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雨に踊る赤

 教室の窓には無数の水滴が付着し、外の景色をぼんやりと歪ませていた。

 この時期にしては珍しくしつこい長雨は、春の淡い色彩を灰色に塗り潰し、生徒たちの浮立つ心を冷やしている。

 望月もちづき弥生やよいにとって、中学校に入学してから一ヶ月が経とうとしている四月の下旬は、自身の立ち位置を再確認させられる時期だ。

 成績も運動神経も人並み。クラス内での発言力も弱い。

 スクールカーストという言葉を使うのもおこがましいほど、自分は徹底して、その他大勢だった。

 そんな弥生が唯一持っている肩書きといえば、風紀委員くらいのものである。

 放課後の廊下。多くの生徒が部活や帰宅の途に就く中、弥生は一人で見回りを行っていた。窓の閉め忘れや、消灯の確認。地味で、誰も見ていない仕事だ。

(気分はまるで、御府内を見回る夜回り同心ってところかな)

 誰もいない廊下を歩きながら、心の中で独り言ちる。

 拍子木を打ち鳴らし、火の用心と声を張り上げたいところだが、生憎腰に差す十手もなければ、足元を照らす提灯もない。

 あるのは記録用紙と筆記用具、そして風紀と書かれた腕章だけ。これでは同心どころか、ただの岡っ引き以下の雑用係だ。

「はあ……」

 小さくため息をつく。

 湿気のせいで、朝にセットしたはずの前髪はすっかり形を崩し、額に張りついている。衣替え前の冬用の制服もずっしりと重く、肌に纏わりつくのが不快だ。

 不意に、前方からコツコツという硬質な足音が響く。弥生が顔を上げると同時に、ふわりと甘やかな風が廊下を流れた。

 埃やチョークの粉、そして雨の匂いが充満する校舎内で、そこだけが異質だった。

 高貴で、華やかで、むせ返るようなフレグランスの香り。当然、校則違反だ。風紀委員として、注意しなければならない。

 だが、暗がりの中から現れた人物の姿を見て、弥生の思考は瞬時に凍りつく。

 天野あまの・クリスティーヌ・アヴリル。日仏ハーフの三年生であり、この学校の生徒会長。

 精巧に作られた西洋人形ビスクドールが、魂を持って歩いているような、人間離れした造形美。腰まで届くブロンドのハーフアップが、薄闇の廊下で燐光のように輝いている。

 弥生は反射的に身を硬くすると、廊下の端に寄り、頭を下げた。

 相手は雲の上の存在だ。規則を盾に正論を吐ける相手ではない。それに、これほど堂々と歩かれては、むしろこちらが道を譲るべきだという錯覚さえ覚える。

 ここは気づかない振りをして、やり過ごすべきだ。弥生は息を詰めて、彼女が通り過ぎるのを待った。

 徐々にローファーの足音が近づき、そして、弥生の目の前でぴたりと止まる。刹那、ドクンと心臓が跳ね上がった。

「風紀委員さん」

 耳に心地よく響く、メゾソプラノの声。

 恐る恐る顔を上げると、灰茶色の瞳が、至近距離で弥生を射抜いていた。美しい顔立ちに、茶目っ気を含んだ笑みが浮かんでいる。鼻腔を擽る香りが、一層強くなった。

「私のこと、見逃してくれるの?」

 それは甘く、試すような囁きだった。

 弥生は金縛りにあったように動けず、口をぱくぱくとさせることしかできなかった。『校則違反です』のひとことすら、喉につかえて出てこない。

 アヴリルは、そんな弥生の反応を楽しむように小首を傾げると、くすりと上品な笑い声を漏らした。

「ありがとう。優しいのね」

 短く言い残すと、彼女は優雅な足取りで、廊下の向こうへと歩き出す。弥生は棒立ちのまま、遠ざかる背中を見つめることしかできなかった。

(な、なんだったの? 今のは……)

 心臓が早鐘を打っている。畏怖とも、緊張ともつかない感情で、指先が震えていた。

 言葉を交わしたのは、ほんの数秒。だが、確かに彼女は弥生の存在を認識した。壁の染みでも観葉植物でもなく、自分の校則違反を見逃した共犯者として。

 姿が見えなくなってからも、弥生はしばらくその場に立ち尽くしていた。アヴリルの残り香を胸いっぱいに吸い込んでから、再びよろよろと歩き出す。

 巡回を終え、風紀委員会室で活動日誌を書き終える頃には、校舎にはほとんど人が残っていなかった。理由は、体育館で行われているPTAの会合だ。

 保護者や地域の人々が集まるため、運動部の活動は一斉に中止となっており、文化部の生徒たちも、雨の激しさから早々に帰宅してしまったのだ。

「よし、終わり」

 シャープペンシルをペンケースに仕舞い、椅子から立ち上がる。

 窓の外は、相変わらずの雨模様だ。激しく地面を叩く雨は、春の嵐と呼ぶにふさわしい勢いを見せている。

 薄暗い部屋の電気を消すと、一気に心細さが押し寄せてきた。さっきのアヴリルとの邂逅が、まるで夢だったかのように思えてくる。

 早く帰ろう。家に帰ったら、熱い緑茶を淹れて、昨日スーパーで買っておいたみたらし団子を食べよう。とろりとした甘酸っぱいタレと、渋いお茶のハーモニー。それこそが正義だ。

