第一話 町人Aの受難と誤算
四月の朝というのは、淹れ立てのほうじ茶のように淡く、少しばかり渋い。
あの日、中学校の制服に袖を通してから、早いもので三年が過ぎた。
第一志望校である私立月宿学園高等学校へと進学しても、望月弥生という人間の配役は何一つ変わっていない。
弥生にとって、学校という場所は、如何に風景の一部として溶け込むかを試される、巨大な撮影セットのようなものだった。
主役など求めていない。自分を照らす煌びやかな照明も、ドラマチックなBGMも不要だ。
弥生が望むものは、時代劇で言うところの町人Aとしての平穏な暮らしである。目立たず、騒がず、平穏に。
そんなエキストラ人生こそが、彼女の掲げる生存戦略だった。だというのに。
「それで、その貧相な顔はどういうつもりなの? 弥生。朝から私の美しさに当てられて、己の存在意義を見失ったのかしら」
風紀委員会室の長机。上座に座る人物が、組んだ足を所在なさげに揺らしながら言った。
彼女の名前は神宮寺舞。天然茶髪の長いポニーテールと、親の仇でも見るかのような鋭い目つきが印象的だ。
この学園の最上級生にして風紀委員長を務める彼女は、手元の書類に目を落としたまま、顔を上げようともしない。
彼女は、入学早々に平穏な帰宅部ライフを画策していた弥生を捕獲し、風紀委員会に引きずり込んだ張本人である。
『あなた、文句を言わずに淡々と雑務をこなしそうな顔をしてるわね。採用よ』
そんな独断と偏見に満ちた理由で、慢性的な人手不足の穴埋めにされたのが一週間前。
以来、弥生は舞のしもべ――もとい、直属の部下としての生活を余儀なくされている。
「……そうですね。舞先輩があまりにお美しいので、直視すると目が潰れると思いまして。決して、朝から胃もたれを起こしてるわけじゃありません」
弥生は表情筋を死守し、淀みのない敬語で返した。
弥生の手元には、コンビニで買った宇治抹茶大福の空き袋と、水筒に入れた熱い緑茶。
対する舞の手元には、山積みの書類と、弥生が買ってきたはずの抹茶と豆乳のバームクーヘンの食べかけがあった。
「あなた、大人しそうな顔をして、平気で酷いことを言うのね。私と胃もたれを同列に扱うなんて」
舞は心外だとばかりに首を横に振ると、バームクーヘンをぱくりと齧る。
「うーん、美味しい。やっぱり、朝は糖分ね。私の優秀な脳細胞一つ一つが歓喜の声を上げてるわ。もっと寄越せって」
「……それ、元々は私が自分用に買ったおやつなんですけどね」
「もう手をつけたんだから、私のものよ。まさか、人のお菓子を要求するような、意地汚い真似をするつもりじゃないでしょうね?」
そして、この暴論である。弥生は心の中で盛大にため息をついた。
確かに舞は綺麗だし、仕事もできる。だが、その細身の体からは想像がつかないほど食い意地が張っており、救いようのないナルシストだ。
本来なら平伏し、愛想笑いでやり過ごすのが、エキストラとしての正しい振る舞いだろう。けれど、それは弥生の性分が許さない。
目の前で理不尽なボケを投げられれば、反射的にツッコミという名の刀を抜いて斬りかかってしまう。悲しいかな、これでは町人A失格である。
「……コホン。それで、舞先輩。朝早くから私を呼び出したのは、まさかおやつを買わせるためだけじゃないですよね?」
これ以上、食べ物の話題を広げると命に関わる。弥生が賢明な判断で本題を切り出すと、舞はすっと表情を引きしめた。その切り替えの速さだけは、悔しいが一流だ。
「ええ。その隠居生活も、今日で終わりかもしれないっていう話よ」
「不吉なことを言わないでください。なんですか? またどこかの部が練習場所のことで揉めて、仲裁に入らなきゃいけないとかですか?」
