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四月は弥生を逃がさない  作者: 一ノ瀬友香
第一幕 甘い包囲網
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第三話 赤い密室と断たれた退路

 雨は、世界を分断する壁だ。

 空から無数に降り注ぐ水の槍は、視界を遮り、音を塗り潰し、個という存在を孤独なカプセルへと閉じ込める。

 だからこそ、傘という道具は、その孤独を守るためのシェルターとして機能するはずだった。今、この瞬間までは。

「……あの、天野先輩」

 弥生の喉から、掠れた声が漏れ出した。

 視界のすべてが赤かった。頭上に広がるのは、見慣れた自分の傘の生地。透過した光が、彼女の顔を淡い朱色に染め上げている。

 その赤いドームの中に、あろうことかアヴリルが収まっていた。

 しかも、ただ入っているのではない。二の腕が触れ合うどころか、互いの体温が衣服越しに溶け合うほどの密着度だ。

「何かしら?」

 耳元で、甘露を垂らすような声がした。吐息が耳朶を掠める距離。弥生の心臓が、肋骨を内側から叩き割らんばかりに跳ねる。

「天野先輩は……傘、お持ちじゃないんですか?」

 弥生の視線は、アヴリルの反対側の手に握られた、上等な革巻きの柄に向けられていた。それはどう見ても、一般庶民が使う安物の傘などではない、英国王室御用達のような高級長傘だ。

 アヴリルは弥生の視線に気づくと、小首を傾げて優雅に微笑んだ。

「あるわよ」

「で、ですよね。それなら、どうして……」

「だって、私の傘は大きすぎるんだもの」

 彼女は何食わぬ顔で、とんでもない理屈を口にした。

「大きすぎる、ですか?」

「ええ。あれを広げると、雨なんて一滴も入ってこないわ。まるで移動要塞よ」

「……それ、傘としては百点満点じゃないですか。濡れなくて済むのに」

「だけど、それだと遠いの」

 アヴリルは、握りしめた弥生の右腕に、きゅっと力を込めた。柔らかく、それでいて逃げ場のない拘束感が強まる。

「雨音が邪魔をして、あなたの声が聞こえなくなってしまうかもしれない。あなたの体温が、雨の冷たさに奪われてしまうかもしれない。そんなの、嫌でしょう?」

 嫌なのは、この心臓に悪い距離感のほうだと言いたかったが、弥生は言葉を飲み込んだ。

 彼女の灰茶色の瞳が、至近距離からこちらを射抜いている。その視線の奥には、有無を言わせぬ光が宿っていた。それは、単なる気まぐれや親切心ではない。

 あなたと一緒にいたい――そんな混じり気のない、純粋な熱情だった。

 言葉にすれば、乙女チックで可愛らしい願望だ。けれど、彼女が放つ圧倒的な存在感と、あまりにもまっすぐな視線が、その願いを決定事項へと昇華させてしまっている。

「それに、この赤い傘。中から見上げると、夕焼けの中にいるみたいで、とっても素敵」

 アヴリルは陶然とした表情で天井を見上げた。

「二人だけの、赤いお部屋ね」

 その表現に、弥生の背筋がぞくりと震えた。密室。そう、これは密室だ。

 周囲を激しい雨の壁に囲まれ、頭上を赤い布で覆われた、移動式の監獄。看守は美貌の生徒会長で、囚人は名もなき町人A。逃げ場など、どこにもなかった。

 アスファルトを叩く雨音だけが、沈黙を埋めていた。弥生の歩き方は、油が切れたブリキのようにぎこちない。右腕をホールドされているため、バランスが取れないのだ。

 対するアヴリルの足取りは、舞踏会でも歩いているかのように軽やかだった。水溜まりを避ける仕草さえ、計算されたステップのように美しい。

 校門を出て、大通りへと続く長い坂道を下りる。普段なら、生徒たちの喧騒で溢れているはずだが、この豪雨のせいで人影はまばらだ。それが、この密室の閉塞感を一層高めていた。

