上昇と偏微分
この世の全ての意味は無である。Φは次世界に希望を抱きながら絶望して生きていた。そんなある日、自分が殺したはずの元カノXと再会する。Xの提案で昔の友人ZとNの4人でシェアハウスを始める。楽しい日常により現世に光を取り戻していたΦだったが、占い師デルの登場で4人の幸せな時間が壊れ始める。神とは、世界とは、人間(の秘めた可能性)とは何なのかを漫才・コントなどを交えながら突き詰めていく。
このカーテンは遮光というものを理解せずに名乗っているに違いない。理解もせず叶えもしないマニフェストを掲げながら宣伝カーで私に手を振ってきた。つられて手を振り返した私こそ一番のばかだったな。ぼーっとした頭で思いながらXは風に抵抗を見せる気配のない布切れを見つめていた。昨晩寝付けず寝不足なXの目をこんな明け方にこじ開けさせたのは鳥のさえずりだったが、今はカーテンに心をなびかせていた。
4分か5分か6分してベッドから起き上がり、床と天井をくっつけようと両手を上げ背筋を伸ばした。寝不足だが心地よい朝だ。こういう日はどこかに行くに限る。どこに行くか思いを巡らせながらふと二段になっている下のベッドを見る。Zはいなかった。
水を飲もうとリビングに入ったXには、ソファに横たわる人影が目に入った。Φがいる。部屋着ではない外出用の服を着て。目をつぶっている。Xは近づいた。Φの寝息が聞こえる。相当疲れているのだろう。Xの足音には気づく様子もないほどに熟睡している。
Xは自分の部屋に戻り自分のベッドから薄い布きれのタオルケットを持ち出してからΦの体にかけた。
それから数時間後、Φは顔に違和感を感じてまぶたを開いた。何かが顔全体を覆っている。恐怖に駆られる。すぐさま状態を起こし立ち上がる。
「ああ!」
大きな声に振り向く。
Nが顔をしかめてΦを見ている。視界が狭い。なぜだろう。
「もう少しで新記録出すところだったのに!」
なお大声でふて腐れるNにΦは目を丸くした。どういうことだ? 手を顔の方に持っていく。皮膚ではない何かが手に触れる。触っても何かわからない。視界を制限される中、手探りで壁を伝い洗面所へ向かった。鏡をみるとΦは赤と紫と黒で彩られたカラフルなお面を被っていた。変面か? 中国の伝統芸能の? Nが後ろから声を掛ける。
「毎回12枚でΦ起きるんだよね〜」
毎回? 12枚? どういうことだ? 俺が寝ている間に俺の顔を使ってわざわざ変面をやって遊んでいるのか? しかも12枚。多くないか? 全部で何枚するつもりだったんだよ。Nの顔を見る。Nはキョトンとしている。
というかこれは早技を観客に見せるものであって観客がいない中何が楽しくてやっているんだ? そもそも人の顔で変面するってどういうことだ? Nにはついていけない。
「あ、ごめんね〜。お面、取ってあげる」
そういうとNはΦの顔に手をかざすとすかさず手を横に振った。次にΦが鏡越しに見たのはΦのいつもの顔だった。早技すぎて見逃した。なんでこんな技術を持っているんだ。
もはや恐ろしい。
「あ〜あ〜、もうちょっとだったのになあ」
Nがぶつぶつ言いながらその場を離れていく。Φはその場で水を出し顔を擦った。お面はとってもらったが変に顔に違和感が残っていた。水洗いするがその感覚は取れないままだ。仕方なくタオルを戸棚から引っ張り出し顔をうずめて拭いていると誰かに肩を叩かれた。顔を上げるとXがいた。何してんの、と呟かれ、早く出る準備して、とぶっきらぼうに言われる。
「え、何が?」ΦはXの顔をまじまじと見た。
「Nから聞いてないの? ピクニック行くよ。早く」
そういうとXは洗面所を去った。
Φはそう言われたことで思い出した。昨晩デルを殺したこと。心臓が暴れ出す。逃げる必要がある。そう思うと一目散に自分の部屋に行き、古びたボストンバッグにどんな服を入れているのかわからないまま服を詰め出した。残りあと3着ほど入るかというぐらいぎゅうぎゅうに詰めたことで我に返った。今自分が逃げてしまいデルの死体が発見されれば、自分が犯人と言っていることになる。現代の警察は優秀だし、加えてそこらじゅうに監視カメラがあるから例え今逃げたとして逃亡罪のトッピング付きですぐ捕まるだろう。
それにNやXにだって迷惑がかかる。Φはパンパンになったボストンバッグを床に投げた。自分のしたことは自分で責任を取るしかない。自分のしたことに後悔はない。もし捕まるのであれば、今みんなとの楽しい時間を共有した方が思い出になる。またボストンバッグを手に取る。中身を出し、代わりにレジャーシートとNが使うであろう小さな虫取り網と虫籠をクローゼットから取り、バッグに入れ直した。