月宿学園は進学校ゆえに、生徒の自主性を重んじる自由な校風をしているが、その分、生徒間の自治が面倒なのだ。
「いいえ。もっと上からのお達し」
舞は、手元の書類束から一枚の紙を抜き取ると、弥生の前にすっと差し出す。まるで罪状を読み上げる同心のような手つきだ。
そこには明朝体で、『生徒会・風紀委員会、合同定例会議のお知らせ』と記されていた。
刹那、弥生の思考が停止する。生徒会。それは、この月宿学園に於ける幕府のことだ。
選ばれしエリートたちが集い、キラキラとしたオーラを撒き散らしながら、学園の運営を司る、雲の上の組織である。
地味で日陰者の風紀委員会とは水と油。いや、抹茶とコーラくらい相性が悪い。
「これって、新年度の方針確認のことですよね? 例年は、書類のやり取りだけで終わると聞いてますが……」
「今年は先方の会長が、直接顔を合わせて連携を深めたいと言ってるみたいでね。今日の放課後に行われるわ」
「へえ、ご立派ですね。まあ、委員長である舞先輩が行くなら安心です。私はここでお留守番を……」
「新入生への指導マニュアルの改訂について、担当者も同席すること。弥生。あなたの名前、出しておいたから」
弥生が口に含んでいた緑茶を吹き出しそうになったのは、言うまでもない。なんとか嚥下し、激しく咳き込む。
「こほっ、こほっ……! え、ちょっ……今、なんて言いました?」
「だから、あなたも同席するの。二度も同じことを言わせないで」
「ど、どうしてですか! 私、ただの一年ですよ!? 平委員なんですよ!? そんな煌びやかな場所へ行ったら、光属性の攻撃で蒸発しちゃいます!」
弥生は身を乗り出して力説するが、当の舞はどこ吹く風だ。手元の書類をトントンと整えながら、淡々と言葉を継ぐ。
「副委員長はサボタージュ、書記は不在だから、人手が足りないのよ。それに、あのマニュアル作ったのは、あなたでしょう」
「あれは舞先輩が、面倒くさいからやっといて。終わったら、私の可愛さを褒め称える権利をあげるって、丸投げしたんじゃないですか!」
「適材適所よ。あなたの文章は、無駄に丁寧で慇懃無礼なところが公文書向きだから」
舞は涼しい顔で言い放つと、にやりと口角を吊り上げた。その面持ちは、善良な町人からなけなしの米を巻き上げる悪徳代官のそれだった。
「というわけで、放課後は生徒会室へ出頭するように。弥生。あなたに拒否権はないわよ」
弥生は絶望した。平穏な日常が、音を立てて崩れ去っていく。
町人Aの役回りに徹していたはずなのに、脚本家――舞の気まぐれで、いきなり大名行列の真ん中に放り込まれるようなものだ。
ふと窓の外を見ると、弥生の心を反映させたような曇り空が、朝からどんよりと広がっていた。
放課後のチャイムは、市中引き回しの上、打ち首獄門への合図のように聞こえた。
弥生は重い足取りで、特別棟の三階へと向かう階段を上っていた。隣を歩く舞に至っては、上機嫌で鼻歌混じりだ。
「弥生ってば、緊張しすぎよ。人に見られたら、殺人現場から逃げ出してきた犯人だと思われかねないわね」
「ほ、放っておいてください。だって、生徒会室ですよ? 神聖な場所じゃないですか」
「あなたは自分をなんだと思ってるの?」
「善良な一般市民。もしくは、道端の石」
「石が喋らないでちょうだい。私の美声が掻き消されるじゃない」
理不尽な暴言を吐かれながらも、弥生の心臓はドクドクと脈打っていた。
生徒会室がある最上階の角部屋。そこには、あの人がいるはずだ。
天野・クリスティーヌ・アヴリル。日仏ハーフの美貌と、圧倒的なカリスマ性を持つ生徒会長。弥生が中学時代から密かに憧れ続けてきた、雲の上の存在。
(会えるのは嬉しい。だけど、至近距離で会話なんてしたら、心臓が爆発して死ぬ……!)