「ねえ、弥生さん」

 不意に、アヴリルが口を開いた。世間話でも切り出すような、軽やかなトーン。

「あなた、休日は何をして過ごしているの?」

「え? き、休日、ですか?」

 唐突な質問に、弥生は裏返った声で応じた。

「ええ。舞から、弥生さんは部活に入っていないと聞いているけれど。やっぱり、お家でお勉強?」

「い、いえ、そんな殊勝な生徒じゃありません。ええと、基本的には、家でまったりしてます。録り溜めた時代劇を見たり、小説を読んだり……」

 答えてから、しまったと後悔した。あまりにも地味すぎる。キラキラした生徒会長の耳に入れていい情報ではない。

「あら、いいじゃない。インドア派」

 しかし、アヴリルの反応は意外なほど肯定的だった。むしろ、声の温度が一度上がったような気さえする。

「私も、休日はあまり外に出ないの。お家で静かに過ごすのが好きよ」

「そ、そうなんですか? てっきり、クルーザーでパーティーとか、オペラ鑑賞とかされてるのかと思ってました」

「それは偏見よ。だけど、インドア派ということは……休日に誰かと会う予定も、あまりないということかしら?」

 核心は、そこだったらしい。弥生は無警戒に頷いた。

「そうですね。友達も少ないですし、用事がない限り、引きこもってます」

「そう。……よかった」

 アヴリルが、小さく安堵の息を漏らした。その吐息が弥生の首筋にかかり、微弱な電流が走る。

 彼女の『よかった』という言葉には、夜遊びをするような不良生徒じゃなくて安心した、という風紀上の意味合いが含まれているのだろうか。

 弥生はそう解釈したが、それにしては、彼女の声には妙に熱っぽい響きが混じっているような気がしてならない。

「そ、そういえば」

 沈黙を恐れた弥生は、話題を変えるべく口を開いた。

「舞先輩とは、いつからのお付き合いなんですか? 私には一方的にこき使ってくる女王様ですが、天野先輩とは、すごく仲がよさそうに見えました」

 さっきの生徒会室でのやり取りや、下校時の連携プレイ。あれは一朝一夕でできるものではない。

「舞?」

 アヴリルはきょとんとした声を上げると、すぐに苦笑混じりに口元を綻ばせた。

「高校に入ってからよ。一年生のときに同じクラスになって、席が前後だったの」

「え、高校からなんですか? てっきり、もっと長い付き合いなのかと……」

 弥生は目を丸くした。二人の阿吽の呼吸は、幼馴染みのそれに見えたからだ。

「ふふ、よく言われるわ。あの子とは、最初から不思議と波長が合ったのよ」

 アヴリルは懐かしむように目を細める。

「あの子、私の前でも平気でわがままを言うでしょう? 周りはみんな、私に一歩引いた態度で接してくるのに、あの子だけは遠慮なくぶつかってくる。そういう裏表のないところを、信頼しているわ」

 彼女の声には、確かに舞への親愛の情が滲んでいた。

 付き合いの長さだけが絆の深さではない。立場や肩書きに臆することなく、対等に接してくれる存在こそが、彼女にとっての救いなのだろう。弥生は少しだけ安堵し、同時に納得した。