3人は今シェアハウスから少し離れた場所にいる。山腹を登っている。あたりにはビルや建物もなく畑と木々だけが見え、自然だけが広がっている。シェアハウスからほんの数キロ先にある現在地だが、遠く離れた小さい村に来たような感覚だ。Xがなぜこの場所を知っているのかはわからない。心地いい場所だ。
3人は山を登っていく。高いが急勾配でなく割と緩やかな斜面だ。上を見ると今までの道とは違い木々が生い茂っていて道が見えない。その手前で雑草があまり生えていない空間があった。ここにしましょ、とXがそこに向かう。Φがレジャーシートを敷く。靴を脱ぎ、3人で座った。Xは今朝作ったというサンドウィッチを2人に手渡した。Xはお腹空いていないから、と自分の分をΦに渡した。手際よくラップを剥ぎ、おもむろに口に運ぶ。ごく一般的な見た目で味も特段美味しいわけではなかったが、疲れているせいかΦは咀嚼するたびに力がみなぎるのを感じた。早々にXのサンドウィッチを3つも平らげたNは、虫追っかけてくる、と言ってΦのボストンバッグから虫取り網と虫籠を手に取り、駆け出していった。
レジャーシートの上には2人だけが残った。情緒のないそよ風が2人の間を通っていく。
「なんか久しぶりだね、こういう2人だけの感じ」XがΦの方を振り向いて言った。
Φは咀嚼を止めた。
「うん、そうだな」ΦはよそよそしくもXの方を向いた。
「まだ付き合っていた頃の」
「うん」サンドウィッチを完全に飲み込み、口の中を空にする。
「いろいろ楽しかった。色々あったけどね。Φが消えた時は残念だったな」
「なんかごめん」Φはレジャーシートの模様に目を移す。
「ううん、いいの。こうやってまた再会したんだし」
Φは顔を覗き込まれていることにハッとして顔を上げた。
Xの顔は優しく見える。
「なんか短かったけどみんなと再会してあの時よりもっともっと楽しかった気がする。みんな個性があってみんな光ってた。一緒の空間で寝泊まりしてふざけあって本当にみんなで一つになれたんだと思う」
Φは黙って聞かなくてはいけないと思い、あえて相槌は打たなかった。
「そして私は私以外の誰かに認められて嬉しかった。君たち3人が私をずっと支えてくれた。それはとてつもないことよ。他には真似できない。そんな特別な3人だからこれからも私がどんな時も支えていきたい。特にΦ」
Xの目はしっかりとΦの目を捉えている。Φは受動的でなく自ら見つめ返している。その視線同士は交わりもつれあいながら最終的に一つになった。
「Φには外に出て、色々な人に伝えてほしい。そして私があなたに語ったこと、みんなにも守ってほしいの。私はこれからずっと、いつもあなたたちのそばにいるわ」
Xは立ち上がり前屈みになって手を伸ばした。その手がΦの胸の下のところに触れる。その瞬間、ΦにはXが微笑んだように見えた。
Xはそれから木が生い茂る方へ歩いていく。振り返ることもなく真っ直ぐに。木々の枝や葉がその姿を覆い隠す。姿がだんだんと見えなくなる。自然が彼女を溶かしているようだ。しまいに、その姿は目で確認できなくなっていき、Φを哀愁の境地に取り残したのだった。
しばらくしてΦとNは下山した。なんの言葉を交わすこともなく。
これがΦがXと話した最後の日だった。
深夜2時、男がビルを徘徊する。心地よく寝られる場所はないか探すのだ。男はほとんどここで寝ると決めていた。新しいものの匂いが多少鼻につくが普段とは違い特別な気分にさせてくれるに違いない。このビルはあと数ヶ月で幼稚園や小児科などが入るビルになるらしい。昼間工事現場の連中が話していた。それまでは俺が夜はここを占領してやる。そう小さな野望に浸りながら、いいところはないかとビルの階段を登ってはフロアを回り、気に入らないとまた階段を登り、フロアをうろつく。そういうことを繰り返し、とうとう最上階まで来た。苦しそうに両膝の辺りに手を置きながら必死で息をする。この階は月の光がよく入る。ここは自分を慰めてくれそうだ、そう思いながらフロアの中央まで到達すると、床に紙屑が落ちているのを発見した。ぐしゃぐしゃになっている。興味に引かれ手にとる。誰かの連絡先でも書かれていればいいなと希望を持ちながらその中身を確認する。そこには意味不明な文字が書かれていた。
False: ∂f/∂s(a, b, c, ・・・)
不気味だ、男はなぜか寒気を感じていた。意味はわからないが、気持ちのいいものではない。男はその紙をぐしゃぐしゃに丸めると、元々あった場所に放り投げた。今日は違うところで泊まろう。そう思いながらそのビルを後にした。




