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転生するなら変身ヒーローで!  作者: 東雲藤雲
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第4話 魔道書は用法用量を守って正しく使いましょう。

 とある日の冒険者ギルド、依頼掲示板前。俺は異彩を放つ、その依頼に目を奪われた。


『自宅の掃除:自宅の掃除の手伝いをお願いします』


 シンプルにそれだけ。

 いや、これって冒険者の仕事なのか!?

 冒険者ギルドって、こういうのも取り扱っているのか……。

 仕事期間は1日。

 報酬は……まあ妥当かなという額。日当としては良いだろうが、切った張ったで身を立てている冒険者たちがこれを引き受けるのか甚だ疑問だった。

 一体どんな依頼人なんだろうかと気になる。

「……エレーヌ」

 覚えがあるぞ……。もしかしてあの女魔術師じゃないか?

 変身のときに使う用の変声魔術を作ってくれた、あの。

 依頼書の裏面を見ると、そこに記されていた地図はやはり、女魔術師の家だった。

 となると……片付けるのはあの本の山か。

 いや、うーん、確かにあの量を1人で処理するのは大変だよなぁ……。

 魔術を作ってもらった恩義もあるし……手伝ってもいいかなぁ……。

「アキラ、なに固まってんの?」

「あれ、ナタリーさん」

「依頼決まった?」

「これ行こうかなって」

「ふーん……エレーヌさんかぁ。アキラがまた新しい女を作ろうとしてるわけね……」

 なんて人聞きの悪い!

「新しくないです」

「え、もう関係持ってるの?」

 その質問の本意は如何に。

「少し前に依頼請けたんですよ」

「あー、もう済んでたかな?」

「今のニュアンスに悪意を感じますが」

 うひひひ、なんてからかうような笑みで俺を見る。

 いや、からかわれているんだ。

「アキラ、本当に年上が好きなんだなぁ」

「いえ。そこはラウラさんだけです」

「おいおいおい。ラウラは今いないのにそういうこと言っちゃうの?」

「いないからこそ言えるんです!」

 俺は胸を張って言い張る。

「へたれるねぇ」

「大体俺はラウラさんを好きとかじゃなくて、憧れ的な存在として認識しているんですよ」

「へーえ」

「わかります? そこら辺の機微」

「男はいつだって面倒なことを考えるものよ。

 よくよく考えたら私も年上だけど、じゃあ私のことはどう捉えてるのか言ってみ?」

「ナタリーさんは、姉御ですね」

 即答してやった。

「ほほーう?」

「もうなんかこうしてると、自分の姉のことを思い出すので」

「なんだ、アキラ。姉さんがいるんだ」

「そうです」

 厳密に言うと、俺が死んで死別したので「そうでした」になる。俺は過去形で語っているが……姉ちゃんは死んだ俺をどう処理したのだろうか。やはり過去形で語られるのか。「私には弟がいた」そういうふうに。

「そうかぁ、私を見ると姉の姿を思い出すか」

 しみじみと、でもどこか嬉しさを滲ませながら呟いていた。

 そうは言ってないが、確かにそういう節もある。ナタリーさんの俺に対する傍若無人とも言える扱いは、確かに実の姉を想起させる。

「私もキミを弟のように可愛く思っているよ、ね?」

 なんか恩着せがましいな。わざとやってるな、この人。

「しかしよくわかったよ、アキラがやけに女に対して無遠慮というか、上手にあしらえてる理由が」

 人間一度死んだとなれば、男だ女だのはどうでもよくなる精神だ。死と比べれば、性別など些事も同然。ただし最近は色々と面倒なので、相手への敬意は忘れてはいけない。

「ところで無遠慮って言いました?」

「まあまあ、悪い意味じゃなくて良い意味でね。変な距離感無くて付き合いやすいわよ、私は」

「それはどうも」

「ラウラはどう思ってるか知らないけど」

 それは微妙な問題だ。下着姿を見たり、遠慮無しに身体を、いや、正確に言えば、筋肉をなで回したりしたし。

「まあそう難しい顔するなって。ラウラも憎からずアキラのことを思ってるよ」

「それは冗談ですよね?」

「8割くらい本気だけど。私が見たところ」

「嬉しいやら困るやら」

「何でよ、顔良し身体良し性格良しなのよ?」

「それだけで済む問題じゃないですよ……」

「他に何が欲しいっていうの、欲張りな奴ね」

「そういうのはお互いの気持ちがあって初めてであってですね……」

「あんた年の割にがっつかないよね。私が知ってる同じ年頃の奴なんか、見た目が良けりゃ何でもいいって感じだったけど」

 病気やってからメンタル面では逆に心に余裕が出来たような気もする。自分で言うのもなんだけど、他の同い年の連中よりは苦労してるし。

「見た目だけならナタリーさんだって」

「ほほーう。だけ、と来たか!」

 しまった口が滑った。

 邪悪な笑みを浮かべて、ナタリーさんの右腕が信じられない速度で迫る。

「あががが……!?」

 ア、アイアンクロー!? なんて握力だこの人!

「あああ! この優しさが癖になるぅ!?」

「でしょう?」

 この人やっぱり根っからの武闘派だったんだ!

「何やってるんだナタリー……」

 やって来たのは話の渦中の一人であるラウラさんであった。

「んー? こいつが可愛いこと言うから、可愛がってあげてるとこ」

「ら、ラウラさん、助けてくださっい゛!」

 骨が軋む……!

「ほらナタリー、そろそろ」

「ほいよ」

 解放された反発力で頭蓋骨が開くかと思ったわ。

「気をつけるんだぞアキラ。ナタリーは、簡易だが魔術で筋力を強化するから、そうなれば純粋に力だけで見れば私より強いぞ」

 よろめいた身体を支えてくれるラウラさん。ああ、ほらこういうところですよ、ナタリーさん!

