第9話 悪華
女、ブランと名乗る、国外からやってきた彼女の美貌は魔性だった。
男の理性をドロドロに溶かし、骨抜きにする。
――彼女にいいところを見せたい。
現国王は強く強く願った。
「よかったら、町を案内しよう」
「ぜひ……! あ、いえ。大変うれしいのですが、お忙しい陛下のお手を煩わせるわけにはまいりませんよね」
ブランは困ったように笑った。
その場に居合わせた男どもは一人残らずこう思った。
なんて慎ましい女性だろう。
否、一人だけ別ごとを考えていた男がいた。
「へ、陛下。あまり彼女と、な、馴れ馴れしくしないでください」
序列最下位の男だ。
彼は二人の間に割って入ると、少し前のめりに警戒心をむき出しにした。
要は、気に食わなかったのである。
(彼女を先に見つけたのは僕だ。横からかっさらわれてたまるか)
それならそもそもこの場に連れてくるな、という話なのだが、普段から見下されていた彼は彼女を自慢したい欲望を抑えられなかったのだ。
だから、愚かなやつ、とハクに内心で笑われていることを彼はまだ知らない。
「ほう、何故だ」
「な、何故って、彼女が、い、嫌がってます」
「俺にはこう聞こえたが? 『ぜひ』、と」
「そ、それは、彼女が思いやり溢れる優しい人だからです」
「なるほど。それで、お前は彼女が、その程度のことで迷惑だと感じるような、心の狭い人間だと、そう主張するのだな?」
「な、それは……!」
そう言われると、彼は返答に困窮した。
ここで引けば奪われてしまう。
かと言って無理を通せば、意中の相手からの心象を損ねかねない。
「あの、私なら、大丈夫ですよ」
眉をハの字に曲げて、ブランが言う。
「では陛下、大変心苦しいですが、エスコートをお願いしてもよろしいですか?」
「無論だ」
序列最下位の男は、いまにも泣き出しそうな顔になった。
離れていく、距離も、心も。
もう二度と手の届かないところに行ってしまう。
「大丈夫ですよ」
去り際、ブランは彼の耳元で、彼にしか聞こえない声量で囁いた。
「すぐに戻ってきます。またお会いしましょう。今度は、二人で」
茶目っ気たっぷりの笑顔を見せる彼女は底抜けに明るい女性にしか見えず、国王相手に恋慕している女性の表情には見えなかった。
むしろ、大事なのは最後の言葉。
二人で。
間違いない。
(彼女が本当に好きなのは、僕一人!)
絶望から一転有頂天。
男は二人の外出を元気よく見送った。
――ほんっと、師父以外の男って馬鹿ばっかね。
◇ ◇ ◇
始まりはささやかなおねだりだった。
前王が貨幣制度を導入して以来、装飾品などを取り扱うものが増え、一か所に集められた工芸通り。
ブランはその通りが非常に気に入った様子で、創意工夫が凝らされたそれらを楽しそうに眺めていた。
王は思った。
カッコいいところを見せるならここしかない、と。
「気に入ったものがあれば遠慮なく申せ」
「い、いえ! そこまでご迷惑をおかけするわけには」
「しかし、流れ着いたばかりで貨幣も持たぬ身であろう?」
「それは、そうなのですが」
しおらしいブランを見ていると、何か清らかではない感情がふつふつと込み上げてくる。
「あいわかった。では店主よ、この店の代物をすべて買い取ろう」
「へ、陛下⁉ いけません、そのような真似」
「気にする必要はない。俺からの贈り物だと思えばいい」
「そういうわけにはまいりません」
いいですか、とブランは問題点を指摘した。
「こんなに素敵なんですもの。私一人が独占してしまうより、町の皆さんに行き届いた方が素敵になると思いませんか?」
「ふむ……富の公平分配か。だが、それでは、君に贈り物がしたいという俺の気持ちはどうする。大勢の為に個人の感情を蔑ろにするか?」
「えぇと、でしたら……」
ブランは一通り店内を見渡して、それから一つのアクセサリーの前で立ち止まった。
「こちらをお願いしてもよろしいですか?」
それは特段、高値というわけではなかった。
「いいのか? もっと高価なものが他にも」
「いいんです。これが気に入ったんです」
王は困った様子で笑った。
(変わったやつだ。だが、面白い)
気が付けば彼女の一挙手一投足を目で追ってしまう自分がいた。
(これほど身も心も清らかな女性がこの世に二人といるだろうか?)
