第12話 砂と焚き火と私
前回のあらすじ
砂漠の商隊に拾われた凪は、護衛のガルム、副官ナディア、商隊長レオンに守られながら旅を続ける。名を名乗り、この世界で“ナギ”として迎えられた夜、焚き火の向こうで何かが動き始める――過酷な砂漠で、運命の物語が静かに幕を開ける。
砂漠の夕暮れは、思っていたよりも早く訪れた。
太陽はまだ高い位置にあるのに、光の色だけがじわりと赤みを帯びていく。
商隊は進路をわずかに変え、岩陰の多い場所へ向かっていた。
「今日はここまでだ」
先頭を行く男――ガルムが短く告げる。
その声を合図に、護衛たちが散り、周囲の警戒に入った。
移動が止まる。
それだけで、張りつめていた空気がほんの少しだけ緩む。
荷車が並べられ、砂獣の手綱が外される。
焚き火の準備が始まり、乾いた薪の匂いが砂の匂いに混じった。
(……野営、するんだ)
凪――いや、この世界では「ナギ」は、荷台の上からその様子を見ていた。
足元の砂はまだ昼の熱を残している。
けれど、風は確実に冷たさを帯びはじめていた。
少し離れた場所から、商人たちの声が聞こえてくる。
「明日の昼前には城塞が見えるはずだ」
「関所の税率、先月から変わったらしいぞ」
「水の消費は予定通りだな」
数字と距離と判断。
言葉は分かるのに、話の中に自分の居場所はない。
(……当たり前、だよね)
ナギは膝を抱え、焚き火の準備を眺めていた。
そのとき――
「無理に動かなくていいわ」
柔らかな声が、すぐ隣に落ちた。
顔を上げると、ナディアがしゃがみ込んでいる。
手には小さな布と、水の入った器。
「砂、だいぶ被ってる。少し拭くわね」
断る間もなく、指先がそっと頬に触れた。
冷たい布が心地いい。
「……ありがとうございます」
「いいのよ。今日は色々あったもの」
ナディアはそう言って、ナギの手首に視線を落とす。
「痛いところは?」
「……ない、です。ちょっと、だるいだけで」
「それは、普通ね」
小さく笑ってから、ナディアは声を落とした。
「守られる側って、思った以上に疲れるでしょう?」
ナギは、少しだけ驚いて目を瞬かせた。
「……はい」
短い返事。
それだけで、十分だった。
「今夜は眠れなくてもいいわ」
「焚き火が消えるまで、起きてても誰も咎めない」
ナディアは立ち上がり、去り際に振り返る。
「寒くなったら、すぐ言って。ナギ」
その呼び名が、自然に胸に落ちた。
(……ナギ)
焚き火に火が入り、赤い光が夜の帳を押し返していく。
砂漠の夜が、静かに始まった。
少し離れた場所で、レオンが商人たちと低い声で話している。
利益、日程、明日の判断。
その横顔は、昼間よりもずっと商人だった。
ナギはそれを見て、視線を落とす。
(私は……まだ、何も知らない)
ポケットの中の紐飾りに、指が触れた。
かすかな温もりが、そこに残っている。
風が、焚き火の火を揺らす。
一瞬だけ、炎の向きが不自然に変わった気がした。
けれど、誰も気に留めない。
ガルムも、ナディアも、異変はないという顔をしている。
(……気のせい、かな)
ナギは膝を抱え、揺れる炎を見つめた。
ここがどこなのか。
これからどうなるのか。
まだ何ひとつ分からない。
それでも――
この砂漠で、生き延びるしかないという事実だけは、
静かに、確かに胸に根を下ろしていた。
乾いた風が、焚き火の火をもう一度揺らす。
その向こうで、
何かが――確実に動き始めていることを、
ナギはまだ知らない。
◆
焚き火の音が、ぱちりと小さく弾けた。
砂の上に置かれた鍋から、湯気が立ち上る。 香辛料と乾物の匂いが混じり、空腹を思い出させるには十分だった。