 こうしていともたやすく行使される暴力が、ナタリーさんと実姉とを重ね合わせてしまう。男なんだからこのくらい平気でしょ、と言わんばかりの当然の暴力。

 ナタリーさんに妙に親近感を覚えているのはこのせいなのだ。そして恋愛対象として見ることが出来ないのもこのせい。

「ていうか何ですか魔術で強化って……」

「この人に制御の方法教えてもらったのよ」

 ピッと親指で指し示したのは、エレーヌさんの依頼書。

 ナタリーさんはそのまま依頼書を見て。

「よし、決めた。みんなでこれ行こうか!」

 その依頼書をペリッと剥がして、ナタリーさんが宣言すると、ラウラさんがその依頼書を横からかすめ取った。

「これって……。私は別に構わないが、この人数だと無報酬みたいなものだぞ」

「たまにはいいんじゃない? そしたらその報酬はみんなでぱーっと使っちゃおう」

 軽い発言にラウラさんは、やれやれと言いたげだ。

「ではマルタとマヤにも確認してからな」

 やんちゃな妹を相手にするかのようにラウラさんは言うと、ギルドの外へと行ってしまった。

「やー、さっさと終わらせて一杯やろう!」

「一応確認なんですけど、俺も含まれてるんですよね……」

「そ う だ よ」

 これまで見たことの無い可憐なスマイルでナタリーさんがのたまう。こんな表情も出来るのかと逆に感心してしまった。

 気付けば俺たちが退くのを待つ他の冒険者が列になっていた。依頼書を手にしたナタリーさんと俺は邪魔にならない場所でラウラさんが戻るのを待つことにした。

 なんか最近ソロで活動する機会が減っている気がする……。

 これでは自慢の『変身能力』を楽しめない。

「5人でこれかぁ……」

「なぁに? 不満なの?」

「そういうわけじゃないですけど、飲み代にするにしても、ちょっと足りないんじゃないですか」

「そこはまあ多少の足しにはなるでしょってことで」

「2人とも」

 ラウラさんが残りのメンバーを連れてやってきた。

「マルタもマヤも、ナタリーの提案に異はないそうだ」

 マジかよ。マルタさん辺りが反対するかと思ったのに。

「よーっし。じゃあ手続き済ませてくるわ」

 喜色を浮かべ、ナタリーさんは受付へ向かった。

 それを見送る俺の側に摩耶が来て、小さい声で言う。

「倉田さんも付き合いいいッスね」

「ほぼ強制だよ……」

「お疲れさまでッス」

「君らは外で何をしてたの?」

「石蹴って遊んでました」

 小学生か。

 あいや、でもダークエルフのマルタさんがそんなことをやってたなんて、ちょっと微笑ましいな。グラマラスな美女が子供の遊びに興じるという、ギャップ萌え。

 摩耶は……なんか、うん。似合ってる気がする。違和感ないな。

「オッケー。受理されたよ。早速向かおう」

 パーティというのも悪くないのだが、やはり俺は変身したい……。

「ついでに私の魔術もちょっとメンテしてもらうか」

 その後ナタリーさんの号令で、エレーヌさんの家に向かう。確かこのパーティのリーダーはラウラさんだったよな……。

 道中やいのやいのとやってたらあっという間に目的地に到着した。

 女魔術師エレーヌの館。

 こう言うと雰囲気出るな。ただ掃除しに来ただけなのに。

「エレーヌさーん、冒険者ギルドの者ですけど-」

 ナタリーさんが扉をノックすると、中から何かが崩れるような音がした。

 あれは恐らく仕事が増えた音だ。

「はぁい」

 エレーヌさんのキャラクターを体現しているかのような扉の開き方。

「あら~、ナタリーさんと……。こんなに来て下さったんですね~。ではどうぞ中へ入って下さい~」

「ごめんねー、こんな大勢で押しかけちゃって。エレーヌさんの依頼が終わったらみんなで飲もうって話なんだけど、エレーヌさんも一緒にどう?」

「あらぁ、楽しそうですけど~、ちょっと研究が大詰めでしてぇ。またの機会に誘って下さい~」

「そっか。じゃあサクッと仕事に入らせてもらいましょうかね」

 その言葉を皮切りに、俺たちはぞろぞろとエレーヌ宅に足を踏み入れる。

「うひゃぁ、こりゃまた随分と増えましたね」

「資料を集めてるとどうしても増えちゃうんですよぉ」

 俺が殿で中に入る。

 するとやはり本の一山が崩れているのが見えたが、以前訪問したときに比べれば、足の踏み場がある分、まだマシではないだろうか。さすがにあのあとで片付けはしたようだ。

「じゃあラウラ、指揮よろしく」

「まったく……自分で請けると行っておきながら」

「私にはこういうのは向いてないってわかってるでしょ」

「わかったわかった。それじゃあエレーヌさん、どうすればいいのか教えてもらえますか」

 やりとりがナタリーさんからラウラさんへとバトンタッチされる。

 そうだよな、ナタリーさんはどちらかというと散らかすタイプだと思う。こんなこと口が裂けても言えないけれど。

「それじゃあ組み合わせ決めておきましょうか。アキラは……1人でいい?」

「そうですね。多分力仕事になるでしょうし、大丈夫ですよ」

「よし、わかってるじゃない。じゃあ残りは……」

「私は片付け苦手」

 そう言ったのはマルタさん。

「マヤは?」

 ナタリーさんが問う。

「そうですねぇ……。本の片付けなら問題ないと思います」

「そうするとー……。私とマヤ、ラウラとマルタの組み合わせでいいかな」

 ナタリーさんの提案に異議は出なかった。

 物理的な能力を見れば、間違いなくこの組み合わせでバランスが取れているだろう。ナタリーさんには魔術による筋力強化があり、ラウラさんには持ち前の筋肉が。

「それでは3チームに分かれたようだから、3カ所に分かれよう。まず2階はアキラ。ここ玄関周りにナタリー達、向こうの台所周辺に私とマルタということでいく」

 エレーヌさんと会話をしながらこちらの話も聞いていたようで、ラウラさんが指示を出す。

「オッケー。じゃあ始めましょ」

「じゃあ俺は2階行きますんで」

「2階は何部屋かあるので~、最初に説明します~」

 各チームがそれぞれの持ち場に散る。

 俺はエレーヌさんに付いて2階に上がった。

「それでは~、そこの部屋と向こうの部屋の片付けをお願いしますねぇ。それと、あの部屋は研究室なので~、私がいないときは危険なので絶対に入らないようにしてください~」

 この人が絶対と言うのなら、それは絶対に本当に危険なのだろう。間違って近づかないように気をつけようじゃないか。

「本は著者順で並べて構いませんか?」

「はい~、それでお願いしますぅ。私は研究室にいますので何かあったら声をかけて下さい~」

 エレーヌさんはそう言い残して、件の研究室に入っていってしまった。

「……」

 一抹の不安が残るが、片付けに取りかかるとしようか。まずは手前の部屋から。

 ドアノブを回して扉を開けようとするが、内開きの扉は何かが引っかかってしまっている。

 最初の段階でもうこれか。

 俺は力を込めてゆっくりと扉を押し開けた。すると何か重くて硬い物が崩れる音がした。これは……。

 扉の隙間から中を覗くと案の定、本が散らばっていて、扉の動きを阻害していた。

 まあどうせ片付けるのだから、これ以上崩れても問題あるまい。

 俺は本を傷つけないようにゆっくりと扉を押し開け、どうにか俺1人分、通れるくらいの隙間を作って中に入った。

 本とインクの香りが強く鼻をつく。嫌いな匂いではない。そういえばこの世界では紙は高級品ではないようだ。それにインクの匂いもするということは印刷技術も発達しているらしい。

 どうにか入ったこの部屋は、どうやら寝室らしい。本の置き場と化したベッドがそう語っていた。

 ベッドと、本棚、本棚、本棚。本棚があるというのに何故、床やベッドの上に本が積まれてしまうのか。他の場所もここと同じような状況なら、これを1日で、しかも1人で片付けようだなんて、それはちょっと難しい相談だった。エレーヌさんはどこまで片付くのを想定しているのだろうか。

「はぁ……どうやって進めるかな……」

 まずは乱雑に置かれた本を著者名順に分類して行ってみよう。本棚にしまうのはそのあと一気にやっつけることにする。

 こうして地道な作業が始まったのであった。ビブリオマニアなのだろうかと疑いたくなるが、本のタイトルから察するにそのほとんどが魔術関連のもののようで、似たようなタイトルのものがいくつもあった。

 所持している本でその人の人となりがわかるという話を聞いたことがあるが、エレーヌさんは生涯を魔術に捧げるのだろうか。

 そんなことを考えながら手を動かして本を移動させていく。一見無秩序のように見えた本の山は、背表紙の向きだけは一定しており、著者の確認のために一冊一冊を手に取るということをしなくて良いことだけが救いだった。

「愛の蜜……?」

 魔術とはほど遠そうなタイトルである。そこはかとないエロスを感じ取った俺は扉の前に移動すると、その本を流し読んだ。

 ざっくり内容をまとめると、主人公の魔術師(女)が、ある1人の男を振り向かせようと、魔術を使ってあれやこれやと四苦八苦するラブコメ風味の小説だった。

 くっ、騙された! エロスなんて一欠片もないのになんだってこんなタイトルにしたんだ!

