第18話 収容失敗
クロエと天ちゃんはいつでも間合いを詰められるように、ひきこさんの動きに意識を研ぎ澄ませる。
ひきこさんは笑みを崩さず、じっとクロエたちを見て立ち尽くしている。
そして──、
軽く顔を傾けたかと思えば、手を突き出し前かがみになって走り出す。
ひきこさんが動き出すと同時に、天ちゃんはひきこさんに手を向け、クロエは真っ向からひきこさんに向かって地面を蹴って飛び出す。
クロエとひきこさんが組み合おうとした時、ひきこさんの動きがピタリと止まる。
クロエが後ろをチラと見ると、天ちゃんが前に突き出していた手に拳を作り、口には笑みが浮かび上がっていた。恐らく天ちゃんのやったことで間違いないのだろう。
その事実を確認した瞬間、クロエは再びひきこさんに視線を戻し、ガラ空きの懐を足に力を込めて蹴り上げ宙に飛ばす。
蹴り上げられたひきこさんは空中で停止したかと思うと、胴体を引っ張られるように天ちゃんの下へと引き寄せられていく。
「よい1発ご苦労じゃ、クロエ」
天ちゃんはひきこさんを自分の頭上へと引き寄せて止めると、指をくるくると回し始め、天ちゃんの動きに合わせてひきこさんは空中で振り回される。
そして、指先が地面へと向けられると同時に、ひきこさんはアスファルトで塗装された地面に腰から叩きつけられる。
「この勝負、妾が貰ってしもうたかの?」
天ちゃんはそう言うと、叩きつけられて横たわっているひきこさんの足元にしゃがみ込むと、ひきこさんの足をツンツンと突いて確認する。
クロエはひきこさんを突いている天ちゃんの隣へ歩いていくと、一緒になってひきこさんを突き始める。
「さっきのやつ凄いね! ひきこさんをくるくるって、あれどうやってやってるの?」
クロエは先程、どうやって天ちゃんがひきこさんを空中で振り回していたのか、目を輝かせて興味津々の様子で聞く。その間も気に入ったのか、クロエはひきこさんを突くのは辞めずにいた。
天ちゃんはクロエに自分のことを聞かれたことが嬉しかったのか、笑みをこぼすと意気揚々として話し始める。
「妾ら妖狐は“神通力”と呼ばれる力をいくつか持っておるのじゃ。妖狐によって持っている力は変わるが、こやつを宙で振り回したのは、妾の“空間を固定化する力”じゃ。凝空通とでも言おうかの」
天ちゃんは地面にできた水溜まりに指を入れると、薄い皿状になった水の塊を取り出し、そのままクロエに手渡す。
クロエは水の皿を受け取ると、水の皿越しに横たわっているひきこさんを透して見たり、手の甲でコンコンと叩いたりと不思議そうに眺めると、「えいっ」と塀に向かって投げつける。
しかし、塀にぶつかって水の皿は割れることなく地面に落ちる。
「全然壊れない。あれも空間の固定化っていうのをして作ったの?」
クロエは投げた水の皿を指さして聞く。
「そうじゃな、あれはあの水の周りの空間を固めたもの。じゃから──」
天ちゃんが指を横に振ると水の皿が形を崩し、波紋を起こして辺り一帯に張り巡らされた水の膜に溶け込む。
すぐに潸々と降りしきる雨粒によって、水の皿が作り出した波紋は掻き消された。
「空間を元に戻せば、ああしてただの水溜まりに戻るという訳じゃ。どうじゃ? 中々面白いじゃろう?」
天ちゃんが自分の力について話し終えると同時に、道沿いに建てられた住宅の1つが、玄関ドアのラッチを鳴らして開かれた。
開かれたドアの奥から顔を覗かせたのは、ひとりの女性。
頭にタオルが巻かれ、顔にはケアをするのためのパックが貼られており、手に小さな手鏡を持っていた。
「さっきすごい音してたけど、何だったの? 雷? にしては変な音だったし……って、そんなこと気にしてる場合じゃない。あっくんが今日はどこに隠れちゃったのか探さないと」
女性は、雨に濡れないよう庇のから辺りを見回してブツブツと呟く。
クロエは天ちゃんに声を出さずに目配せだけすると、女性に見つからないようひきこさんを収容してその場を去ろうとブックを取り出す。
ブックを取り出して視線を前に向けると、クロエたちの目の前には白い壁がそびえ立っていた。
──ひきこさんだ。まだ仕留め切れていなかった。
クロエたちがそう認識した頃には既に時遅く、ひきこさんはドアを開けて出てきた女性の方へと手を前に突き出して走り出していた。
「──っ!? マズい、天ちゃん!」
「分かっておる!」
クロエは咄嗟に声を張り上げて走り出すと、天ちゃんは呼応する様にひきこさんに向けて手を構える。
しかし、天ちゃんがひきこさんを止めるまもなく、ひきこさんは女性の下まで迫る。
女性がクロエの声に気付いて振り向くと、口が裂けそうな程口角を上げた歪な笑みを浮かべた女がずぶ濡れになって、くねくねと道いっぱいを曲がりながら自分の直ぐ側まで走って来ていた。