商隊の者たちは、それぞれの持ち場に腰を下ろし、簡単な食事を始めている。 笑い声は控えめで、どこか抑えた調子だ。 ここが安全地帯ではないことを、全員が理解している。
ナギの前にも、木の器が差し出された。
「食べとけ。残すなよ」
短く言ったのは、護衛の一人だった。 名前は、まだ覚えきれていない。
「……ありがとうございます」
礼を言って受け取ると、温かさが掌に染みた。 器の中身は、豆と干し肉を煮たもの。 素朴だけれど、今のナギには十分すぎるごちそうだった。
一口、口に運ぶ。 塩気が、舌に広がる。
(ちゃんと……生きてる)
そんな当たり前のことを、今さら実感する。
少し離れた場所で、ガルムが剣を外し、地面に置いた。 だが、完全に力を抜く様子はない。 その姿を見て、ナギも自然と背筋を伸ばす。
焚き火を囲む輪の外側。 そこに、見えない線が引かれているようだった。
越えてはいけない境界。 それは、敵と味方の線ではなく、 油断と警戒の境目。
夜が深まるにつれ、空の色が変わっていく。 赤は消え、濃紺へ。 星が、ひとつ、またひとつと浮かび上がった。
元の世界で見ていた夜空より、ずっと近い。
(……落ちてきそう)
思わず息を詰めた、その瞬間。
胸の奥が、微かに熱を持った。
はっきりとした痛みではない。 鼓動が一拍、強くなるような感覚。
ナギは器を持つ手を止め、そっと胸元に触れた。
(……なに?)
問いかけても、答えはない。 ただ、焚き火の炎が、さっきよりも明るく揺れている気がした。
一陣の風が吹き、火の粉が舞う。 護衛の一人が顔を上げ、周囲を見回すが、すぐに視線を戻した。
異常は、ない。 少なくとも、そう見える。
(……やっぱり、気のせい)
そう思おうとして、思い切れない。
ナギはそっと器を置き、焚き火から少し距離を取った。 炎を正面から見つめる。
揺れる火。 揺れる影。 その奥で、何かが――
「無理するな」
低い声が、背後から落ちた。
振り向くと、ガルムが立っている。 表情は変わらないが、その目は鋭い。
「今日は、もう休め」
「……はい」
短く返事をすると、ガルムはそれ以上何も言わず、その場を離れた。
ナギは毛布にくるまり、砂の上に横になる。 背中越しに感じる地面の冷たさが、昼との落差を教えてくる。
目を閉じる。
焚き火の音。 人の気配。 遠くで鳴く、聞いたことのない生き物の声。
(私は……ナギなんだ)
そう、心の中で繰り返す。
この名前で呼ばれ、 この場所で息をして、 この夜を越えていく。
胸の奥の熱は、まだ消えない。 けれど、それが何なのかは分からないまま。
砂漠の夜は、静かで、容赦がない。 それでも――
その静けさの底で、 確かに「次」が息を潜めていることだけは、 はっきりと感じられた。
ナギは薄く目を開け、星の瞬きを眺めながら、 ゆっくりと意識を手放していった。
◆
ナギが眠りに落ちてから、どれほどの時間が経ったのかは分からない。
焚き火は小さくなり、砂漠は完全な夜に包まれていた。
その中で、ただ一人――
レオンだけが、地平線の方角から目を離さずにいた。
星明かりの下、遠くの闇に、かすかな輪郭が浮かんでいる。
岩でも、雲でもない。
人の手で築かれたものの影。
レオンは、誰にも聞こえないほど低く息を吐いた。
「……もう、見えてきたか」
城塞都市は、まだ遠い。
だが――
この旅が「通過点」ではなく、
分岐点へ向かっていることだけは、確かだった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。新しい場所、新しい出会いの始まりを、少しでも楽しんでいただけていれば嬉しいです。皆さんの反応や応援が、物語を前へ進める大きな力になっています。引き続き、お付き合いいただければ幸いです。