重厚な木製の扉の前に立つ。舞が慣れた手つきでノックをした。
「風紀委員の、可愛い可愛い可愛い神宮寺です。可愛いとは到底言えない後輩を連れてきました」
どんな紹介の仕方だ、と弥生は心の中で毒づいた。
「どうぞ」
中から聞こえたのは、鈴を転がすような、それでいて芯のある涼やかな声。
弥生の背筋が伸びると同時に、舞が扉を開ける。ふわりと、濃厚なコーヒーの香りが鼻腔に流れ込んできた。
「失礼します」
「し、失礼します……!」
舞のあとに続く形で、恐る恐る足を踏み入れる弥生。裏返りそうな声で挨拶をし、頭を下げながら入室した。
ちらりと顔を上げる。そこには、アンティーク調の長机と、ゆったりと椅子に腰を下ろす、数名の生徒会役員の姿があった。
眼鏡をかけた知的な男子生徒や、筆記用具を揃えた真面目そうな女子生徒。
恐らく、副会長や書記といった、学園の中枢を担う幹部たちなのだろう。普段の弥生なら、萎縮して直視できないような煌びやかなエリートたちだ。
だが、今の弥生にとって、彼らはただの背景と大差なかった。なぜなら、部屋の中央、上座に鎮座する女子生徒の存在感が、あまりにも異質すぎたからだ。
その人と目が合った瞬間、弥生の思考回路は真っ白に弾け飛んだ。
窓を背にして座っているため、逆光で輪郭が輝いている。腰まで届く金髪はハーフアップに結ばれ、白い肌は陶器のように滑らかだ。
何より、その瞳。すべてを見透かすような、灰茶色の瞳。中学時代、遠くから眺めることしかできなかった高嶺の花が、今、まっすぐに自分を見ている。
彼女、アヴリルはゆっくりと椅子から立ち上がった。その動作一つ取っても、洗練されたワルツを思わせる美しさだ。
「ようこそ、風紀委員のお二方」
彼女は微笑んだ。聖母のような、あるいはすべてを許す女神のような微笑み。
だが、弥生の本能警報器が、微かに鳴り響く。何かが違う。ただの初対面の後輩への挨拶にしては、視線の圧が強すぎる気がする。
彼女は机を回り込み、弥生の目の前まで歩み寄ってきた。いい匂いがする。雨上がりの庭園のような、高貴で複雑な匂い。
記憶が、フラッシュバックする。三年前の春。薄暗い廊下で嗅いだ、あの甘く危険なフレグランスの香り。
彼女は弥生をじっと見下ろすと、小首を傾げた。
「初めまして、ではないわよね?」
試すような響きだった。弥生は緊張でガチガチに固まりながら、なんとか頷く。
「は、はい! 同じ中学出身なので、その頃から一方的に存じてます! あとは、三年前の雨の日に、廊下で一度だけ……」
そこで言葉を濁した。『あなたが校則違反のフレグランスをつけていたのを見逃しましたよね』なんて、他の生徒がいる前で口にできるはずがない。
弥生にとって、あの日の邂逅は誰にも言えない秘密の記憶だ。けれど、彼女にとっては取るに足らない、忘却の彼方の出来事かもしれない。
そんな思いとは裏腹に、アヴリルは満足げに頷いた。
「ええ、そうね。覚えているわ」
「え……!?」
弥生は驚愕した。こんなモブキャラクターの顔なんて、三歩歩けば忘れるのが世界の理だと思っていたけれど、やはりこの人は記憶力まで完璧なのか。
けれど、彼女はそこで言葉を切らなかった。
一歩、距離を詰める。パーソナルスペースという概念が消失する距離。
「確か……」
彼女の声が、少しだけ低くなる。甘く、絡みつくような声色。
「望月弥生さん、といったわね?」
「は、はい! 名前まで……光栄です!」
名前まで把握されている。心拍数が危険域に達する。彼女は弥生の顔を覗き込み、ほんの少しだけ目を細めた。
「あの日は、ありがとう。――あなたの『赤』、とても綺麗だったわ」
ドキリとした。赤? なんのことだ?
反射的に脳裏を過ぎったものは、あの雨空の下で回した赤い傘の残像だ。
(まさか、あれのこと? あの痛々しい一人ダンスを見られてた?)
いや、ありえない。そんなはずがない。仮にそうだとしたら、自分は今すぐここで舌を噛んで死ぬしかない。
きっと、あの日着ていた制服のリボンの赤か、自身の赤らんだ頬のことだ。そうに決まっている。そうでなければ、精神の均衡が保てない。
「は、はあ。恐縮、です……?」
弥生が間の抜けた返事をすると、アヴリルの瞳が一瞬、揺れたように見えた。落胆だろうか。いや、それよりももっと重い、粘着質な何かが底に沈んだような――。
しかし、それは瞬きをする間に消え失せ、彼女は再び完璧な微笑みを浮かべた。
「ふふ、忘れてちょうだい」
アヴリルはすっと身を引き、元の席へと戻っていった。なんだったんだ、今の間は。
弥生は救いを求めるような目を、隣の舞へと投げた。しかし、当の彼女は助け舟を出す素振りすら見せない。
それどころか、新しい玩具を見つけた子供のように、楽しげに唇を歪めているではないか。
舞の視線は、笑顔の仮面を被り直したアヴリルへと注がれている。そこにあるものは敵意ではない。相手が抱いた奇妙な執着を察し、それを観察しようとする好奇の眼差しだ。
二人の間に通じる不可解な以心伝心に、弥生は形容しがたい違和感を覚えた。
©一ノ瀬友香2026.