いや、いない。
(欲しい。彼女を、俺だけのものにしたい)
男の中で、ブランへの好感度ははち切れんばかりに膨れ上がっていた。
「陛下、どうかなされましたか?」
上目づかいで、こちらを気遣うような瞳と視線が交差する。
邪な心が見抜かれてしまったのだろうかと一瞬だけ不安になり、上ずった咳がでた。
「いや、なんでもない」
「そうですか、よかったです」
太陽のように奔放で自由な彼女。
その背中を男は追いかけた。
――この男も、ちょろいなぁ。
彼女の本心など、まるで見抜けないまま。
◇ ◇ ◇
序列最下位の男の心は激しく乱れていた。
(そんな、なんで、どうして)
理解ができない。
(どうしてそんなに親しそうにしているんだ)
とてつもなく長く感じる外出から二人が王城に戻ってきたのはついさきほどのこと。
ブランに執着していた彼だから気づいたことがある。
行くときと返ってきてからで、明らかに二人の物理的な距離が違う。
初対面の緊張や、心の壁が取り払われたように、親密な間柄を周囲にアピールするように、顔のいい男女が並んでいる。
それだけではない。
(なんだあの髪飾りは、出ていくときにはつけていなかったはずだ)
贈り物だとしか考えられない。
ブランに、国王は、すり寄っている。
「いや、いやいや。こんなの、彼女を疑ってるみたいじゃないか」
彼女が本当に大事に思っているのはきっと自分のはずだ。
男は自らにそう言い聞かせて、どうにか心の平穏を保つことを試みた。
だが。
ひと月経てども、ふた月経てども、序列最下位の男とブランの仲はなかなか進展しない。
いや、どころか。
少しずつ、会う機会が減っていっているような気さえする。
気のせいではない。
だが、男はその事実から目をそらした。
そんなはずないと思い込み、いつかこの悪夢が終わることを願った。
半年が過ぎた。
誰の目にも親交の機会は減っている。
翻って、彼女と国王は、周囲が吐き気を催すほどの甘ったるい雰囲気を醸し出している。
どうしてこうなった。
男は悔いた。悔いても何も始まらなかった。
彼にできたのは、嘆くことだけだった。
彼にできたのは、だ。
◇ ◇ ◇
「なあ、最近どう思う?」
王城の会議室。
円卓を6人の男女が取り囲んでいた。
「最悪」
一人の女性が言う。
「最近のリーダーはブランにかまけてろくに仕事もしねえ。おかげでこっちはそのしわ寄せで手いっぱいだ」
「うむ。これまで皆で分担して作業を進めていたが、このままではいかんと思うぞ」
「さんせー。あんたはどう思う?」
「へっ、ぼ、僕ですか?」
気だるげな女性が序列最下位の男に会話を振ったことで、円卓を囲む男女の視線が彼に集中する。
「よ、良くないと思います、はい」
そこで男は、ふと思ってしまった。
これはチャンスなのではないか、と。
自分一人では何を言っても通らない。
しかしここにいる6人全員の目的が一致し、団結できれば?
いけすかないあのリーダーに、一矢報いれるかもしれない。
いや一矢報いるとすればここしかない。
こんなチャンス二度とない。
「い、一度王から、ブランさんを引きはがすべき、かと」
気が付けば、言わなくていいことまで口走っていた。
「だよねぇ、話わかるじゃん」
「うむ。我々が言いたかったこと、良く代弁してくれたぞ」
「んじゃ、そういうことで頼むわ。リーダーに伝えといてくれ」
「よろしく」
「任せたぞ」
「えっ、あの、ちょ、ちょっと」
いつの間にか、会議室には彼一人。
「はぁ、もう、どうしてこうなるんだ」
部屋の隅で、男は頭を抱える。
「いつもそうだ。損な役回りばっかり」
会議室からは、すすり泣く声が聞こえていた。
◇ ◇ ◇
王城最奥部にある王の私室は、いざというときに立てこもれるよう頑丈な扉が取り付けられている。
重厚なそれは内部の音を早々外に漏らさないが、ぴとり、と聞き耳をそばだててみれば、甘ったるい、媚びへつらうような声が聞こえてくるだろう。
「んふぅ、陛下ぁ。ダメぇ」
いったい室内で何が行われているのか。
我々には想像を巡らせるしか方法が無い。
「ブラン、俺は貴様に執心よ。この思い、どうすれば伝えられる」
「そうですねぇ……では、楽器を。とびきり高級で、贅の限りを尽くした一品を」
「うむ、わかった。すぐに手配しよう」
この男、すでに篭絡されていた。
始まりは彼女の清らかな心にひかれた、などとのたまってはいたものの、いま、このように邪心に満ちた本性を垣間見ても、もはや踏みとどまれない。
底なし沼にいると気づいたときには、すでに首まで浸かっていた。
まして引き返すことなどできようはずもない。
だが、ブラン――いや、ハクは焦っていた。
一国という巨大組織が持つ財力を彼女は測り損ねていた。
高価な代物をねだれどねだれど、国庫がそこを尽きる気配が見えない。
実際には、かなりの勢いで減っている。
数年とまたずに彼女の努力は実を結び、国は致命的に破綻するだろう。
