全部聞こえているから ランベルトside
扉の前から、ルティーナ嬢の気配がする。
そもそも、この場所にたどり着く前から、甘くて華やかな香りが近付いてくるのを感じて、いても立ってもいられなかった。
「う、うう……。緊張しますわ。迷惑かしら、やっぱりやめようかしら」
「――――迷惑なんて、そんなはずないだろう」
扉の向こうから聞こえてくる声は鮮明だ。
俺の耳がもう少し聞こえなかったら、こんなに動揺せずに済むのだろうか。
このまま、聞いていたら、おかしくなってしまいそうだ。
「は、入ったら、笑顔でごきげんよう、というの」
「そうか」
「それから、昨日のお礼をして」
「いや、気にすることはない」
俺が、すでに扉を開けたことに気がつかないのか、ルティーナ嬢のかわいらしい独白は続く。
本当に、無自覚なのに、どうしてこんなにも俺のことを翻弄するのか。
「それから…………」
「まだあるのか?」
「えっ!?」
「すまない。耳がいいもので、扉が閉まっていても聞こえてしまうんだ」
「えっ、あ。それは……」
赤い顔、この程度のことで恥ずかしがるなんて、初対面の行動からは想像もつかない。
会話をするうちに、何かに気がついたのかルティーナ嬢がひどく慌てる。
そう、聞こえているんだ……。とくに君の声は、いつだってハッキリと。
だから、少し自覚してほしい。
このままでは、きっと無理にでも君を連れて帰って、辺境伯の屋敷から一歩だって出したくなくなってしまいそうだから……。
「…………そうか。ところで、明後日にはサーシェス辺境伯領に帰ろうと思う」
「…………え?」
「もともと、用事があったから、他の執務を早めて来たが、もう戻らなくては」
「そ、そんな」
その瞬間、いつも笑顔のルティーナ嬢が、泣きそうに眉を寄せ、瞳を潤ませた。
それだけで、胸が痛んで苦しくて、息ができなくなる。
「……チャンスをいただけませんか?」
「チャンス? それは……」
「私は、ランベルト様の婚約者になりたいのです」
「……それは」
「っ……お友だちとしての私は、どうでしたか?」
友人としてのルティーナ嬢?
友人であろうとなかろうと、必ず守ってみせると柄にもなく神に誓いたくなるほど愛しい。
そして……。
緊張しているのだろうか。ほんの少しつり目がちな子猫のような金色の瞳を大きく開いて、俺を見つめている。
「……かわいい」
「えっ?」
守ると決めた。
だが、サーシェス辺境伯領は、今も一枚岩ではない。王家がそうであるように。
「ルティーナ嬢は、俺とは住む世界が違う。輝いていて、かわいらしいひとだ。……友人になれて光栄だった」
「私、あきらめませんから!!」
ルティーナ嬢の手から、渡されたものすごく分厚い手紙。
ほかにすることがあるのに、読まずにはいられず、読んだあとには、そのことを後悔する。
「可愛すぎる……。それに、どうして毎回、俺なんかと婚約できなかったら、後妻や神殿で祈りの日々を送るなんて選択肢しかないんだ……」
『せめて、思い出にデートしてください』
かわいらしい、ルティーナ嬢らしい筆跡で書かれた一文。
一緒に、買い物をするくらいならいいだろう。その間に、説得すれば。
それは、ただの言い訳だということを、誰よりも俺自身が理解している。
デートは楽しかった。そして、胸が苦しくて仕方がなかった。
そして、ルティーナ嬢によく似た香りの薔薇とベリーのジェラート。
うれしそうに食べるルティーナ嬢と、その香りだけで、何も喉を通らなくなってしまうほどに。