黒猫と依頼
翌日の十八時。私たちはオフィスビルの陰でその瞬間を待っていた。
「今回の依頼のおさらいをするね」
「あぁ」
「依頼人は平井由紀、女性、26歳、OL。一か月前から誰かに見られているような気配を感じるようになった。気持ち悪いから止めてほしい、とのことだ」
「聞けば聞くほど私たちの領分ではないような気がするな」
「まぁまぁ。でも確かに警察沙汰にしたら犯人は逆上するかもしれないからね。僕たちくらいがちょうどいい」
「それもそうか」
春乃はビルから出てくる人間たちから目を離さない。
「で?仕事帰りの依頼人を追っかけて家まで見守り、途中でストーカーが出てきたらそこを捕まえる。平井を尾行している犯人の尾行ってことで合ってるか?」
「そうそう、できればストーカーの背後をとれれば一番いいんだけどね。もし僕たちが先導してしまった場合、平井さんと犯人の間になっちゃったときは君の出番だよ。回り込んで犯人の後ろについてほしい」
「はいはい」
「出てきた」
その声に反応し、春乃の視線の先を追うと依頼人の平井がスーツに身を包み、辺りを見渡している。おそらく私たちがちゃんと来ているか、確かめたいのだろう。でもそんなに明らかな動きをしているとストーカーにバレるのでは?
「メッセージを送る」
春乃の肩に乗り画面を覗く。
『後ろから追いかけるのでいつものように帰ってください、怪しまれるような動きはしないように』
それはすぐに既読がついた。平井は私たちの姿は確認できなかったようだが、そのメッセージを見て深く頷いた。だから怪しい動きはするなと。
「じゃあ僕らも行くよ」
数十メートルの距離を保ちながら私たちは平井の跡を追った。
平井の家までは徒歩で三十分ほどだと聞いた。いつもは自転車で通勤をしているそうだが、今回は尾行がしやすいように徒歩にしてもらった。後を追いかけながら周りを注意深く見ているが今のところは怪しい人物はいない。
オフィスビル群からアーケードのある商店街を抜け、住宅地へ。人通りも少なくなり、閑静な住宅街が軒を連ねる。もし相手が仕掛けるならこの辺に違いない。私は春乃から少し離れる形で塀の上へ昇った。それを春乃がちらりと見て、サムズアップをした。
平井は怪しくないように、という言葉に感化されたのかなぜか無駄に胸を張っているように見えた。むしろこの状況を楽しんでいるように見える。守られているという安心感がそうさせるのか、心の真意は分からない。ただ、それにひどく違和感を覚えた。これがストーカーに怯える女性の姿か?
程なくして、平井の家に着いた。電信柱の陰に隠れて家に入るのを見届ける。私は電信柱に貼っている張り紙が気になった。なんてことはない、ただの迷い猫の張り紙だ。ただの。
平井の家は一軒家だった。確か、両親が早々に他界し妹と一緒に住んでいるんだったか。女性二人でこの大きな家に住むのはなかなか防犯上、怖いものがあるな。
玄関が見える位置で春乃と合流する。
「誰か怪しい人いた?」
「いや?こちらは別に」
「そう。僕の方も特に誰もいなかった」
「まぁ何も無いならそれでいいんだけど」
「そうだね」
その時、春乃に平井からメッセージが届いた。要約すると『あちらが行動を起こすまで守ってください』とのことだった。いやほんとに何も無ければそれが一番いいが、ずっと守ってやると言うのもちょっと難しいのではないか?
「そういうことみたいだから今日はもう帰ろうか」
「そうするか」
「今日何食べたい?」
「マグロ」
「君はそればっかりだね」
そう談笑しながら平井の家に背を向けた時、背筋に冷たい視線を感じた。例えば、背中の毛を毛並みとは逆に撫でられた時のような、そんな悪意のようなものが。振り返るが、しかし、そこには誰もいなかった。
「どうしたの?」
「いや、なんてことはないんだが」
「そうなの?」
「でも分かったかもしれない」
「なにが?」
「犯人がさ」