第二話 逃がさないという名の宣戦布告
生徒会室に流れる時間は、外の世界とは密度が違うようだった。
重厚なマホガニー材の長机を行き交うのは、新年度の予算案や監査報告といった、学園の運営に関わる重要事項ばかり。
アヴリルと舞、そして選ばれし生徒会役員たちが繰り広げる議論は、弥生にとって異国の言語を聞いているに等しい。高度で、速く、無駄がない。
当然ながら、一介の平委員に過ぎない弥生に発言の機会など訪れるはずもなく、彼女はただ借りてきた猫のように背筋を伸ばしているしかなかった。
唯一の救いは、目の前に置かれたクッキーと、ティーカップから漂うコーヒーの香りだけ。
完全に風景の一部と化した弥生が、現実逃避気味にその湯気を眺めていたときだった。
「あら?」
アヴリルが、手元の資料を捲りながら声を上げた。
「昨年度の監査資料の一部がないわね……。困ったわ。今日の確認事項に含まれているのに」
役員の一人が慌てて答える。
「申し訳ありません、会長! 確か、旧校舎の資料保管室に移したままで……」
「あー、それなら」
今にも取りにいこうとする役員を制すように、舞が口を挟んだ。
その声は妙に抑揚がなく、まるで三文芝居の台本を読み上げているかのような、わざとらしい棒読みだった。
舞はちらりと、本当に一瞬だけ、上座に腰かけるアヴリルへ視線を走らせると、気怠げに椅子の背にふんぞり返る。
「ちょうど休憩も入れたいことですし、誰か手の空いてる人に行ってもらいましょう。……弥生。旧校舎まで行って、カロリーを消費してきなさい」
「え? 私ですか?」
「ええ。あなたは今のところ、クッキー泥棒の共犯者でしかないんだから」
「舞先輩が、ほとんど一人で食べてるくせに……!」
小声で反論を返し、弥生は渋々立ち上がった。抗議は受理されない。いつだって、権力を持つ者が正義なのだ。
「……わかりました。行ってきます」
「一人で大丈夫? 旧校舎は電気が半分切れているし、わかりにくいと思うのだけど」
アヴリルが、気遣わしげに声をかけてくれた。やはり、彼女は優しい。舞が悪女なら、アヴリルは正真正銘の聖女である。
「だ、大丈夫です! お使いなら得意ですので!」
「そう? だけど、あそこの分類法は特殊だから、新任の子じゃ見つけられないわよ」
言いながら、彼女は優雅に席を立つ。その所作があまりに自然だったため、弥生は最初、彼女が何をしようとしているのか、理解できなかった。
「案内するわ」
「え!? い、いえ、大丈夫です! 別に、迷路に入り込むわけでもないですし……っ」
「気にしないで。ちょうど歩きたい気分だったの。座りっぱなしで、足がむくみそうだし」
アヴリルは極上の笑顔を浮かべたかと思うと、弥生の隣に並んだ。フレグランスの香りが、思考能力を麻痺させる。
「さあ、行きましょう」
「は、はぃ……」
拒否権など、最初からなかった。
弥生は助けを求めて舞を振り返ったが、彼女は残りのクッキーを咀嚼することで忙しいのか、こちらを見ようともしなかった。薄情者め。
本校舎と旧校舎を繋ぐ渡り廊下。そこを一歩越えた瞬間、肌に触れる空気の密度が変わった。
現代的な本校舎とは異なり、旧校舎には昭和初期の木造建築が色濃く残っている。
埃とカビ、そして古い紙の匂いが入り混じった、図書館の奥のような静謐な空間。床を歩くたびに、板張りの廊下が悲鳴を上げた。
隣を歩くアヴリルは、ひとことも発さない。コツコツという硬質なローファーの音だけが、薄暗い廊下に反響する。
気まずい。胃が痛くなるほど気まずい。憧れのアヴリルと二人きりというシチュエーションは、弥生にとってご褒美であると同時に、致死量の猛毒でもあった。
何か話すべきか? 天気の話? いや、窓の外は曇天だ。趣味の話? 私の趣味なんて、時代劇の再放送鑑賞だぞ、ドン引きされるに決まっている。
「……静かね」
沈黙に耐えかねたのか、先に口を開いたのはアヴリルだった。
「は、はい! 誰もいませんから!」
「ふふ、そうね」
彼女は楽しそうに笑うと、歩みを止め、窓の外に目を向ける。いつの間にか、空はさらに暗くなり、鈍色の雲が垂れ込めていた。
そう思った次の瞬間、ポツポツと窓を叩く音が耳朶を撫でる。
「あ、雨……」
弥生が呟くと同時だった。
叩きつけるような雨音が、突如として静寂を切り裂いた。空が決壊したかのような豪雨が、瞬く間に世界を白く塗り潰していく。
「すごい雨……」
二人は廊下の窓辺で、立ち尽くしたまま雨を見つめた。
アヴリルは硝子越しに、じっと灰色の景色を目で追っている。窓硝子に映り込んだ彼女の横顔は、美しく、滑らかで、それでいてどこか触れがたい憂いを帯びていた。
綺麗。もはや、その言葉しか浮かばない。弥生は思わず、見惚れてしまった。
すると、唐突に彼女はこちらを向いた。灰茶色の双眸が、薄暗い廊下の中で、ゆらゆらと揺らめいている。
「ねえ、望月さん」
雨音に負けないようになのか、それとも二人だけの秘密を共有するためなのか。彼女の声は、低く、甘く、鼓膜に直接触れるように響いた。
「は、はい」
「あなた、三年前のあの日。赤い傘で踊っていたでしょう」
「……ぅえっ!?」
弥生の喉から、蛙が潰れたような変な声が迸った。
思考が滑るどころではない。脳髄に直接、雷を落とされたような衝撃だった。
(バ、バレ、て……!)
