第10話 知らない空の下へ
新たに凪のお話を煮詰めてましたら、あら不思議…
春樹のお話との兼ね合いをみて、考えたら思考は沼へ…
少しでも楽しんでもらえたら僥倖です。
今回のお話は少し長めになります。
夏の夕日は、田んぼの水面を鏡みたいに染め上げていた。
春樹と別れたあと、凪はあぜ道を軽く駆けていた。
大会前の練習続きで脚はやや重いけれど、それでも身体を動かしていると、頭の中の余計な考えが少しずつ抜けていく気がした。
夕方の空気は昼の熱をわずかに残しつつも肌に触れると心地よく、吹き抜ける風が汗ばんだ首筋をそっと撫でていく。
「……今日も暑かったな」
息を整えながら独り言をこぼす。
ポニーテールがふわりと揺れ、シャツは背中にぴたりと貼りついて少しひんやりしていた。
ふと、さっきの春樹の横顔が思い浮かぶ。
的を見据えるときの真剣な目。
静かに弓を引く肩の動き。
「春樹の弓、ちょっと上手くなってた……もっと自信持ちゃいいのにさ」
思わず笑みがこぼれた。
小さい頃からずっと一緒にいた幼なじみ。
普段は泣き虫で、凪が手を引っ張らないと前に進めないタイプだった春樹。
でも──ひとつだけ、立場が逆になった日がある。
あの川での出来事だ。
胸まで浸かるくらいの浅瀬だと油断して、凪はツルリと足を滑らせ、深い流れの方へ引きずられた。
視界が水の色に沈み、呼吸が苦しくなったその瞬間――
真っ先に飛び込んできたのは、あの泣き虫だった春樹だった。
「凪! つかまれ!」
水をかき分けながら、必死に腕を伸ばす春樹の顔は、今でもはっきり覚えている。
あのときだけは、確かに凪の方が“助けられた”側だった。
(ほんと、昔とは全然違うなぁ……)
あいつはあいつで、いまだに鈍くて危なっかしいところも多い。
それでも気づけばちゃんと自分の足で立って、努力して、強くなっていく。
そんな春樹を思い出すと、自然と胸が温かくなるのだった。
――その直後
……ふ、と周囲の音が消えた。
蝉の声も、遠くの車の走行音も、風のざわめきすら止む。
さっきまで確かにあった“生活の音”が、糸を断つように一気に消え失せた。
「……え?」
凪は思わず立ち止まり、耳を澄ませた。
無音──
世界そのものが息をひそめたような静けさが、胸の奥をざわりと掻きむしる。
嫌な汗が背中へつっと伝う。
「なんか……変じゃない?」
つぶやいても返事はない。
視界の端で、草がひとつだけぽつんと揺れた気がした。
風は吹いていないのに。
不安がじわじわと広がる。
足元の土のあいだから、淡い光がにじむように湧き上がっていた。
夕陽の反射ではない。
砂金のような細かい粒が呼吸するように揺れながら、じわりと広がっていく。
「な、に……? スマホのライト……じゃないよね」
思わず後ずさる。
だが光はついてくるように凪の足にまとわりつき、まるで意思を持つ生き物のようにゆっくりと膨らんでいく。
胸がきゅっと締めつけられる。
「ちょっ、待って……!」
慌てて走り出そうとした瞬間、視界がぐらりと揺れた。
声より先に、足元が吸い込まれる。
落ちる――そう思った瞬間、景色が白い光に飲まれた。
◆
白いはずの光は、やがてゆっくりと蒼へ変わっていく。
金属がひび割れるような、奇妙な静けさが耳の奥に広がった。
(なに……これ……?)
目を開けているのか閉じているのかさえ分からない。
身体が浮いているような、沈んでいるような、重力のない感覚。
その時だった。
――まだ、落ちるな。
かすれた声が、どこかものすごく遠くから届いた。
囁きというより、鼓膜の裏側を撫でたような感触。
誰の声かも分からない。
言葉の意味も理解できない。
けれど、その一言に胸の奥がふっと温かくなる。
……気のせいかもしれない。
凪の意識がそこで途切れた──
◆
次に目を開いたとき、頬を焼くような熱さが襲ってきた。
「っ……あつ……!」
凪は反射的に体を起こした。
砂だ。
どこまでも続く、乾ききった砂の大地。
照りつける太陽が、皮膚を刺すみたいに痛い。
「ど……こ……?」
声が勝手に震えた。
昼間の校庭なんて比じゃない。
空気そのものが熱を含んでいて、肺に触れるたび苦しくなる。
(落ち着け……落ち着けって……)
何度か深呼吸して周囲を見渡す。
影らしい影もない。
木もなければ、建物もない。
ただ、揺らめく地平線だけが延々と続いていた。
足をふらつかせながら砂を踏みしめると、靴底のゴムがきしむほど熱かった。
「……これ、夢じゃないよね?」
つぶやいた瞬間、喉の渇きが一気に意識へ浮上する。
走った後とは比べものにならない。
体の中の水分が全部吸い取られたみたいだ。
そんな時――遠くで砂煙が上がった。
風に流されるようなぼんやりした影。
最初は蜃気楼だと思った。
でも、違う。
砂煙の向こうから、大型の獣が荷車を引き、いくつも影が揺れ動いている。
(人……?)
