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あの日の約束は、  作者: 香久山瑠色
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あの日の約束は、

 今ではもう、遠い昔のことに思える。

 けれどどれほど薄らいでも、僕が決して忘れてはいけない記憶であり、人物であり、出来事である。──思い出という生易しい言葉は使えない。

 この物語には「死」という終焉がつきまとっているのだから。

 ……医者である自分が、見たくないもの、回避しなければならないもの。けれどいつか必ず目にしてしまうもの。

 仕方のないことだ。医療に従事する以上、全ての命を救えることはない。かつてありとあらゆる生命を救ったとされる医者の原初とされるギリシア神話のアスクレピオスでさえ、己の命を救うことは叶わなかった。以来、人は必ず死ぬ運命にあるのだ。そして、医者という職は最も死に寄り添うものとなった。

 死を恐れてはいけないし、忘れてもいけない。当然、医者である以上、救える命は救うという信念を持っていなければならない。

 当然僕だって、人を救いたいからこの職に就いたのである。今だってその思いは変わっていない。

 それでも……僕が医者になって初めて対面した死というものは、僕の精神を叩き折るには充分なものだった。今は無理矢理前を向いて生きている。そのときの反省もあって。

 病は気からという言葉があるが、その言葉の責任は患者を診る医者にもある。

 つまり、医者が落ち込んでいてはいけないのだ。特に患者の前では。

 医者が落ち込んでいると、患者は不安を抱く。「もしかして、自分の病は治らないんじゃないか」など。その心が、思い込みをもたらし、病を悪化させるケースも少なくはない。

 故に、まずは明るくいなければならない。

 馬鹿みたいに明るい必要はないけれど、冷静でいなければならない。

 人間味をほどよく宿しながら、いつか患者が病院に来なくて済むように。

 それだけを考えていればいい。

 僕はそれを学んだ。学ばせられた。僕の親友によって。

 僕の親友──彼こそが僕が医者を目指そうと思ったきっかけであり、僕が医者となってから、最初に看取った人物である。

 彼の死因は、転落死。

 病院の屋上から、僕の目の前で落ちたのである。

 彼──四宮(しのみや)(やく)は、確か五歳のときに知り合った。

 約は、よくわからない病気にかかっていて、体が丈夫ではなく、いつも青白い顔をしていた。腕にはいつも点滴。そんな、子ども。

 僕はたまたま同じ病室に叔父さんが入院していたので、約と顔を合わせる機会が多かった。当時、僕と同年代の子どもが病院にいるのは珍しく、しばらくぼんやり約の顔を見つめ続けて、失礼だろう、と親に叱られたことがある。

 約はそのときうっすら笑い、大丈夫ですよ、と言った。

 きっかけは親が花瓶の水を取り替えに行ったときのことだ。

 その隙に約が僕に話しかけてきたのである。

「君、名前は?」

「えっ」

 まさか話しかけられるとは思っていなかったので、僕は慌てた。随分と慌てながら「三久島(みくしま)(さえ)」と名乗ったもので……十回近く、言い直しただろうか。約には緊張しすぎだと笑われた。

「僕は四宮約。約っていうのは約束の約って書くんだよ」

 まだ小学生にもなっていない自分が漢字など知る由もなかったが、その説明にはなんとなく感心した。なんとなく深い気がした。

 ベッドのプレートに書かれた「四宮約」の走り書きを見て、無意識に覚えようとぶつくさ彼の名前を繰り返していたらしい。

 くすくすと他意のない笑みを浮かべるのが、約の特徴だった。

 叔父さんが入院している短い期間だけの交流になるかな、と思っていたんだが、叔父さんの容態は芳しくなく、入院期間が何日も何日も延長された。

 なんにも知らない僕は、なんとなくそれが、僕と約を仲良くさせようと神様か何かが導いてくれているのだ、とか思っていた。

 僕は無邪気に約との交流を楽しんだし、約も僕と話すのは楽しそうだった。時々、発作を起こしていたけど。

 辛そうな約を見て、僕は、「将来お医者さんになって約を治してみせる!!」なんて、幼心に一所懸命になって言ったんだっけ。

 約は苦笑いをして、「僕なんかより、叔父さん治してあげなよ」と言っていた。

 全くその通りである。

 そんな朗らかな会話の傍ら、叔父さんの病状は悪化し──当然僕が医者になる間もなく──死んでしまった。

 当時、まだ七歳。小学校に入学して間もない年の出来事だった。

 叔父さんの兄だった父は、陰ながらに涙をこぼしていた。あまり感情を表に出さない父さんが泣いているのは不思議で……同時に胸が痛くなった。

 けれど、死というものを完全に理解していたわけではなく、僕はただ、父さんの悲しみにつられて悲しいと思っていただけだった。

 でも、将来医者になる、という決意は揺らがなかった。

 約は、病院に通っていた間、病院というものがよくわからなくて退屈していた僕の、大切な話し相手で、友達だった。いつの間にか僕は彼を友達と認識していた。

 助けたい、と確かに思っていた。

 僕は、度々、約に会いに行っていた。

 約は空っぽになった隣のベッドを眺めて、苦笑いを浮かべていた。

「また、いなくなっちゃった」

 約はそう呟いた。隣のベッドの人がいなくなるのは、よくあることらしい。退院していく人もいれば──当然、死ぬ人も。

 空っぽになると話し相手がいなくなるのだという。寂しくなるのだという。

「それなら、僕が来るよ」

 僕は、同年代だからすっかり気を許して、そう言った。お父さんとお母さんが心配するよ、と約に言われたが、当時の僕は、有言即実行だったらしく、病院通いをやめようとしなかった。