踊っていた。その指摘を受けた瞬間、少し前にコンクリートで固めて、脳内の深海へ沈めたはずの最悪の可能性が蘇る。
あの日。誰もいないはずの坂道。映画の主人公気取りで傘を回し、ステップを踏み、あまつさえ自分で自分を殴った、あの痛々しい一人リサイタル。あれを見られていた? あの天野会長に?
血の気が一気に引いていく。羞恥という名の業火で、全身が燃え上がりそうだ。
(死ぬ。無理。舌を噛もう。今すぐここで!)
弥生は口をぱくぱくと開閉させるが、酸素が上手く吸えない。金縛りにあったように動けず、脂汗だけが背中を伝う。
モブキャラクターによる、モブキャラクターのための滑稽な独演会。それは、誰にも観測されないからこそ許される、密やかな楽しみだったはずなのに。
「え、あ、うう……っ」
言葉にならない悲鳴を漏らす弥生に、アヴリルは一歩近づく。物理的な距離が縮まる。雨音が、二人を閉じ込める檻の如く激しさを増す。
「私の校則違反を見逃してくれたあなたのことを、ずっと見ていたのよ」
彼女は夢を見るような眼差しで、弥生を見つめていた。
「灰色の景色で、赤い花が咲いたみたいに……本当に、綺麗だったわ」
すっと、彼女の手が伸びてくる。逃げられない。怪物に睨まれて石化してしまったかのように、足が動かない。
弥生の頬に、ひやりとした細い指先が触れた。その冷たさに、背筋が粟立つ。
「高校に進学してからも、ずっと探していたの。あのときの、赤い傘のあなたを。風紀委員の名簿で名前を見つけたとき、運命だと思ったわ」
アヴリルの台詞に、弥生は息をすることさえ忘れた。脳内の処理速度が限界を迎える。
(探してた? 私を? あの天野先輩が? どうして? 私はどこにでもいる、モブキャラクターなのに……)
混乱する弥生の耳元へ、彼女は唇を寄せた。それと同時に、フレグランスの上品な香りが、弥生の肺を満たす。彼女は甘く囁いた。
「もう、逃がさないから」
「え……」
「資料、探しましょうか」
ぱっと空気が変わった。彼女は弥生の頬から手を離し、何事もなかったかのように微笑んだ。さっきの熱っぽい瞳はどこへやら、いつもの完璧な生徒会長の顔に戻っている。
「早くしないと、舞たちが痺れを切らしてしまうわ」
そう言って、アヴリルは軽やかな足取りで資料室へと入っていく。残された弥生は、廊下に立ち尽くすことしかできずにいた。
心臓が、早鐘を打っている。頬には、彼女の指の冷たさが火傷のように残っていた。
彼女は今、なんて言った? 逃がさない? 誰を? 私を? 頭の中が疑問符で埋め尽くされる。
けれど、一つだけ。弥生の平穏な人生に、逃れられない運命の矢が刺さってしまったということだけは、本能が理解していた。
資料を見つけ出し、二人は生徒会室へと戻った。尤も、弥生は夢遊病者のようにふわふわとした足取りで、アヴリルの背中を追うばかりだ。
部屋に戻ると、会議はすでに終わりの雰囲気を醸し出していた。
「遅かったわね」
舞が書類を片づけながら言う。彼女の前のクッキーの皿は、完全に空になり、ただの白い陶器と化していた。
「少し、手間取ってしまって。だけど、無事に見つかったわ」
アヴリルが何食わぬ顔で資料を手渡す。その表情からは、さっきの旧校舎での出来事など微塵も感じさせない。
「ご苦労様。それじゃあ、今日のところはこれで解散ということで。弥生、帰るわよ」
「あ、はい……っ」
弥生は弾かれたように返事をし、大慌てで荷物を纏める。ここに長居してはならない。これ以上、あの瞳に見つめられたら、心臓が持たない。
「あ、あの、失礼しました!」
弥生はアヴリルを始めとする役員たちに深々と頭を下げ、逃げ出すような勢いで、舞と共に生徒会室を飛び出した。
廊下を早足で歩く。いや、それはほとんど競歩に近い速度だったかもしれない。
背後にある生徒会室という名の魔境から、一刻も早く距離を取りたかった。
未だに心臓はドクドクと脈打っており、頬にはアヴリルの冷たい指の感触が、幻のように張りついている。