 頭の中で帰宅後の予定を組み立て、乱れた心を落ち着かせながら、弥生はペタペタと上履きを鳴らして廊下を行く。

 昇降口には、独特の匂いが充満していた。濡れた傘の匂い、泥の匂い、雨そのものの匂い。

 弥生は靴箱からローファーを取り出して履き替えると、傘立てにある自分の傘を手に取った。それは、先週買ったばかりの赤い傘だ。

 普段の弥生なら無難な紺色や、目立たないパステルカラーを選んでいただろう。

 けれど、新学期に浮かれていたのか、または自分を変えたいという微かな願望があったのか、あの日はなぜか、この赤が目に留まったのだ。

 ボタンを押すと、バサリという音と共に赤い花が開く。頭上に広がった鮮やかな色彩に、気分が少しだけ浮上した。

「うん。やっぱり、いい色」

 誰に聞かせるわけでもなく呟いて、弥生は一歩、外の世界へと踏み出した。

 雨音が一気に大きくなる。アスファルトを叩く雨粒が、足元で小さく弾ける。

 校門までの長い坂道には、誰もいない。視界を埋め尽くすのは、灰色の空と、黒ずんだ校舎だけ。

 そんなモノクロームの世界で、自分の差している赤い傘だけが、鮮烈な異物として存在している。

 その対比が、なんだか可笑しかった。まるで、古い映画の中に迷い込んだ主人公になったようだ。

 誰も見ていない。その事実が、弥生の心に小さな解放感をもたらした。

 普段はどこにいても目立たず、背景の一部でしかない自分。そんな染みついた日常が、この激しい雨音に掻き消されていく感覚。

 弥生は傘の柄を握り直し、くるりと回してみた。遠心力で、傘の縁から雨の雫が勢いよく飛び散る。調子に乗って、もう半回転。

「痛っ!」

 勢いをつけすぎたせいで、傘の骨の先端が、弥生の側頭部を直撃した。

「……どうして、わざわざ自分で自分を殴ってるんだろう、私」

 誰もいないのに、情けない声が出る。じわりと広がる鈍痛に、ぶつけたところをさする。

 傘に負ける中学生って、どのジャンルの主人公だろう。時代劇なら、辻斬りに遭う町人Aですらない。

 だが、その滑稽な痛みが、逆に弥生の肩の力を抜いてくれた。

「ふふっ」

 自然と笑みが零れた。

 もう一度、回す。今度はもっと速く。ぶつけないように、丁寧に。

 赤い円盤が頭上で回転し、雨粒を弾き飛ばす。それはまるで、自分だけの小さなダンスホールを思わせた。

 楽しくなってきた弥生は、水溜まりを避けるのではなく、あえてその縁をなぞるようにステップを踏んだ。跳ねるような、軽快なリズムで。

 ローファーの底が濡れたアスファルトを蹴り、制服のスカートが揺れ、長い黒髪が踊る。雨音が、拍手喝采のように降り注いだ。

 こんな子供っぽいことをしているところを誰かに見られたら、恥ずかしさのあまり、明日から学校に来られないかもしれない。けれど、この雨が自分を隠してくれている。

 全能感にも似た高揚感が、弥生の心を満たしていた。

 ふと、校舎を振り返る。雨にけむる景色の中、本校舎の三階にある角部屋の窓に、視線が吸い寄せられた。あの場所は確か、生徒会室のはずだ。

(……あれ?)

 弥生は目を細めた。薄暗い窓の奥に、ぼんやりと人影が見えた気がしたのだ。

(誰か、いる?)

 ドキリと心臓が跳ねる。さっき、廊下で会ったアヴリルだろうか。まだ残っていたのか。

 だとしたら、今の浮かれたダンスを見られたのではないか。赤い傘を振り回し、頭をぶつけて、一人で笑っていた痛々しい姿を。

 弥生は立ち止まり、じっとその窓を見上げた。雨脚が強く、視界は悪い。窓は雨に濡れて光を反射しており、室内の様子まではわからない。

 自分の気のせいか、あるいは、見間違いだろう。

 仮にアヴリルがいたとしても、こんな雨の中で傘を回してはしゃいでいる女子生徒のことなど、気に留めるはずがない。そもそも、ここからあの窓までは結構な距離がある。

(うん、気のせいだよ。多分、きっと、間違いなく)

 そう自分に言い聞かせて、弥生は視線を外した。

 見られてなどいない。注目されてなどいない。物語の主人公のように、運命的な視線を投げかけられるなんてことは、ありえない。

 そう結論づけると、弥生はもう一度、赤い傘をくるりと回した。弾け飛ぶ雫が、キラキラと光る。

「帰ろう」

 短く呟き、弥生は再び歩き出した。

 坂道を下りきり、角を曲がる直前、弥生は再び校舎のほうを振り返る。やはり、そこにはただの灰色の塊があるだけだ。そう、思ったのだが。

 窓の奥の暗がりで、ほんの一瞬、ブロンドの影が揺れたように見えた。しかし、雨に滲んだ景色の中では、それもまた幻影のように、儚く消えてしまった。

 弥生は前を向き、日常へと帰っていく。背中に残る微かな熱を、単なる湿気のせいだと決めつけて。


©一ノ瀬友香2026.

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