 俺は整理した山に愛の蜜を並べた。

「……」

 ふと思った。エレーヌさんは、これを小説としてではなく、魔術書として捉えてるのではないかと。この本に書かれた魔術を、現実のものにしようとしているのではないかと。フィクションへの挑戦……。

 人の心を好きに出来る魔術なんて危険極まりない。ただの想像に過ぎないが、ちょっと背筋が冷えた。

 余計なことは忘れることにして作業に戻った。

 残ったのは専門書ばかりで、その後特に目を引くものは無く、ようやくベッドが使える状態まで片付け終えた。

 さて、ではあとは本棚に収納すればこの部屋は終わりだ。

 ここまでくれば、もう迷うことはない、著者名を確認しながら本棚にしまい込んでいく。

 やはり本は並んでいる方が気持ちが良い。

 徐々に露見していく床に反して、埋まっていく本棚のスペース。

 ちょっと埃っぽいので、ベッドの向こうの窓を開け放つ。舞い始めた埃が光によって視認できる。

 俺は部屋の扉も開け放った。すると空気に流れが生まれ、滞っていた部屋の空気が外へと流れるのが、埃のおかげで見えた。

 あとで布団も洗うように伝えておこう。

 最後の一冊を本棚にしまう。

「終わりっと」

 まあ1時間くらいだろうか。最初の惨状とは裏腹に案外早く片付いた。あとは軽く部屋の掃除をしたら次の部屋に移ろう。

 研究室、とエレーヌさんが呼んでいた部屋の扉をノックする。

「はぁい」

 玄関を開くときと比べて、えらく静かでスムーズな対応。

 エレーヌさんが扉の隙間から顔を覗かせる。

「床の掃除したいんですけど、掃除の道具ってどこですか?」

「あ、ちょっと待って下さい」

 そう言うと扉を閉めて引っ込んでしまった。研究室と言うからには、その成果や内容が漏れて困ることもあるだろう。

 すぐに出てきたエレーヌさん、

「これを使ってくださぁい」

 そして渡されたのはホウキとちりとり。

「ありがとうございます」

「はぁい」

 ぱたん、と研究室の扉が閉まる。

 俺は渡されたものを持って寝室へ戻る。

「こっちの世界でもちりとりは同じ形なんだなー」

 団扇のような、平べったいシャベルのようなシンプルな形状。材質は金属だろうか。叩くと硬い金属音がする。

「アキラー、終わるー?」

 階下からナタリーさん。

「はーい。2階は大丈夫そうです」

「りょうかーい。もし早めに終わるようなら下も手伝ってー」

「わかりましたー」

 さて、では作業の続きと行きましょうか。

 2部屋目は、まるまる書庫として扱っているようだった。規則的に隙間無く設置された本棚は、図書館の一角を切り取ったような印象を受けた。寝室に比べると本の量は倍くらいあったが、相変わらず不規則なように見えるようで規則的な並びをしているおかげで、少し並び替えるだけで済んだ。

 ささっと本棚を埋めて、掃き掃除をする。この部屋の窓は本棚で閉ざされているようだった。部屋の出入り口を開け放って作業をした。

「終わったー」

 足の踏み場もなかった書庫。なんと言うことでしょう、今ではスムーズに本棚の間を行き来できるようになりました。

 じゃあ1階の手伝いに行くか。

「……やけに静かだな」

 階段を降りると人の気配がない。

「ナタリーさん」

 返事はない。

 少しは片付いてるようだったが、まだ作業の途中だというのが窺える。まだ床に本が積まれていた。

 台所の方も覗いてみると、こちらも誰もいなかった。

 昼飯にでも行ったのか?

 だとしても、ナタリーさんの性格からして黙って言ってしまうだろうか。

「誰かー…………あ」

 嫌だなぁ。

 嫌なものが視界に入る。

 片付けられて空いたスペースに意味深に落ちている一冊の本。……実に嫌な気配がする。

 大体――


  ※


「倉田さん、倉田さん」

 誰かが身体を揺すっている。

「……ん」

 どうやら眠ってしまったようだ。俺は机に突っ伏していた。

「起きたッスか。6限目からずっとッスよ」

「マジ? 今何時?」

「もうすぐ午後の4時です。早く部室行かないと怒られるッスよ」

「あー、やば。すぐ支度する」

「私は先に行ってるッス」

「オッケー」

 特撮・漫画・アニメ研究部。略して特マニ研。俺はそこに所属している。

 俺の通う高校では部活動が必修となっており、実際活動しているかはともかく、各自必ず何かしら部活に所属していなければならない。

 最初帰宅部志望だったのだが、この校則のおかげで部活動をする羽目になってしまった。そして適当に選んだ特マニ研も、初めは幽霊部員として適当に所属しておけばいいという考えで入部したのだが、上級生達がそれを許してくれなかった。おかげで今となっては立派に部員の一角を担っているのだ。

 帰り支度を手早く済ませると、俺は急いで部室へと急いだ。遅くなるとナタリー先輩にどやされてしまう。

 人もまばらな校舎内を駆ける。

 教師がいようものなら注意されそうだが、この世界にはそんなものはいないのだ。



 ちょっと待った。この世界?



 途中、曲がり角で足を滑らせて、それでも急ぐ。

「お疲れ様でーす!」

 部室に駆け込むと先行していた摩耶、それにナタリー先輩とラウラ先輩が先輩が先輩が先輩が先輩が。



 ちょっと待てって。なんで2人が先輩なんだよ。

 うひひ! 細けぇことは気にしなくていいんだよ!



 3年のナタリー先輩とラウラ先輩、そして2年のマルタ先輩がいた。俺を含めて全部で5人、部として認められる最低限の人数で構成された、特マニ研。

「アキラ、おせーよ」

「すいません。ちょっと寝ちゃいました」

「6限目のスタートから寝てたッスよ」

 摩耶が余計な告げ口を言う。

 そんなことを言うと、

「感心しないな、アキラ」

 ラウラ先輩が黙っちゃいない。

「いやぁ、すいません。昨夜面白そうな深夜アニメやっててつい見入っちゃって……」

「まあ部活動的に間違っちゃいないよね」

 助け船を出してくれたのはナタリー先輩だ。

「大丈夫かアキラ、ボーッとして。寝不足で具合でも悪いのか?」

「あ、いえ大丈夫です」

 顔を覗き込んでくるラウラ先輩。美人なのにこういう脇の甘さも校内での人気の高さに拍車をかけている。

 それにしても、校内三大美女といわれる、ラウラ先輩、ナタリー先輩、マルタ先輩が所属しているというのに、この部員の少なさはどういうことだろうか。

「で、アキラ、昨日の夜観たのって何?」

 俺はアニメのタイトルを告げる。

「あー、私は1話で切った」

 ナタリー先輩はややせっかちなきらいがある。

「いや、最初が肝心でしょ。終わり良ければ全てよしなんてのは私は許さないわよ」

 そして若干頑固。

「やっぱり最初のつかみが大事でしょ」

「そう言って最初に力入れすぎて散った作品もいくつかある」

 マルタ先輩が口を挟む。

「放送期間や制作の現場を考えると、その辺りの問題は付いて回るさ。受け手の我々ではどうしようもない」

「いや、ちょっと待って下さい!」

「どうしたアキラ」

「なんて言うかおかしいんですよ! ここにいる全員が俺の通ってた高校の制服を着ていることとか、先輩と後輩の間柄だとか、俺と摩耶が同じクラスだとか!」

 あと何だよ特マニ研って!



