序章 何者にもなれなかった罪人
彼の国の神話は、必ず冬の時期に始まる。
アンドレア・バークレイが馬を盗んで走り出したのも、雪が周囲の音を飲み込むような静かな夜だった。
彼、アンドレアは王城を出てヴェルデ大山脈に入った時、すでに雪が降り始めていた。
灰色の雪雲が星空に重く蓋をし、雪がふわふわと舞い落ちる。気温は氷点下を下回り、冷えた空気が肌の表面をちくちくと刺すようだった。厳しい寒さの冬を感じさせる、まさにその1日目であった。
アンドレアは罪人であった。
オレアント王国の国母を殺した大罪人である。夜が深まった頃に国母を訪ね、剣で心臓を一突きして殺した。
それは決して己が快楽や衝動で殺したのでは決してなかった。王国の国母となる女だけが知ることのできる「王国の隠されてきた何か」を手に入れるためだった。
これが運命であった。これが現実であった。
アンドレアは全てを敵に回して、その全てから逃げていた。
隠された何かを知らないまま、しかし、その何かが王国を腐らせているという事実に辿り着き、その現状に抗うために。ただそれだけのために人を殺してみせた。
アンドレア・バークレイという人間は、そういう人間だったのである。
アンドレが乗っていた馬が前方の岩を飛び越えて着地する。馬の蹄が大きく泥を巻き上げ、馬が不満そうに鼻を鳴らす。気位の高い栗毛の馬である。兵舎の隣にある馬舎から軍用馬だ。屈強な体つきに舗装されていない道を力強く走り、よく人の意思を汲んで道を疾走する賢い馬であった。
アンドレアはその馬に助けられながら隘路を駆けていた。
いつも家の窓から眺めていたヴェルデ大山脈。王国と帝国の国境に位置する山脈は荘厳な美しさを誇っており、数多の画家が題材にしてきた。同時に帝国から王国を守ってくれた天然の要塞でもあった。
王国の誇る自然の宝であるが、実際に足を踏み入れると要塞と呼ばれる所以がよく分かる。道は狭く、すぐ脇には切り立った山肌が迫る。水を多分に含んだ泥が足を取るこの地では、馬であっても蹄を少しでも滑らせれば滑落してしまうだろう。背丈を超える草木が視界を遮り、進路すら見えない。
さらに、この雪である。山越えをしようとしているアンドレアにはそれもまた最悪な要素となっていた。
「、しまった」
アンドレアは大きく視界が瞬間、一言だけ言葉を漏らした。
馬の蹄が泥で滑って大きく転倒したのである。アンドレアはなんとか助かろうと手綱を離した。けれども、あぶみが足に絡まって何もできず、馬と共に山肌を滑るように落ちていった。
無数の音と痛みがアンドレアを包んだ。
岩にぶつかる音、体内を走る骨が折れる音、自身の鼓動と枝葉が容赦なく叩きつける痛み。視界は目まぐるしく変化し、刺激が絶えず、痛みは永遠に続くかと思われた。
しかして、幸いにもアンドレアの体は止まった。視界は血に塗れていてここがどこなのかもわからなかったが、落下自体は止められたようであった。馬の悲鳴と、どこからか響いた地響きが遠くに聞こえる。
アンドレアは懐に抱えていたそれを撫でて、割れていないことを確認し薄く微笑んだ。
アンドレア・バークレイの生涯はここで終わりを迎えた。