「……はあ。寿命が三年は縮みました……」
「そう? 傍から見てたら、イラッと来るほど楽しそうだったけど」
隣を歩く舞が、面白がるような視線を向けてくる。
「どこがですか!? 拷問ですよ、あんなの! 三年前とか、逃がさないとか、意味深な言葉を耳元で囁かれたんですよ!? 新手のホラー映画の導入かと思いました!」
「へえ、あの子にしては珍しい。いきなり確信に触れてきたわけね」
「はい? 確信? 何がですか?」
「なんでもないわ」
舞は意味ありげに口元を歪めると、ふと足を止めた。
「それで、どうなったの?」
「主語がないです!」
「この期に及んで、とぼけるつもり? まんざらでもない顔をしてるくせに」
「は、はい?」
「否定しても無駄よ。今のあなた、完全に毒気を抜かれた獲物の顔をしてるもの」
「だ、だから、意味がわかりませんってば! 大体、なんで私が獲物なんですか。相手は雲の上の存在、こっちは地面に張りつく羽虫ですよ!? 生態系そのものが違います!」
必死に否定する弥生を見下ろした舞は、いつも不機嫌を纏っている瞳を愉悦に細めた。
「あら。そう思っているのは、あなただけかもしれないわよ」
舞がくすりと笑った、次の瞬間。
「弥生さん」
背後から、名前を呼ばれた。どこか親しげな、ダイレクトな呼びかけ。
その声は決して大きくはないのに、喧騒の中でもはっきりと耳に届き、弥生の心臓を鷲掴みにする。
背後を振り返ると、そこには、生徒会室から追ってきたらしいアヴリルの姿があった。薄暗い廊下で、彼女だけが発光しているかのように美しい。
アヴリルは颯爽たる足取りで弥生との距離を詰めると、逃がさないとばかりに正面に立ちはだかる。
「一緒に帰りましょう?」
それは提案ではなく、決定事項の通達だった。弥生が拒否する可能性など、微塵も視野に入れていない。
弥生の思考回路がショートする。アヴリルと一緒に下校。そんなイベントは、この学園生活のシナリオには存在しないはずだ。
返答に窮した弥生は、縋るような視線を隣の舞に向けた。たとえ暴君であろうと、彼女は直属の上司だ。この非常事態に、割って入るくらいはしてくれるかもしれない。
そんな弥生の淡い期待は、次の瞬間、あっさりと打ち砕かれた。
「何をもたもたしてるの? さっさと行きなさい」
「え? 舞先ぱ――」
「生徒会長直々のお誘いよ。まさか、断るなんてことはないでしょう? せいぜい可愛がってもらいなさい」
言うや否や、舞の掌が弥生の背中を軽く突き飛ばした。予期せぬ衝撃に、弥生の体がつんのめる。
「あ、わっ……!」
たたらを踏んで前に出た弥生を、アヴリルが待っていましたとばかりに迎え入れた。
「援護射撃をありがとう、舞。では、ごきげんよう」
アヴリルは満足げに頷くと、体勢を崩した弥生の右腕に、あまりにも自然な動作で自分の左腕を絡ませた。
ぎゅっと押しつけられる柔らかい感触。鼻腔を占領する、甘く高貴なフレグランスの香り。下校中の生徒たちが驚きに足を止めて、こちらを凝視しているのがわかった。
「あそこにいるの、生徒会長だよね?」
「本当だ。一緒にいるのは風紀委員長と……もう一人は誰?」
「なんか、腕組んでない?」
周囲から、遠慮のないざわめきがさざ波のように広がっていく。正に、公開処刑である。
「ちょ、あ、天野先輩!? あの、腕! 腕が!」
「行きましょう、弥生さん。雨が強くなってきたわ」
アヴリルは弥生の抗議など聞こえない振りで、楽しそうに歩き出す。がっちりと腕をホールドされている弥生は、そのまま引きずられるようにして歩調を合わせるしかなかった。
――町人Aとしての平穏な日々は、どうやら今日の雨と一緒に、どこか遠くへ流されてしまったらしい。
三年前の記憶と、赤い傘の因縁。そんな複雑な事情は、今の弥生には処理しきれない。
ただ、隣に寄り添う高嶺の花の体温だけが、逃げ場のない現実として、弥生の意識を焦がしていた。
©一ノ瀬友香2026.