 ぐひひ! 抗魔力の高い奴がいるなぁ!



「あ、ほら! 今ここにいない誰かが喋りましたよ!」

「お、おい、アキラ?」

「大丈夫か?」

「アキラがおかしい」

「倉田さん落ち着いて」

 4人が宥めてくるが、俺はへばりついた違和感が気持ち悪くてしょうがなかった。

 なんか違うんだよなぁ……。



 うっひひひ! こいつだけもっと深く飲み込むか!



 あ。また誰か喋った。

「アキラ」

「ラウラ先輩、じゃなくて……ラウラさん」

「すまない、ちょっと遅れてしまった」

「大丈夫ですよ。俺も10分くらい前に来たところですから」

 見慣れた制服とは違う、ラウラさんの私服姿。派手でもなく地味でもない、己という素材をふんだんに生かした服装。大人っぽくて素敵だった。



 いや、ラウラさんは大人なんだから大人っぽくて当たり前だろ。

 ひひひ! またお前か! 本当にどうなってやがる! おとなしくしてろ! いいユメ見ろよな!



「それじゃあ行こうか」

 恥ずかしそうに俺の手を取るラウラさん。俺はそれに応えて握り返す。

「……その、付き合ってるとはいえ、こういうのは恥ずかしいな」



 あ。今のラウラさんっぽい

 ぐへひひひ! あー! くそ! こいつどうなってやがる!

 お前こそなんだ! 人の気持ちを弄びやがって! こうなったら……変身!

 ぐひひ! 抗魔力が爆発的に……増えたぁ!?



 景色が巡り巡ったかと思うと、そこはエレーヌさんの自宅玄関前のフロアだった。

「……ぅ」

「うげ……」

「……」

「……ぬぅ」

 十人十色の反応で、ただし一様に伏せった4人がいた。慌てて変身を解除する。

 俺たちはサークル状に配置され、その中央に一冊の本が落ちていた。俺はそれを取り上げると、急いで2階まで上がり、エレーヌさんがいるであろう研究室の扉をノックした。

 間を置かずエレーヌさんが顔を覗かせる。

「エレーヌさん、この本なんですけど……」

「あっ! それは~!」

 やっぱり心当たりがあるんだな。

「失くしたと思っていた魔道書です~!」

 魔道書!?

「そんな危険なものを簡単に失くさないでくださいよ!?」

 階下では4人が活動し始めていた。だがみんな足下が覚束ない様子だ。

「……もしかして、取り込まれちゃいましたかぁ?」

「ええ、そりゃもうばっちり全員」

「すいませぇん……」

 それはもう申し訳なさそうに目を伏せるエレーヌさん。みんなへ説明してもらうことにする。

「……くそー、なんだってんだ一体」

 頭を押さえながらナタリーさん。

「得も言われぬ多幸感だった……」

 どこか幸せそうな、遠い目をするラウラさん。

「気持ち悪い」

 表情は変わらずマルタさん。

「あー……」

 不機嫌そうな摩耶。

 俺がそうだったように、皆それぞれ幻を見せられていたのだろうか。

「皆さん大丈夫ですか?」

 階段を降りながら声をかける。

「アキラ、私たちどうしちゃったの」

 ナタリーさんは眉間にしわを寄せている。

「それに関してはエレーヌさんから説明があります」

「はい~、大変申し訳ございませんでしたぁ。皆さんは魔道書に取り込まれかけてたんです~」

「あれか……私が見つけたやつ」

 ということは最初に取り込まれたのはナタリーさんだったのか。

「金目のものの気配がしたと思ったら……」

 悔しそうにそんなことを言う。しかしその勘は当たっている気がする。

「それで……もし完全に取り込まれてたらどうなっていたんですか?」

 疲れた顔でラウラさんが問う。

「……本の養分です……」

「…………」

 ラウラさん、ナタリーさん、両名が天を仰いだ。その目は閉じられていて、やりようのない思いを処理しているようだった。

「燃やす」

 ただ1人、闘志を目に宿したマルタさんが本に手をかけた。

「あぁぁああ! 待って下さいぃ! このお詫びは必ずしますからぁ、それだけはぁ!」

「マヤ。魔術」

 大慌てで階段を駆け下りるエレーヌさんを見てもなお、マルタさんの怒りが収まる気配はない。

「ちょ、まっ……気持ち悪いッス」

 幸いなことに、まだ足腰がしっかりしてない摩耶のおかげで、魔道書はエレーヌさんの手の中に収まることとなった。

「ギルドに登録した報酬の他にさらに倍お支払いしますのでぇ! お許しを~!」

 魔道書と言うくらいだから貴重なものだろう。俺はそれの題名を知りたくて、エレーヌさんの懐を覗き込む。今や魔道書を守るために彼女は魔道書を抱え込んでいた。

 しかし見えない。背表紙にも表にも裏にも文字らしきものは確認できなかった。

「その魔道書の名前はなんていうんですか」

「欲望の書、ですぅ……

 シンプルイズベスト――ッ!

 あの制服を着たラウラさん達は俺の欲望が生み出したというわけだ! 絶対知られるわけにはいかねえ!

 ああ、でもブラウスを押し上げていたラウラさんの胸の膨らみは凄かった。……さよなら、ラウラ先輩。

 結局、エレーヌさんの申し出の通り、ギルドへ登録された報酬と、その報酬の倍の追加分を直接得た俺たち。飲み代にしたら十分だろう。

 ちなみに家の片付けの残りは、玄関周りの本の片付けだけで大方片付いた。そうしてみると意外と広い家だった。

 そして全てが終わったところで、ギルドの食事処にやってきて、各々の注文が終わったところである。

「魔道書なんて初めて見たよ、私」

 提供を待ちながら、思い出したようにナタリーさんが呟いた。

「確かにそうだな」

 もはや恒例となった席順で、俺の隣のラウラさんが同意した。

「それにしても厄介な物もあるもんですね。魔道書って他にもあるんですよね?」

「魔道書は珍しいものだけど、特別珍しいものでもない。だから運が悪くなければ、見るだけなら簡単。今日みたいに……。規模の大きい図書館によっては展示しているところもあるくらい」

 マルタさんがそう教えてくれた。へえ、魔道書の展示か……。

 そしてこうも続けた。

「あれはまだ緩い方。もっと歴史を積んだ魔道書だったら、私たちはもっと簡単に死んでいたかもしれない」

 なんと恐ろしい……。

「ところでみんな、どんな幻を見た?」

 ナタリーさんの発言に場が凍り付いた。

「……え。そんなヤバかったの、みんな?」

 順繰りに視線で問うてくる。

 俺も人には言えない内容だ。世界観的にも、尊厳的にも。

「ナタリー。この話は止めだ」

 えらく真剣な表情で、ラウラさんが年長者の威厳を見せた。

「お、おお……わかった」

 さすがのナタリーさんも触れてはいけない何かを感じ取ったのか、身を引いた。

「あの」

 おずおずと俺は質問する。

「魔道書で死ぬ、というのは一体どういう原理なんでしょうか」

 ナタリーさんを見る。するとナタリーさんがラウラさんを見、ラウラさんはマルタさんに視線を送った。

 するとマルタさんが語ってくれたのはこういうことだった。

「今回の魔道書がそうだったように、魔力を高めるために人を取り込んで栄養とするものが存在する。魔道書は生きた本と言っても間違いではない。対抗するには魔力には魔力――魔道書は魔力を源にして生きて行動しているから――、それを上回る魔力や抗魔力があればいい。