だが、それが内側からだとなかなか見えない。
当然不安になる。
果たして財政を圧迫するという当初の目的は達成できているのだろうか。
それとも、急激な成長を遂げる国にとっては大したダメージになっていないのだろうか。
ハクの立場からは確認のしようが無い。
(考えなさい、考えるのよ、私)
目的を再度確認する。
与えられた使命は財政を圧迫させること。
そして国を破滅に導くこと。
そのためにすべきことは――
「あは」
ハクは笑った。
「ブラン、何か楽しいことでもあったのか?」
どうして、気付かなかったのだろう。
ヒントはあった。一番最初に。
――まず、食糧庫から食料を奪う。
――貯蓄を守るために人手が必要になり、人手を増やすために貯蓄を増やす必要がある。
財政の急所は、国民。
「ええ、陛下。一つ、お願い事がありますの」
「おお! 愛しのブランの願いであれば何でも叶えてやろうぞ!」
「でしたら」
天使のようにかわいらしい女は、悪魔のように醜悪な笑みを浮かべる。
「私、娯楽に飢えていますの」
「ほう。そういえば先ほども楽器を所望していたな。わかった。音楽団を結成させて……」
「いえ。私が求めているのは、もっと刺激が強く、この上なく甘美な催し、すなわち」
とある男に施された英才教育が、
「人が無様に命乞いをしているさまがみたいですわ」
悪の華を、開かせる。
◇ ◇ ◇
「そんなこと、できるわけがなかろう!」
王は全身からじっとりと嫌な汗が噴き出してくるのを感じていた。
(あ、危ないところだった。俺は、いったい何を)
数か月ぶりに、霞が晴れたようにすっきりした思考でいましがたのやり取りを思い返す。
(「それは名案だ」と、一瞬だが、そう言いかけた)
心臓を掴まれたように肝が冷える。
(そのようなこと、許されるわけがない!)
この女は何者だ。
はたしてこんな女をそばに置いていていいのか?
いや、いいわけがない。
一度距離を置くべきだ。
彼の冷静な部分は口酸っぱく彼の理性に訴えていた。
その主張を聞き入れ、話をしようとして、邪魔が入る。
『陛下! いらっしゃいますでしょうか! お話がございます!』
がんがんと扉を叩く、落ち着きのない男の声がする。
扉を開けて確認するまでも無い。
序列最下位の男だ。
理由は定かではないが裸だった国王は「少し待て」と言い渡し、服装を整え、男との話を優先した。
「なんだ」
男が凄めば、相手は意気消沈するように尻込みし、ぼそぼそとしゃべり出す。
「そ、その、先ほど、6人で会議を行いまして、その、ご、ご報告に、参りました」
「チッ、なんだ、そのことか。お前らに任せると言ったはずだが」
「そ、そうもいかないのです。今回ばかりは、陛下にも関係があるお話なのです」
生唾を呑む音がした。
目の前の、序列最下位の男の緊張がどれほどのものかをうかがい知れる要素だった。
「へ、陛下には、ブランさんと距離を置いていただきたく存じます!」
「……あ?」
国王の心に、もやもやとした黒い霧が広がっていく。
「てめぇ、それどういう意味だ」
「さ、最近の陛下の身勝手は、目に余ります! 民を蔑ろにし、散在する姿は、民衆を束ねる者のすることではございません!」
「てめぇ誰に向かって口をきいてやがる」
正体不明の怒りが込み上げてきた。
「出てけ」
「へ、陛下!」
「出てけっつってんだよ!」
カッとなって、締め出した。
すぐに後悔の念が膨れ上がった。
(チッ、何をイラついてんだ、俺は。さっき自分でも思ったことだろうが)
だが、人に指摘されると話が別だ。
言われたから、した。
言われなければ気づけない大間抜け。
そう思われるのが嫌で、素直に聞けない。
(これじゃ、まるでガキじゃねえかよ)
思えば昔からそうだった。
武器の手入れをしなさいと言われて、「いまやろうと思っていたのに、やれって言われて、やる気なくなった」と言い訳するクソガキだった。
年だけ増えても、中身がまるで変っていない。
「んふっ、嫌ですわねぇ、陛下」
そんな彼に、忍び寄る女の影がある。
「ブラン……」
「彼、陛下に嫉妬したんですわ。だから私たちを引きはがしたくて仕方がないんですの」
女は彼の背後から抱き着くと、服の裾から手を回し、引き締まった肉体を撫でまわした。
「いいんですの? 彼の思惑通りに動いてしまって」
「……脅す気か? 俺を」
「まさかぁ」
うふふ、と妖艶に笑う女は、ここで別れ話を切り出すのなら向こうになびくぞ、と釘を刺している。
男は理性こそ取り戻したものの、その体は肉欲に溺れたままだ、
快楽を知ってしまった脳は、彼女を手放すことを、本能で固く拒んでいる。
「一つ、いい案がございますわ」
その囁きは、とてつもなく抗いがたく、どうしようもなく甘露だった。
「口うるさいあの男を、処刑してしまいましょう?」
「そ、れは」
――そうすれば、私たちの愛を邪魔する者はいませんわ。
そんな囁きが、彼の頭の中で繰り返し響いていた。