回すことに抵抗があるのなら、二人で食べてしまいましょう。さあ、行くわよ」

 アヴリルは白く細い手を、弥生の目の前に差し出した。ダンスのパートナーを誘うような、洗練された仕草。

 教室のあちこちから、一部のクラスメイトの感嘆の声が漏れる。

 彼らにとって、この光景は尊い絵画か何かに見えているのかもしれないが、当事者である弥生にとっては、公開処刑である。

「あ、あの、天野先輩。クラスのみんなが見てます……」

「見ていればいいわ。私たちは、悪いことなんてしていないもの」

 アヴリルは微塵も動じない。むしろ、この注目を楽しんでいる節さえある。

「ほら、弥生さん」

 差し出された手が、くいくいと手招きする。拒否権はない。

 ここで断れば、アヴリルが悲しそうな顔をする――振りをする――だろうし、そうなれば周囲の好感度は地に落ち、弥生は生徒会長の誘いを断った不届き者として認知されるだろう。

 詰んでいる。本日二度目の詰みだ。弥生は観念して、おずおずとその手に自分の手を重ねた。

「わかり、ました……」

 アヴリルの手が、きゅっと弥生の手を握りしめてくる。冷たい。昨日も感じた、ひやりとした体温。

 彼女は満足げに微笑むと、弥生の手を引いて歩き出した。

「行ってらっしゃい、弥生ちゃん。お土産話、期待してるよぉ」

 背後から、水無月の楽しそうな声が飛んでくる。この裏切り者め。あとで呪ってやる。

 弥生はクラスメイトたちの視線に見送られながら、処刑場へと引かれる囚人のような気持ちで教室を立ち去った。ガラリと扉が閉まる音が、聖域の崩壊を告げる弔鐘のように聞こえた。

 連れられた先は、当然のように生徒会室だった。しんと静まり返ったその場所は、完全なる密室である。

「さあ、座って」

 アヴリルは上機嫌で、弥生を応接セットのソファに座らせると、自分もその隣にぴったりとくっついて座った。

 近い。太ももが触れ合っている。この広いソファで、なぜわざわざ密着する必要があるのだろう。

「あ、あの、天野先輩? 他の役員の方たちは……?」

 弥生が恐る恐る尋ねると、アヴリルはにっこりと微笑んだ。

「みんな、食事に出ているわ。だから今、ここにいるのは、私たちだけよ」

 私たちだけ。その言葉が持つ意味を理解した瞬間、弥生の背筋に冷たいものが走った。

 逃げ場はない。誰も助けに来ない。ここは、美しき捕食者の巣穴だ。

「弥生さんと二人きりで、ゆっくりとランチを楽しみたかったの」

 彼女は嬉しそうに言うと、大きなバスケットから二つの弁当箱を取り出す。漆塗りの、高級そうな重箱だ。

 蓋を開けると、色とりどりのおかずが宝石箱のように詰め込まれていた。いや、それは単なる比喩ではない。

 おかずの配置は黄金比を考慮したかのように幾何学的で、一分の隙もなく整列している。特に、異彩を放っているのが、タコさんウインナーだ。

 足の反り具合が芸術的なまでに均一で、黒胡麻でつけられた瞳は、なぜかモナリザのように、どこから見ても目が合う仕様になっている。

 人参の飾り切りに至っては、ルーヴル美術館に展示されていてもおかしくない、彫刻レベルの完成度だ。完璧すぎて、逆に怖い。

(……怖い。完璧すぎて、逆に怖い)

 弥生は戦慄した。これは単なる料理ではない。アヴリルという人間の、狂気的なまでの完璧主義と、弥生への重い執着が具現化したものだ。

「はい、弥生さん。あーん」

「えっ……!?」

 思考する間もなく、アヴリルは箸の先で卵焼きを摘まみ、当然のように弥生の口元へと運んでくる。弥生は絶句した。

「あ、天野先輩? 自分で食べられますから!」

「駄目よ。私の手作りなんだから、私の手で食べさせてあげたいの」

「手作り!?」

 この完璧超人なお嬢様は、料理までするのか。しかも、私のために?

「さあ、口を開けて」

 アヴリルの瞳は、有無を言わせぬ光を宿している。拒否は許されない。

 もしも断れば、この密室で何をされるかわからないという、本能的な恐怖があった。

 弥生は覚悟を決めると、震える唇を開いた。甘い出汁の香りが鼻腔に流れ込んでくる。口に含むと、途端に上品な甘さと出汁の風味が広がる。悔しいが、絶品だった。

「……美味しい、です」

「それならよかった」

 アヴリルは花が咲くように微笑んだ。その笑顔の破壊力たるや、核兵器級だ。弥生の胸が、不覚にも高鳴る。

 静寂に包まれた部屋で、二人きり。聞こえるのは、衣擦れの音と、自分の心臓の音だけ。

 怖い。重い。逃げたい。それなのに、彼女に優しくされると、どうしようもなくときめいてしまう自分がいる。

 その一方で、この甘い毒に侵されてしまったら、二度と平穏な町人Aの日々には戻れない気がした。

 アヴリルは満足げに弥生の顔を見つめると、次は唐揚げを箸で摘まんだ。この甘美な餌づけは、弁当箱が空になるまで続くのだろう。

 けれど、弥生はまだ知らなかった。この甘い時間は、さらなる波乱の幕開けに過ぎないということを。


©一ノ瀬友香2026.

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