「なるほど。だからあんなに息がぴったりだったんですね」

「そうね、そうかもしれないわ。……だけど」

 アヴリルはそこで言葉を区切り、弥生の腕を抱く力を強めた。柔らかい感触が、弥生の理性を激しく揺さぶる。

「今は、あの子の話はいいわ。せっかく、二人きりなんだから」

 彼女は話題の幕を引いた。冷たさはない。ただ、今は他の誰かの影すらも、この赤い傘の中には入れたくないという、静かな独占欲だけがそこにあった。

 そして、アヴリルは立ち止まった。信号待ちではない。何もない歩道の真ん中で、唐突に足を止めたのだ。

 つられるように、弥生も足を止める。傘を叩く雨音が、一際大きく響いた。

「弥生さん」

 アヴリルが、ゆっくりと顔を寄せてくる。長い睫毛の一本一本まで数えられそうな距離。灰茶色の瞳が、揺らめく水面のように深く、暗く、弥生を飲み込もうとしていた。

「最後に一つ、聞いてもいい?」

「は、はい……」

 喉が渇く。息を飲み込む音さえ、彼女に聞かれてしまいそうだ。

「今、好きな人はいるの?」

 心臓が止まるかと思った。

 直球すぎる質問。だが、その声色には、女子高生特有の恋バナめいた浮わついた響きは皆無だった。

 まるで、入国審査官がパスポートの偽造を疑うような、あるいは刑事ドラマで取調官がアリバイを崩しにかかるような、冷徹で鋭利な響きを含んでいた。

「い、いいいいえっ! いません! いるわけないじゃないですか!」

 弥生は全力で首を横に振った。勢い余って、傘から雫が飛び散る。

「私なんて、城下町で団子を食べてる町人Aですよ!? 名前も台詞もないんです! 浮いた話どころか、一生独り身で、縁側茶を啜りながら死んでいく予定ですから!」

 卑屈さ全開の否定。だが、それを聞いたアヴリルは、花が綻ぶように笑った。それは今日一番の、蕩けるような甘い微笑みだった。

「まあ、そうなの? それは本当によかった」

 彼女は心底嬉しそうに呟くと、空いている方の手で、弥生の頬に触れた。

「では、これから忙しくなるわね」

「え?」

「いえ、なんでもないわ」

 アヴリルは楽しげに目を細めた。その瞳の奥で、何かがカチリと音を立てて嵌まった気がした。

 巨大な罠のスイッチが押されたような、逃走経路のシャッターが下ろされたような、不可逆な音が。

 再び歩き出してからも、弥生の心臓は不整脈を起こしたままだった。隣にいる美少女の正体がわからない。彼女は何を考えているのか。なぜ、自分のような人間に構うのか。

 雨脚が強まる。突風が吹き抜け、横殴りの雨が傘の下へと吹き込んだ。

「あっ」

 弥生が小さく声を上げる。避けようとしたが、風に煽られた雨粒が、弥生の顔と前髪を濡らした。冷たい感覚に、思わず身を縮める。

「動かないで」

 アヴリルの声が、風音を切り裂いて届いた。

 彼女は立ち止まることなく、歩きながら自然な動作で、弥生の顔へと手を伸ばす。白く細い指先が、雨に濡れた弥生の前髪を掬い上げた。

「……っ」

 肌に触れた指先は、雨より冷たかった。それなのに、触れられた場所から火がついたように熱くなる。

 アヴリルは濡れた髪を、愛おしげに弥生の耳にかけた。指の腹が、耳殻をゆっくりとなぞる。それは、ただの水滴を払う動作にしては、あまりにも粘着質で、官能的だった。

 雨という環境を利用した、合法的な接触。不可抗力という名の、計算された愛撫。

「濡れてしまったわね」

 アヴリルは残念そうに言いながらも、その目はどこか愉悦を帯びていた。弥生は堪らず、震える声で問いかけた。

「……どうして、私なんですか?」

 その問いは、雨音に掻き消されそうなほど弱々しかった。けれど、アヴリルは聞き逃さなかった。

「どうして、とは?」

「三年前、私が天野先輩の校則違反に気づいて、見逃した。私たちの繋がりは、それだけじゃないですか。それなのに、どうして天野先輩は、私なんかのことを……」

 ずっと覚えていて、探して、こうして傘に入ってくるのか。私があまりにも平凡だから? 珍しい生き物だから? それとも、ただの気まぐれ?

 アヴリルは少しだけ視線を伏せ、それからゆっくりと弥生を見た。灰色の景色の中、彼女の金髪だけが、自ら発光しているかのように鮮やかだ。

「それだけ、ね」

 彼女は自嘲気味に笑った。

「あなたの言う通りかもしれない。客観的に見れば、些細な出来事よ」

 アヴリルは視線を外し、遠くの景色――雨にけむる灰色の街並みを見つめた。

「私の世界はね、ずっと色がなかったの」

「色が、ない……?」

「ええ。何を見ても、何を聞いても、色がなかった。勉強も、ピアノも、生徒会の仕事も。すべては簡単にこなせてしまうルーチンワーク。退屈な、無味無臭の透明な世界」

 彼女の言葉は、詩を朗読するかのように美しく、そして虚無的だった。

 完璧超人である彼女が抱える、天才ゆえの孤独。弥生には想像もつかない高みの景色。

「でもね」

 アヴリルの視線が、再び弥生に戻ってきた。その瞳に、熱が灯る。氷の彫像に血が通ったかのような、生々しい感情の色。

「あの日、あなただけが私を見てくれた」

 アヴリルの手が、弥生の赤い傘の柄に添えられる。

「校則違反を見逃すという、不器用で、小さな共犯。そして、その直後よ。あなたが雨の中で赤い傘を回して、笑っている姿を見たのは」

「あ……」

「私の透明な世界を切り裂いて、鮮烈な『赤』が焼きついた。あの瞬間、私は初めて、世界が綺麗だと思えたの」

 アヴリルは夢遊病者のように、弥生の肩に頭を預けた。フレグランスの香りが、弥生の理性を侵食する。

「ひと目惚れなんて、陳腐な言葉じゃ足りないわ。あなたは私の世界に降ってきた、最初で最後の絵の具なのよ」

 その言葉は、文学的でありながら、どこか狂気を孕んでいた。

 重い。あまりにも重い存在証明。けれど、弥生は恐怖よりも先に、胸の奥がきゅっと締めつけられる心地を感じてしまった。

 誰からも視認されていないと思っていた自分が、この美しい人の世界に色を与えていたという事実。

 ただのモブキャラクターだと思っていた自分が、誰かの物語の唯一になれたという充足感。

 それは、劇薬のような甘さで、弥生の自尊心を満たした。

(駄目だ。これに酔ってしまったら、もう戻れない)