 ……ちなみに魔道書の中には益をもたらすものも存在するから、魔道書は高値で取引される傾向にある。だけど今回みたいに死ぬ可能性が高いから、よほど腕のある魔術師以外は手を出さない」

 今回の件は見事な事故としか言い様がない。

 普通の本の中に魔道書が混ざっているなんて、初見殺しもいいところだ。

 幸い今回は変身の能力値アップのおかげで助かったみたいだが……。

「ま、慰謝料ももらったし良しとしようじゃない」

 さっぱりとナタリーさん。至極ご満悦の様子だが、危うく死ぬかもしれない状況に持ち込まれて、それでいいのか……? まあ仕事柄、死に対する感覚の抱き方が違うのかもしれないが。

「お待ちー」

 そこへヘルミーネさんがジョッキ5つを軽々と運んで来た。中身は俺だけがシセラで、他の4人は同じものを頼んでいる。

 目の前に置かれたジョッキを各人に配していく。

「それじゃあ、死と隣り合わせの日々にかんぱーい!」

 それは献杯なのでは。

 しかし異を唱えるものはおらず、派手に乾杯は執り行われた。

 しかしだ。

 魔道書の幻の中のみんなの女子高生姿は実によろしかった。ラウラさんは、強いて言えば女教師役で現れて欲しかったところだけれども、制服も大変良きものだった。……死ななければあのような欲望まみれの――ん?

 欲望まみれ。

 欲望の書。

 欲望。

 欲望!

 あれはまさか俺が望んだ桃源郷だったのか!? 人の欲望を形にして具現化させて、そうして骨抜きにする魔道書……!

 ヤッバい、ちょ、もう一回体験したい……。夢のような日々を過ごしたい! このメンツで学園ラブコメなんておいおい、ハーレムまっしぐらだわ。

「どうしたアキラ、難しい顔をして」

 えっ。欲望にまみれたことを考えていたのに、顔に出なかったのか。

「いえ、なんでもないです。みんな無事で良かったですよね」

「そ、そうだな……」

 なんだ? ラウラさん目が泳いでるぞ。もう酔ったのか?

「しかし思い返すと幸せな夢の中にいるようなひとときだったよ」

 ジョッキから口を離してナタリーさんが呟く。

「私もそう思う」

「……実は私もッス」

 マルタさん、摩耶、と続く。

 みんな解放された直後はヘロヘロで、一様に苦虫をかみつぶしたかのような面持ちだったのに。

「ラウラは?」

 多分それは他意のない、何気ない質問だったのだろうが、ラウラさんが見せた反応は想像以上の狼狽だった。

「いや、私は……。……私も悪くはなかった」

 何故照れているのだ。他人に話すことの出来ないような欲望の塊を見せられたのだろうか。

「はーん……」

 邪悪な笑みを浮かべるナタリーさん。

「大方アキラ相手に、人に言えないようなことをしたんだろ」

「おまっ、ちょっとは言葉を選べ!」

「間違ってないってことだな」

「いや、違うぞアキラ! あくまでもこう清い関係で、2人で出かけたり遊んだりしてだな……」

 デートですねそれ。

 朧気ながら、俺も最後の方はそんな幻を見せられていた気がする。

「私はともかく、ナタリーこそどんなものを見せられたんだ」

「私? 私は……幸せな結婚生活を送っていた」

 はぁ、と届かない幻想を思うその表情は、うっとりして、漏らした吐息は物憂げだった。

「……あれでいてナタリーは結婚願望が強いのだ」

 ラウラさんが小声で教えてくれた。ちょっと意外な真実だ。ナタリーさんはどこか、これからも冒険者としてガツガツ活躍しそうなイメージだった。だがそのガツガツ感が結婚を遠ざけている気がしないでもない。

「摩耶は?」

「えっ」

「あ、すまん。なんかデリケートな問題だったかな」

「いや、まあ……そうですね。他の皆さんはともかく、倉田さんには話が通じてしまいそうなので、黙秘します」

 人の欲望を覗き込むのは不躾だろうが、酒の席では良い話題になってしまっている。

「ところでマルタさん、魔道書って他にどんなものがあるんですか?」

「アキラ、魔道書に興味があるの?」

「そうですね……マジックアイテムとしてはオーソドックスなものですから、気になります」

「魔道書と一言に言ってもこの世にどれだけあるかは判明してない。なぜなら今この瞬間にも魔道書は生まれている」

「それは誰かしらが作り出しているってことですか?」

「そういうこともあるし、勝手に本が魔力を帯びて変質することもある。ちなみに、魔道書の最高峰は『アル・アジフ』、別名『ネクロノミコン』と呼ばれるもの」

 ネクロノミコン! いろんなゲームで登場するアイテムの1つだ。そしてクトゥルフ神話では欠かせない要素の1つ。それが実在している!?

「原本は王立国会図書館の禁書庫に保管されてる」

 しかも原本が現存している! ……この世界、ただの中世ファンタジー風ではないぞ。

「それじゃ簡単に見られるものじゃないですよね」

「そう。読んだら正気を失うと言われている。この世ならざる現象が書き連ねられているとされる」

「マルタさんは読んだことは?」

「ない。頼まれても読みたくない。それに簡単に閲覧できるものでもないから。私たちの知る中でもし閲覧できる者がいるとしたら、エレーヌくらい」

 エレーヌさんが? あの人そんな凄い人なの?

 俺が納得いかない表情をしていると、補足するようにナタリーさんが引き継いだ。

「エレーヌさんはあれでも、次元の魔女と呼ばれるくらい、魔法に一番近い魔術師なんだよ」

 魔法。それはこの世界で魔術を大幅に上回る奇跡を具現化する現象。

 俺はそんな人にたかだか声を変えるだけの魔術を作らせてしまったのか……。なんだか申し訳ないというか恥ずかしいぞ。

「で? 幻の中でアキラとなにしたんだよ」

「べっ、別にアキラが相手だとは限らないだろ!」

 俺と摩耶がマルタさんの話に感心している横で、まだ『欲望の書』の話を続けていた。

「じゃあアキラじゃない誰かってことだから……」

「い、いや、待て…………アキラだ」

 言い淀んだラウラさんは結局少しの溜めを作って俺の名前を挙げた。そんな素直に言わなくてもいいのにと思う。

「最初から変な意地張らないで素直になりなさいよ」

「そんなこと恥ずかしくて言えるかぁ……!」

「え、なに? そんな恥ずかしいことを? え?」

 ナタリーさんの追求は止まらない。完全に楽しんでいる。

「い、いや違うぞ! ナタリーが想像してるようなことじゃない! ……その手を繋いだり、キスをしたり……」

 俺と?