「えっ、何? 何の音!?」
女性は恐怖心に駆られ、本能的に顔を隠して身を守ろうとする。
だがそんな抵抗は、成人男性をも引き摺り回して徘徊し続ける事のできるひきこさんさんにとって、子供が布団に包まっているのに等しい。
ひきこさんの指先が女性の肩に触れようとした瞬間、ひきこさんは突然手を引いてたじろいだ。
女性の持つ手鏡に映し出されたひきこさんは、吊り上げられた口角こそ変わり無いが、目は血管が目立つほど、より一層見開かせていた。
その場の誰も微動だにせず数瞬の間が流れると、ひきこさんは女性を避けるように横を通ると、夜の住宅路へと水しぶきを上げもの凄い速さで走り去って行った。
ひきこさんの突然の行動に、クロエと天ちゃんはひきこさんを止めることを忘れ、眉をひそめて怪訝な表情でその状況を傍観していた。
「彼奴は何がしたかったのじゃ……?」
天ちゃんがひきこさんの行動に困惑して発した一言で、クロエはハッと我に返る。
そして、膝から崩れ落ちて地面に手をつくと、
「ひ、ひきこさん収容し逃した……」
天ちゃんとこの住宅路へと来た当初の目的である“ひきこさんを収容”せず、あろうことか逃げていく様をただ眺めて追いかけようともしなかった自分を悔やみ始める。
そんなクロエの肩を天ちゃんは軽く叩き「何、また今度捕まえればよいじゃろ」と、軽い感覚で慰める。
クロエはよろよろと立ち上がると、ブックをポーチに戻しながら座らせていた子供の下へと歩いて行く。
クロエが子供の前まで来て手を差し伸べようとすると、子供は不意に立ち上がりクロエの横を駆け抜けてゆく。
その様子を後ろで見ていた天ちゃんはクロエが怖がられているのだろうと思い、子供を受け止めるためにしゃがみ、
「クロエよ、子供をあやす時はこうやって優しくじゃの」
天ちゃんが子供を怖がらせない様に優しく微笑んで空いている手を差し出すと──、
子供は天ちゃんの横を走って通り抜ける。
まさか自分がクロエの二の舞いになるとは微塵も思っておらず、しゃがんで手を差し出したまま固まる天ちゃんの微笑みは、僅かながら引きつっていた。
クロエと天ちゃんを見事にスルーした子供は、先程ひきこさんに襲われかけた女性に向かって走っていくと、女性も子供に気付いた様子で顔を向ける。
「あっくん!? こんなに雨降ってるのにまた外行っちゃダメじゃない。風引いちゃうでしょ? こんなに服濡らしちゃって……ほら、お家入って温まろうね」
どうやら女性と子供は親子だったらしく、子供は女性にくっつきながら家の中に入っていった。
そして、クロエは未だ固まったまま動かない天ちゃんの下まで戻っていくと、ひきこさんの去っていった道を眺めながら
「天ちゃん、子供をあやす時はそうやって微笑んだ後は何するの?」
と、笑いを噛み殺しながら聞く。
その間クロエは、我慢が限界に達しそうになるのを、目頭を指で押さえて必死に押し殺そうとする。
天ちゃんはあまりの恥ずかしさに「くぅ」とうめき声を漏らすと、振り袖で顔を隠す。
「今回の勝負は彼奴にも逃げられてしもうたことじゃ、また今度に持ち越しじゃ!」
相当恥ずかしかったのだろう。そう告げると天ちゃんは、うずくまったまま煙の様に姿をくらませてしまった。
天ちゃんが居なくなり、クロエはブックとともに点々と街灯の灯された夜の間の中にポツリと佇む。
「あ、消えちゃった」
クロエが天ちゃんをからかい過ぎたかと若干申し訳なく思っていると、それまで黙っていたブックがふと聞いてくる。
「さっきの親子、覚えてるか?」
さっきの親子。ひきこさんに引き摺られていた子供と、その子供を連れて家に入っていった女性のことだ。
ブックが覚えているか? と聞いてきたということは、既にどこかで会っているということだろう。
実際、記憶力の良いクロエも親子のことはしっかりと覚えていた。
「ちゃんと覚えてるよ。ひきこさんを探してた時に話し掛けた親子でしょ? それがどうかしたの?」
先程の親子は、クロエと天ちゃんがひきこさんを探している最中に話し掛けた親子だった。
なぜ今ブックがあの親子の話題を持ち出してきたのかクロエは不思議に思う。
「いや、お前たちが話し掛けた時、オレはてっきりあの女がひきこさんなんじゃないかと思ってたんだがな」
確かに様子がおかしくはあったがクロエはさほど気にしておらず、ましてやあの女性がひきこさんなどと微塵も思っていなかった。
クロエはブックの勘違いに首を傾げる。
「ブックって、感が良いのか鈍いのかよく分かんないよね」
──そうこう話しているうちにいつしか雨脚は弱まり、気がついた頃には雨雲は消え、月明かりで濡れた道路が煌めいていた。
幻想生物データ『ひきこさん』
危険度不明
収容レベル不明