 それが約のためだと思っていた。自己満足という言葉は、この頃まだ知らなかったから。

「お医者さんになって約を治してみせる。約束」

 そんな、指切りを交わした。

 約は、初めてできた友達で、いつ消えるか知れないくらい儚げで、僕はそんな風に約束を押し付けて、約が消えないように祈りながら、毎日毎日通い続けた。

 まあ、中学生になる頃には忙しくなって、会う頻度は落ちてしまったけれど。

 それでもできる限り、顔を合わせた。

 医者になるために必死で勉強して、高校と大学まで決めていた。中学生にしてはしっかりと進路設計を立てていた。

 僕は本気だったのだ。

 一人の友達を救いたいと。

 一途にあろうとしていた。

 約は初めてできた友達で約の名前は約束の約。だから、約束したら、果たさなきゃ、と。

 頑張って勉強して、医学部のある大学に入って、人の血──擦り傷とは比にならない量──に最初は恐怖を抱いていたけれど、それでも約を救いたいという気持ちは変わらず、医者になるために努力と研鑽を積み重ねてきた。

 採用されたのは、大学病院。僕が入学したのはこの大学病院の登竜門みたいな学校で、もちろん、狙っていたのだ。

 何故ならこの大学病院は原因不明、治療不能の病気について研究しており、患者もそういった類が多い。

 そういった類の患者には、約も含まれていた。

 約を治すために医者になったのだから、約のところに真っ先に行けるように計画を立てて行動するのは、当たり前のことだった。

 主治医にはなれなくても、約の病気の研究を手助けできるかもしれない位置に就きたかったのだ。

 そうして画策と努力を積み重ねた結果、僕は望み通りの配属になったわけである。

 そう決まってから……高校に入ってからは忙しくて全く行けないでいた、約の元に真っ先に報告に向かった。しばらく……10年くらい会っていなかったから、心躍らせていたのだ。

 約はまだ生きていると聞いていたし、約束が果たせるかもしれない、と──僕は喜びでいっぱいだった。

 聞いたらきっと、約も喜んでくれるだろう。

 そう思って、何年かぶりの病室を開ける。

 ──するとそこには以前より肌色が悪く、ひどく窶れた様子で、扉の音にも反応せず、点滴を唯々諾々と受けながら、窓の外をじっと見つめる青年がいた。

 髪はぼさぼさで色が抜けている。一瞬、別人なのか、と思ったが、ベッドのプレートの名前にはしっかり「四宮約」の文字があった。

 それがなければ、あんなに笑い合って子ども時代を共に過ごした友達だと、気づけなかった。

 それくらい、約は変貌していた。

 僕は数十秒、扉の前で呆然と立ち尽くしていた。その間、彼も一切の身動きをしない。まるでその格好で固められた人形であるかのように。

 生気を感じられなかった。時間が止まっているようにすら思えた。

 ぽたり、ぽたり、と落ちていく点滴だけが、時が進んでいるのを証明していた。

「……や、く……」

 ようやく口を動かすことができた。けれどそんな自分の声は喋ることが初めてできたばかりのようなぎこちなさに溢れていた。約が人形ならば、自分は機械にでもなってしまったんじゃないかと思えるほどに。

 あ、あ、と気まずい沈黙の中奇妙な発声練習をして、僕は再び口を開いた。

「約、お久しぶり、僕だよ、覚えてるかな……?」

 恐る恐る放たれた、ありきたりな言葉。

 しばらくじっとしていた彼だが、やがてゆっくりとこちらを振り向く。その顔は、恐ろしいまでに無表情だった。笑顔も怒りも悲しみも、どんな感情もそこには宿っていなかった。ただ、思い出そうとはしているのだろうか、僕を凝視している。

 長い長い沈黙を経て、ようやく約が口を開く。ああ、というのは吐息のような空気に溶けてしまいそうなほど掠れた声。

「さえくん」

 ……覚えていてくれたらしいが、僕の名を呼ぶ彼に声はないに等しかった。辛うじて空気が振動して聞こえるだけのような声だった。

 彼は僕をじい、と見、それからようやく──ほんのり笑った。

 やけに懐かしい、笑顔だった。

「医者になったんだ、おめでとう」

「ありがとう」

 僕も微笑む。

 素直に喜ぶ僕に、約はこんな提案をしてきた。

「お祝いに、僕のお気に入りの場所で話をしよう」

 そう言って約は点滴台にすがりながら、ゆらりと立ち上がった。

 僕は何の訝しみもなく、彼についていった。

 エレベーターに乗り、階段を上り……着いた先の扉の向こうは爽やかな風の吹く屋上だった。

 約はすたすたとフェンスの方に寄っていく。僕の手を引いて。

「見てよ、地面があんなに遠い」

「危ないよ」

 フェンスを覗く彼を引き戻そうとした。フェンスは古びて脆そうだ。錆び付いているし、危ない。

 そう、腕を引こうとしたけれど、

 するり。

「……え」

 思っていたより細かった約の腕が、すり抜ける。

 スローモーションのように流れていく中で、約は告げた。

「君には僕はもう、救えないよ。僕はもう、明日死ぬかもしれないんだから。お医者さんが泣きながら教えてくれた」

「待って!」

 手を伸ばしても約はすり抜けていく。

「大丈夫、自殺か病死かの違い」

 そんな言葉を最期に、彼は。

 *

 あのとき、もっと握りしめることだって、できたはずなのに、僕はそれをしなかった。

 約は僕が死なせたも同然。

 僕に泣く資格なんてない。

 彼を死なせたのは、医者の涙。なら、自分は益々泣いちゃいけない。

 それが僕の真実。

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[良い点] 医者と親友、二つの立場の狭間の葛藤の表現が素晴らしかったです [一言] 約は実際、どう思っていたのでしょうか
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