 止めてくれラウラさん。その話は俺にも飛び火しそうだ。

「それでどうだった? 手を繋いでキスした感想は」

「え……それは……その、嬉しかったというか」

 もじもじと小さい声で恥ずかしながら言うその姿は純朴な女子中学生か何かと錯覚させられてしまう。

「ラウラさん、それはもう倉田さんに告白しているようなものですよ」

「えっ、あっ!?」

 ラウラさんが俺をまじまじと見つめる。……かける言葉はない。生温かい視線を送るだけだ。

「ちがっ、違う! あくまでも幻であって、私の望んだことではない!」

 いや。あれは、人の持つ欲望を具現化する魔道書のはず。見るものは幻だが、見た者の記憶や経験を元に構築されているに違いない。そうでなくては、俺が制服を着て学生をやり直すなんて幻は生まれ得ないのだ。

「ラウラさん……」

 俺は優しくラウラさんの肩に手を置いた。

「アキラ……わかってくれるか」

 味方を見つけたような目で見られても困るんだなぁ。

 魔道書の見せる幻は、寝るときに見る夢と一緒。それが各々が持つ欲望に特化されているだけなのだ。

 ラウラさん、いつかその願い、叶えてあげられればボクも男として人として成長できる気がします。でも今はまだ半信半疑なので、お互いそっとしておきましょう。

 俺はジョッキに口を付けた。

 放課後の部活か……俺の欲望は学生生活を過ごすことだったのか……。

「ぷふぉっ」

 不意に蘇る、制服姿のナタリーさんとラウラさん。

 背徳感を抱く光景だったような……。

「アキラ、お前人の顔を見て笑うとはどういう了見だ」

 中でも特にナタリーさんの制服姿は、なんというか……ギャル以外の何物でもなかった。

「違います違います。むせただけですから!」

 意外性がないのが本当に、もうなんて言うか……。 逆にラウラさんの優等生然とした出で立ちも、らしいっちゃらしい。

 いや、俺の欲望が盛り込まれてると考えるなら、2人に対して抱いている無意識なイメージが、ああいうものなのだろう。

 でもしょうがない。普段の2人を見てたらそうなるさ。しかしナタリーさんの先輩感……強いな。ギャル系の先輩。

「アキラはどうやら、随分と良いユメを見させてもらったみたいだなぁ」

「えっ、いや、多分みんなとそう大差ないですよ」

 顔に出てたか? それとも目線で語ってしまったのか?

 ニンマリと、ナタリーさんは獲物を見つけたかのように、笑む。そんな顔をされても、話せることなんて無いんです、ナタリーさん。

「ほれ話してみぃ」

「いや、本当にもう、ほんと……」

「恥ずかしいのか? 恥ずかしいのか? ん?」

「そうです。ラウラさんと違って、人には話せないほどの内容でした」

「なっ!? 私だって話せるような内容じゃなかったぞ!?」

「そうでもないよ?」

「そうでもない。そうでもない」

 ラウラさんの抗議はナタリーさんとマルタさんに瞬殺されていた。

「私はラウラさんの幻はアリかなーと思いました」

 摩耶は謎のフォローをするが、今はそういうことではない。

「ふと思ったんですけど、このメンツって他の男性同業者から声かけられたりしないんですか?」

 ナタリーさんはちょっと強引だけど、快活な美人だし、ラウラさんなんて筋肉はあるけど、王道美人だし、マルタさんなんてダークエルフの魅力満載だ。

「倉田さんそれは……」

 摩耶が引きつった顔で俺を見る。……触れてはならない話題だったのか。

「最初だから、許してやる。

 自分達で言うのも何だが、これでも私らは名うての冒険者だ。それに臆してここの男どもは、私たちに畏敬の念を抱いている」

 畏敬って。恐れられてんのか。自分で言う?

 ……いやでもその方々の気持ちもわからんでもない。俺もこうしている卓を囲んでいるが、摩耶がいなかったらこの人たちと関わることはなかっただろう。

 しかし今の言い草だと、ナタリーさんはそういうアプローチを待っているようなニュアンスが取れる。

 ナタリーさんの性格を思うと、彼女自身から積極的に行きそうなものだが……。ああ、それも加味しての畏敬の念が邪魔しているのか。

 ただの美人じゃないものな。

「下手すりゃそこらの男なんて目じゃないもんなぁ」

「おい。アキラ、聞き捨てならないね」

 しまった。口が滑る。

「アキラ、気をつけろ。何度も言うが、ナタリーは結婚願望が強いから……」

「はいそこ! 余計なことは言わないでよろしい!」

「試しに俺が言い寄ったらどう思います」

「なっ……」

 隣でラウラさんがショックを受けているようだが、この人は本気で俺に好意を寄せているのだろうか。

「すまん、アキラ。私は私より強い男しか興味が無い」

 冗談だったのだが、そうマジで即答されると、これはこれでショック。しかしその理由は男を遠ざけるばかりでは?

 そういえばナタリーさんの強さを俺は知らない。あのダンジョンでのグレーターデーモン戦でも、俺がある程度弱らせた状態でトドメを刺したわけだし。

 確かに変身しない俺はろくな活躍をしていないわけだから、ナタリーさんの認識はさっき述べたものだろう。正直、アイアンクローの威力を考えると、素の状態の俺は、ナタリーさんには敵うまい。それは戦闘技術をとっても歴然だろう。

「私は……その今のアキラでも、問題ないぞ」

 そういうラウラさんの顔は酒に染まって赤くなっていた。彼女がこう積極的になるのは、決まって酒に酔っている状態だ。いじられて悶絶する割には、変なところで強気なのである。

 素直に好意を寄せられるのは気分の悪いものではないが、酔っ払いの戯れ言として受け取っておこう。素面の状態で言い寄られるのであれば、俺もその気になってしまうかもしれないけれど。

「……」

 他のみんながわやくちゃやってくれている間、俺はまた魔道書のことを考えていた。


 ――欲望の書。


 それほど強力な魔道書ではないが、人を幻で惑わし、やがて魔道書の糧にしてしまう。

 俺は少し思うところがあった。


  ※


 翌日、俺はエレーヌさんの家を訪ねていた。

「あの魔道書を、ですかぁ……」

「俺が取り込まれたとき、それほど危険性は感じなかったので、使わせて貰えないかなと思いまして」

「危険性は低くても魔道書は魔道書ですからねぇ。……うーん貸すのは吝かではないですがぁ、あくまでも自己責任という形なら構いませんけどぉ。死んでも責任は取れませんよぉ」

