絞首
数日後、Φは湖のある人の多い公園でXと落ち合った。
テキトーに散歩しようと言われたXは、Φとゆっくり園内を歩き出した。周りを見渡すとやはり家族連れが多い。風があるのに異様にみんなバドミントンや羽根突きをやっている。気を逸らして時間を稼いでいるというのにXは何も言ってこない。Φは気まずかった。色々問い詰められて即座にごめんと謝ってしまいたかった。だがそんなことは言ってこない。Xらしいな、とΦは心の中でつぶやいた。付き合っていたからそんなことはわかっていたはずなのに、その矢印が自分に向けられると、その辛さに耐えることができない。遠くで見れば小さく見えるが近くで見ると超絶大きく見えるどっかのなんかのようだ。
「あのね」
Xは口を開いた。
「私嬉しかったの。あの時。あなたが私の首を絞めたとき。最初は思ったよりびっくりしたけど息ができなくなって死を感じ始めたとき、あなたが私に一生懸命になってくれているって思ったの。こんなにも私に一生懸命になってくれたことってなかったなって。走馬灯のように思い出をめくってみたけどそんなものはなかったわ」
Φは隣でその事件について聞きながらXが怒ってないことに安堵はしながら、同時に恐怖という言葉以外に表現できないものを感じていた。
「それでね」Xは続けた。
「死んだふりをすることはあなたとの関係を断ち切るみたいですごくきつかったけど、やらざるを得なかった。あなたへの愛を感じたのはその時が一番だったかな。あのまま死んでても良かったんだけどね。というか、その死んだふりをしている途中、死にそうになったんだけどね。私、首を絞められる前に息継ぎするの忘れたから。すごく焦ったわ。でも私はあなたのおかげで死ななかったって、すごく感謝してるわ」
「何を言っているんだ」Xは思わず割って入った。
「俺は本気でお前を殺そうとしたんだぞ。それなのに俺のおかげで死ななかっただと? どう言うことだ」
Φは混乱していた。
「ええ、そうよ。あなたが私を救ったの。意図していないかもしれないけど。あなた、屋上に来てドアを開けたとき、ドアの前に転がってる小石を蹴ってたの覚えてる?私はそのときなぜか感じたの、何かが変わってるって。それが原因であなたは私を殺せなかったの」
「意味がわからない。何を言っているんだ」
Φは呆れたようにいかがわしいと言うような目つきでXを捕らえた。
「さあね」と爽やかにΦを一蹴した。
「私にもわかんないわ。でも私はそう信じてる」
まあとにかく、とXはふっと息を吐き出した。
「私はあなたのおかげで死ななかった。それでいいじゃない」
Φは腑に落ちなかった。Xは昔からこんなとこがあった。全く意味はわからないが、なぜか自信を持っていて自分よりも上の位置から世界を見下ろしているような感じがして、快くは受け止めきれなかった。
「まあお前がいいと言うなら俺も何も言わないよ」と諦めた。
良かった、と彼女の口元が緩んだように見えた。
「それでね」Xは真顔に戻っていた。
「それから数年はあなたのことをすごく想っていたけど、もう今は大丈夫。あなたとは普通の感情で接することができるの。なんだろね、あなた、死にたがってる気がして」
Φは一瞬で自分の血液が冷たくなったかと錯覚を起こした。
「なわけ」声が震えた。
「気のせいなんだろうけどね。でも、そんな気がした。でね、私は近い将来死んでしまう人と一緒にはいられないなあ、ってそのとき悟ったの。そう悟ってからはあなたへの想いが薄まっていくのを楽しんだわ。そのゲージがゼロになった時は一つ楽しみが減ったことに少し悲しんだけど。まあ、あなたへの想いは全部消えちゃったから私に怯えなくてもいいんだよ」
「まっじで怯えたことねえし」Φは自分に嘘をついた。
「そっ。だから前みたいにさ、楽しくやろ?もう元カノ、元カレの関係じゃなくて、前のシェアハウス仲間にさ」
「あ、ああ」
面白いことにΦは今Xに舵を握られていることに気づいていない。むしろ自らの船酔いゲボしか清掃できない1クルーだ。
「今日さ、これを話しに来たんだけどさ。なかなか話すタイミング見つからなくてさ。全然緊張することないんだけどさ」
XはしっかりとΦの目を見つめた。
「また4人で一緒に生活してみない?」
Φは心が揺さぶられた。
思い出が蘇る。4人で夜中まで鍋を囲んで鍋を罵倒した日。4人で浄水ストローを使って足湯のお湯を飲み干した日。わら人形に大豆を詰めて納豆を作った日々。自分にとって唯一楽しい日々だった。戻るには理由がありすぎる。
だが、今のΦにとって『この世の中の全ては無である』という第一原理がある。要するに、早く現世から離れなければならないのだ。提案された生活はこの妨げにしかならない。さらにそれが楽しければ現世を離れることに未練を感じてしまうのだ。Φは前頭葉を取り外した時のように唸った。
「ごめん、少し考えさせてくれ。今答えを出せない」
わかった、とΦをなだめるように音を発した。
「いつまでとは言わないから、考えてみて」
そう話してから無言のまま、2人は公園を離れ、暗くなった家路へと向かった。