目を細めた凪の視界に、その隊列がはっきり映った。
「おい! 誰かいるぞ!」
荷車を引いているのは、ラクダに似ているようでどこか違う、長い耳と角を持つ獣だった。
褐色の肌をした大柄な男が驚いた声を上げ、ふらつきながら立っていた凪の元へ駆け寄る。
砂を蹴る足音が近い。
「おい嬢ちゃん、大丈夫か? こんなとこにいたら倒れてすぐ死ぬぞ!」
差し出された革袋から水が跳ねた。
がまんできず、凪は喉へ一気に流し込む。
「……っ、ありがとう……ございます……」
冷たくはない。
けれど、生き返るような味がした。
「俺はガルムだ。商隊護衛のまとめ役をやってる」
ぶっきらぼうな口調だが、視線は凪の足元や呼吸の速さを素早く確認している。
「こっちは――」
そう言って、少し後ろに控えていた女性を手で示す。
「ナディア。副官みたいなもんだ」
「初めまして」
ナディアと呼ばれた女性は、穏やかに微笑みながら一歩近づいた。
「立てそう? 無理なら、すぐ言って。倒れる前に対処するから」
その声は不思議と落ち着いていて、凪の胸のざわつきを少しだけ鎮めた。
さらに、荷車の影から、身なりの整った男が現れる。
砂漠向きとは思えないほど上質な外套。
日に焼けてはいるが、どこか都会的な雰囲気。
「私はレオン。商隊の責任者だ」
物腰は柔らかいが、目だけは状況を正確に測っている。
「事情は後で聞こう。今は生きる方が先だ」
男たちは互いに短く視線を交わす。
「見たところ旅装でもねぇ。どこの村の子だ?」
「いや、もっと……変だ。そんな服、見たことねぇ」
凪は胸の前で両手を握りしめる。
説明できるわけがない。
「理由は聞かねぇよ」
ガルムが言った。
「死なれるよりは運がいい。城塞都市まで乗せてやる。立てるか?」
「……はい。行けます」
本当は足が震えていた。
でも、立てないと言ったら、きっともっと心配をかけてしまう。
手を取られ荷台に乗ると、固い木の板が背中を支えてくれた。
商隊が動き出し、砂漠の風が横に流れていく。
(春樹……今、どうしてるんだろ……)
ポケットに触れる。
スマホはどこにもない。
けれど、春樹にもらった紐飾りだけは残っていた。
その紐が、ほんの一瞬だけ蒼く光った気がした。
「……気のせい、でしょ……」
いや、気のせいじゃない――
その瞬間、誰かに見られているような、ほんの微かな気配が背中を撫でた。
◆
荷台が軋む音に合わせて、凪は浅く息を繰り返した。
砂漠の風は容赦なく、昼の熱を含んだまま肌を撫でてくる。
それでも、さっきまでの“ひとりきり”よりは、はるかに心が落ち着いていた。
「水、無理に飲みすぎるな。少しずつだ」
護衛の男が、ぶっきらぼうに声をかけてくる。
その言葉に、凪は小さく頷いた。
(……ちゃんと、生きてる)
そう実感した瞬間、足の震えが遅れてやってくる。
(春樹……今、どうしてるんだろ……)
ポケットに触れる。
スマホは、やはりない。
けれど――
春樹にもらった、あの紐飾りだけは残っていた。
指先でそっとなぞった、その瞬間。
紐の端が、ほんの一瞬だけ蒼く光った気がした。
「……気のせい、だよね……」
そう呟いたはずなのに、胸の奥に、言い切れない感覚が残る。
誰かに見られているような。
遠くから、確かめられているような――
そんな、微かな気配。
凪は、荷台の縁に身を預け、遠くを見た。
砂の海の向こう。
揺らめく地平線のさらに奥に、
蜃気楼のような“影”が、うっすらと浮かんでいる。
(……あれが……?)
まだ、形ははっきりしない。
ただ、それが「人の営みのある場所」だということだけは、直感で分かった。
「生き延びないと……」
小さく、けれど確かに、凪はそう口にした。
この砂漠で。
この世界で。
彼女はまだ知らない。
この出会いが、自分の運命を大きく動かしていくことを。
――城塞都市へと続く道の上で。
読んでくださりありがとうございます。
凪の旅立ちはまだ始まったばかり。彼女がこの世界で何を見て、誰と出会い、どう変わっていくのか──続きも楽しみにしていてくださいね!