「そこらは覚悟しています。それに俺はどうやら抗魔力がそこそこあるみたいなので、そこまで心配はいらないですよ」

 いざとなったら変身して能力値の底上げをすれば、魔道書の束縛から解放される。これは前回取り込まれたときに確認している。

「そこまで言うのでしたらぁ……今持ってきますねぇ」

 ほくそ笑む。このあとの展開を考えると楽しみでしょうがない。

「お待たせしましたぁ」

「ケケケ! 覚えのある魔力じゃねえか!」

 エレーヌさんが階段を降りてくると、不快感を抱く一歩手前のような、喋り声が聞こえた。金属同士が擦れ合うような、居心地悪くなる音に近い。

「ケケケ! 何だ!? こいつかよ!」

 魔道書を大切そうに胸に抱くエレーヌさん。いつもと違う口調を装っているのだろうか。

「腹話術か何かですか?」

「いえ~、この魔道書の精霊ですぅ」

 するとポム、と彼女の胸元辺りに、てるてる坊主のような形に似た、黒紫の人型が浮かび出る。

 フワフワと浮かぶそれは可愛げがあると言えばあるが、黒っぽいカラーリングがそうとは思わせてくれない。人を養分とする魔道書の精霊としては、らしいと言えばらしい。

「なんと……魔道書って一体何なんですか……」

「魔術師にとってはぁ、使い勝手のいい魔道具の一つですねぇ」

「うひひひ! 好き勝手言いやがって!」

「この魔道書借りると、これも付いてくるんですか」

「そうですねぇ、精霊ですからぁ」

 うーん、いらないなぁ。

「ひひひ! おめえ、今いらねえって思っただろ! 俺がいなきゃこの魔道書はろくに機能もしねえってのによ!」

「本当ですか?」

「本当ですぅ。この魔道書、私が作ったものなんですけど、制御するのがどうしても上手くいかなくて……。それで人工精霊を付与してみたらぁ、ご覧の通りですぅ」

 それでは、借りている間、この喧しそうなちんちくりんと一緒に過ごすのか。

「あれ? でも昨日は暴走みたいなことになってませんでした?」

「あのぅ、それはぁ……」

 歯切れの悪いエレーヌさんの目が泳ぐ。

「本当は定期的に魔力を与えないといけないんですけどぉ、すっかり忘れてぇ……なので皆さんを取り込んで養分にしようとしてたんだと思いますぅ」

「…………」

「あ、ああぁ!? 言いたいことは重々承知していますからぁ! 申し訳ありませぇん! そんな目で見ないで下さいぃ!」

 この片付けの出来ない女魔術師のせいで、我々5人は命を落としかけたわけだ。

「わかりました。では昨日の件はここだけの話ということにしておきましょう。その代わり魔道書を貸して下さい」

「せめてこの家で使ってくれればぁ、いざというときに助けに入れるんですけどぉ」

「いえ。数日も女性の家に入り浸るなんて、変な噂が立ちますよ」

「ちょっと待ってくださぁい! 一体何をしようとしてるんですかぁ!?」

「欲望の書。その名の通りの使い方です」

 俺は真剣な目で言う。

「とりあえず5日、お借りします。もし5日以内に返しに来なければ、俺は宿屋にいますから、魔道書は回収していって下さい」

「その言い方ですとまるで死ぬ気に聞こえます~!」

 死ぬ気は無い、が。死んでも構わないとは思っている。頼むぞ、『欲望の書』よ。俺に……いい夢を見せてくれ。

 おずおずと魔道書を差し出すエレーヌさん。

 俺は一つ頷いて、魔道書を受け取った。

「くれぐれも無茶はしないでくださぁい」

「善処します! では!」

 俺は踵を返すと宿屋へ急いだ。

 楽しみで、駆ける足がもつれそうになる。

 そうやって急いで、宿屋に着く頃には息も絶え絶え、女将さんから心配される始末だった。

 俺は5日間分の料金をまとめて払うと、急いで部屋へと向かった。魔道書はなるべく人の目に触れないように抱きかかえるようにしていた。

「うひゃひゃひゃ! おいおい! 楽しみなのはわかるがよ! ちっとは落ち着けって!」

 精霊も自覚はあるのか、部屋に駆け込み扉を閉めた途端、その口を開く。姿は見せなかった。

「本のくせによく喋るなぁ……。ところでどこに設置すればいい?」

「うけけけ! いいユメ見たいんだろ!? じゃあ枕の下にでも置いておけばいいんじゃないか?」

 なるほど。俺は精霊の言葉に従って枕の下に魔道書を滑り込ませた。

 これであとは魔道書次第だ。

「俺は布団で寝るから、頼むぞ。精霊」

「うひひひ! まさかエレーヌの他に同じことする酔狂な奴がいるとは思わなかったぜ」

 なぬ。エレーヌさんも同じようなことをしたというのか。となれば正規の使い方となるわけか。

 まあいい。今はエレーヌさんより自分のことだ。

 俺はベッドに横になった。

「それじゃあ、いいユメ見られるといいな! うひ、ひひひ!」


  ※


 夕焼け。

 教室は赤く染まっていた。

「来た……」

 前回と違って意識ははっきりとしている。ここが『欲望の書』の作り出した空間だと確かに認識できた。

「あー、倉田さん、なにやってるんですか。もう先輩達待ってるッスよ」

 摩耶が教室の出入り口から入ってくる。

 俺の通っていた高校の制服を身につけているという、現実ではあり得ないシチュエーション。

「先輩って、ラウラ先輩たち?」

「そッスよ。うちら弱小部なんですから他に誰がいるんですか」

「……ごめんごめん。すぐ準備するから先行ってて」

「ういッス」

 どうやら設定は前回と同じようだ。また制服姿のラウラさん達を拝めるという期待に、俺のテンションは俄に高くなる。

 ラウラさん、ナタリーさん、マルタさんの順に、優等生、ギャル、クール系。

 何も俺は制服フェチだということではなく、ただ単にいつもと違うシチュエーションやコスチュームに胸を高鳴らせているだけなのだ。

 現実では慣れるほど通えなかった高校の校舎だが、夢の中では違った。迷うことなく部室へと辿り着く。

 どうやら記憶の補完が行われているようで、それは俺が通った小学校・中学校・高校のそれぞれの校舎の記憶をない交ぜにしているようだ。

 部室の扉にはガラス部分に、「特マニ研」と張り紙が貼られていた。

「失礼しまっす」

 がららと音を立てて開く扉。

 どうやら使われていない空き教室のようだ。色々な、備品と見られる物体が混沌と設置され、空いた壁には、目にしたことのある気がする、映画のポスターが所狭しと貼られていた。

「おつかれー」

 出た。ギャルっぽいナタリーさん。

「お疲れ、アキラ」

 優等生のラウラさん。

「ん」

 手を上げて挨拶するクール系のマルタさん。

 よし、今のところ思った通りの幻だ。ナイス精霊!「じゃあ、全員揃ったところで文化祭の出し物決めといこうか。ラウラ、書くのお願いね」

「わかった」

 ラウラさんは黒板の前に移動すると、綺麗な字で「出し物候補」と書いた。

「倉田さん、なんか考えてきました?」

「いや……全然」

 そんな決め事するのなんて今初めて知ったからな。「この人数だと出来ることなんて限られちゃうから、悩むッスよね」

「動画でも作る? ショートムービー」

 机の影に隠れて見えないが、手元で本を広げているらしいマルタさんが提案する。

「楽しそうッスね。うちはきれいどころが集まってるから、下手なもの作らなければ失敗しないッスよ。ちなみにきれいどころに私は含まれないッス」

 腕でバッテンを作って摩耶は身を引くような動きをする。

「ショートムービーかぁ。特マニ的にはありだね」

「じゃあ候補にしておくか」

 チョークの音が響く。

「他に何かあるー?」

「あとは部活の特色考えると、展示系でもいいんじゃないッスか?」

 ラウラさんがチョークを走らせる。

「それもいいね。内容が纏まらなかったら、ラウラの写真展にでもしちゃうのも手だね」

「おい! なんだそれは」

「人望ある生徒会長の写真展とかウケるだろうなぁ」

「ありっちゃありですね、ええ」

「おいアキラ?」

 反射的に賛成の意思を表したら、ラウラさんが厳しい目を向けてくる。なぜ俺だけ。確かにナタリーさんに何か言っても無駄な気もするけれども。

「やっぱりそういう個人を餌にするのは控えるべきかと」

 俺は早々に前言を翻す。

「はーん。やっぱり自分の彼女がみんなにちやほやされるのは嫌かな?」

 カノジョ!? マジ? そういう設定なの?

 あれ、でもこれは俺の欲望が元なのだから、俺が望んだということに……?

「じゃあ生徒会長とアキラのラブロマンス風映画」

「おっ、まさかのノンフィクション映画? いいんじゃないの~」

 マルタさんとナタリーさん、完全にラウラさんをからかっている。

 生徒会長のラウラさん……いいじゃないの。といっても俺の妄想の具現化みたいなものだから、俺の無意識、グッジョブ!