 本能が警鐘を鳴らすが、胸の高鳴りは止まらない。弥生が言葉を失っていると、アヴリルはくすりと笑った。

「そういうところよ」

「え……」

「弥生さんは今、逃げようか、受け入れようか、迷っているでしょう?」

 心を見透かされた弥生は、ぎくりと身を強張らせた。アヴリルは弥生の腕から自分の腕を解くと、正面に回り込んだ。

 二人の足が止まる。そこは、弥生の家の方角へ曲がる交差点だった。アヴリルは弥生の瞳を覗き込み、とどめを刺すように告げる。

「あなたの逃げ方は、わかりやすすぎるわ。可愛くて、食べてしまいたくなるほどに」

 その声は、砂糖菓子のように甘く、そして蜘蛛の糸のような粘り気があった。

 弥生は顔が沸騰するのを感じた。逃げ方が可愛いなんて、人生で一度も言われたことがない。

 反論しようと口を開きかけたが、喉がつかえて、言葉が出てこない。ただ、金魚のように、口をぱくぱくと動かすだけだ。

 そんな弥生の様子に満足したのか、アヴリルは右手に持っていた傘の湾曲した柄を、器用に肘へと引っかける。

 手首から先が自由になると、そのままスカートのポケットから携帯電話を取り出した。

「ここでお別れなのは名残惜しいけれど……これ以上引き留めたら、あなたがショートしてしまいそうだから」

 彼女は画面を操作し、QRコードを表示させて、弥生の前に突き出してくる。

「連絡先、交換しましょう」

「え?」

「生徒会の連絡事項があるかもしれないし、必要でしょう?」

 建前だ。どう考えても建前だ。一介の平委員に、生徒会長から業務連絡が来ることなどありえない。だが、今の弥生にそれを指摘する勇気はなかった。

「……はい」

 ここまで来ると、断る気力も湧いてこない。弥生は震える手で自分のスマホを取り出し、言われるがままに読み取った。

「あ、登録、できました……」

「ありがとう。では、気をつけて帰ってね」

 アヴリルは、ようやく閉じたままだった自分の傘を開いた。バサリと黒い花が開く。彼女はその下に入ると、優雅に手を振り、雨の中へと消えていった。

 取り残された弥生は、呆然とその背中を見送ることしかできなかった。

 嵐が過ぎ去ったような静寂。いや、実際に雨は降り続いているのだが、さっきの赤い密室の中の密度に比べれば、外の世界はあまりにも希薄だ。

「はあ……」

 ため息をつき、とぼとぼと帰路に就く。疲れた。心臓も、頭も、使いすぎて、オーバーヒート寸前だ。

 自宅マンションに辿り着き、自室のベッドに倒れ込む。制服も着替えず、布団に顔を埋めた。

 あんなに綺麗な人に、あんなことを言われて。連絡先まで交換して。これから、どうなってしまうのだろう。

 そのとき、枕元に放り出した携帯電話が、短く震えた。びくりと体を跳ねさせ、画面を見る。

 通知センターに表示された名前は、アヴリルのものだ。メッセージの内容はシンプルだった。

『今日はありがとう。あなたの赤い傘に入れて、幸せだったわ』

 そして、間髪入れずに二通目が届く。

『今夜は、弥生さんの夢を見そうよ』

 直後に貼られた、可愛い兎が檻に閉じ込められているスタンプを目にした瞬間、弥生は携帯電話を取り落とし、布団の中へと潜り込んだ。

 即レス。しかも、内容は完全に口説き文句。スタンプのチョイスに至っては、もはや隠す気すらない。

「……現代の包囲網からは、逃げられない……」

 布団の中で、小さな呻きを漏らす。

 雨音はまだ続いている。だが、今の弥生には、それがアヴリルの足音のように聞こえてならなかった。

 赤い傘をきっかけに始まった二人の関係は、デジタルな手錠によって、より強固なものへと変わってしまったのだ。

 きっと自分は、彼女の魔の手から逃げられない。その事実を、弥生は身を持って感じ始めていた。


©一ノ瀬友香2026.

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