 その後もラウラさんをいじりながら進行した文化祭出し物会議は、大した成果も出さずに、下校時刻を迎えたことで、終了と相成った。

 ラウラさんの写真集という提案が出る辺り、さすがナタリーさんというほかない。

 各々帰り支度を済ませ、全員で校門まで向かうとそれぞれの帰路につくことになった。

 俺はラウラさんを追いかける。途中まで同じ道なのだ。

「ラウラさん」

「アキラ……どうしたんだ?」

「一緒に帰りませんか」

「え、あ、……うん、そうだな」

 嬉しそうに相貌を崩して目を伏せる。なんて可愛いのだろう。俺の妄想と言うことで倍増しくらいにはなっているのかもしれない。

 空いている手を握る。

 ラウラさんは今度は何も言わずに、握り返してくれた。

 そうして2人並んで、分かれ道が来るまで歩いた。

「それでは、アキラ。また明日」

「はい」

 そう口にしたのに、俺たちはまだ手を繋いだままそこに立ち尽くしていた。

「……」

 握る手に力が入る。さすがラウラさんだ。握られた手からくる頼もしさは筋肉の成す技だろう。なんだか抱きしめられているような錯覚を覚える。

「アキラ……」

「ラウラさん」

 やがてどちらともなく手を離し、それぞれの家路についた。

 手のひらに残ったラウラさんの名残。なんて多幸感溢れる瞬間だったろうか。

 俺はやっぱりあの人のことが……。

「クラタさん、気分はどうですか~?」

 おや、急に場面が変わったぞ。

 ここは……保健室か?

「えっと」

「まだダメそうですか~?」

 そう言い、顔を覗いてきたのはエレーヌさんだった。混乱する。とりあえず保健室らしい場所なので、幻の中なのは間違いないはず。

 ということはエレーヌさんが養護教諭だろうか。

「エレーヌ……先生?」

「そうですよ~。クラタさん、授業の途中で倒れちゃったんです~」

 ああ、なんてことだ。幻の中だというのに、あの病はついて回るのか?

「軽い貧血でしたけど~、」

 貧血。病気は関係ないのか。

「どうします? 今日は帰りますかぁ?」

 いやあ、白衣の似合う人だなぁ。現実でも研究者みたいなことしてるらしいから、白衣であることに違和感が全くない。

「……いえ、大丈夫そうなので」

「ちゃんと朝ご飯食べてくださいね~」

 いやしかし、俺の妄想力よ、そう来たか。エレーヌさんを保健室の先生として持ってくるとは、欲望にまみれておるわい。普段そんなに交友関係が濃いわけでもないのに、そんな人まで登場させるなんて恐れ入る。 だが、ある意味ベタなキャスティングに安心感すら覚えてしまう。

「じゃあ私も戻ろうかな」

 隣のベッドも使用中だったようで……、カーテンを景気よく開け放って出てきたのは、ナタリーさんだった。

「先輩、サボりですか」

「違うわよ。体調不良」

 あー、確かにいつもと比べると顔色は良くないかもしれない。いささか白っぽさが目立つ。

「ナタリーさんはどうですかぁ?」

「随分楽になりました。私も戻ります」

「大きな声じゃ言えませんけど~……中途半端な時間ですからぁ、チャイム鳴るまでいても大丈夫ですよ~」

「そうですか? じゃあ私はお言葉に甘えて……」

 ナタリーさんは早かった。あっという間にカーテンを閉めてしまう。

「俺ももう少し寝ます」

「わかりましたぁ、しっかり休んで下さいね~」

 エレーヌ先生がカーテンを閉じてくれた。

 俺は横になって天井を見つめる。するとなんだか懐かしい気持ちになる。

 病院の天井とここの天井は似ているなぁ……と。

「…………」

 柔らかなものに包まれている。

 俺はまた眠っていたようだ。

 目を開けると、景色が変わっていた。保健室ではなく屋外に移動している。

 ああ、そうか、これは夢なんだと再認識する。

「……」

「……」

 何か柔らかいものを枕にして横になっているなという認識はあった。その柔らかいものの持ち主と目が合う。

「起きたか」

「え、はい」

 優しく微笑むその表情はまるで聖女のような慈悲深さを感じさせる。

 俺の癒やし・エロ要員のラウラさんだった。

 いわゆる膝枕の状態で俺は、緑の眩しい草原で横たわっていたのだ。うーん……どういう状況なんだろう。欲望の書の影響なのは間違いないが、この爽やかな光景が俺の欲なのだろうか。

「随分ぐっすり眠っていたな」

「……すいません、寝心地が良くて」

「それは光栄だ」

 優しく頭を撫でられる。

 ああ、なんて幸せな――

<ぐひひ! 幸せなとこ悪いが、ここで終いだぜ!>

 突如として幸福空間をぶち壊す不快感丸出しの声が響いた。

 それが『欲望の書』の精霊の声だと気付いたとき、俺は夢から覚めた。

 最初に感じたのは倦怠感と疲労感。それもとびきりのものだった。

「うひひひ! 悪いがこれ以上続けられねえぞ!」

 精霊の声が響く。

 なんで、どうして。疑問の声を上げるのもおっくうで、それが声に出ることはなかった。

「いいユメ見られただろ!? だけどここでお前の魔力の限界さ!」

 そうかこれがMP切れ……。

「まだまだ続けたいんだったら、体力も魔力も回復してからにするんだな!」

「……お前、そんな優しい性格だったか……?」

 最初のコンタクトでは、魔力切れを起こしかけた『欲望の書』は強制的に、俺を含めた、掃除をしに出向いた5人を幻の中に取り込んでいたはず。

「うひ、うひひ! あのあとエレーヌの奴、俺の疑似人格を矯正しやがったんだぜ! 死人を出さないようにな! ヒトを殺すくらいだったら、俺が消滅した方がいいってよ!」

 なるほどな……。人工的だからこそ、より人に寄り添ったあり方を強制したわけだ。

 でもそれがなければ、俺は確かにまた死んでいたかもしれない。

「う……」

 どうにかこうにか上体を起こすが、だるくて仕方ない。これが俺のMPを消耗した際の症状なのだろう。

 病気で苦しんでいた頃とはまた別の苦しさ。いや、苦しいと言うより、身体が休養を欲しがっているのが痛いほどわかった。

 首を巡らせて、備え付けのカレンダーを見る。

「どのくらい取り込まれてた……?」

「まだ3日だぜ!」

 この乾きと飢えは純粋に不足して、身体が欲しているサインだろう。

 そりゃ3日間も飲まず食わずじゃ、魔力どうのこうの以前に、生物としての危機だ。

 俺はだるい身体を動かして、ベッドからのそりと降りると、なるべくゆっくりと部屋を出た。急に動いたら、その勢いを抑えるだけの体力が残っていない気がしたのだ。

 しんどい……1階の部屋が取れて良かった……。

 俺はフラフラしながら、宿屋併設の食堂へ向かった。ここの食堂はギルドの食事処と違い、静かで空いている。冒険者的には、仕事の合間にそのまま利用できる食事処の方が都合が良い。中にはこちらの食堂の味の方が好きと言って、わざわざ通うものもいるようだ。

 食堂の壁際の隅の席を取った。何かに寄りかかってないとだるくてしょうがない。

 軽めの、胃に負担のかからなそうなものを注文して食事とした。飲み物はさすがにノンアルコールだ。

「はぁ……」

 ようやく人心地付いたようだ。まだ身体はだるいが、起きた直後に比べれば随分とマシになった。

「お、いたいた」

 聞き覚えのある快活な声。ナタリーさんが入り口から顔を覗かせていた。

「よっ」

「ナタリーさんどうしたんですか?」

 どうやら今日は1人らしい。

「どうした、って、アキラがどうなってるかと思って探してたんじゃないの」

「ああ、すいません……」

 魔道書で遊んでたとは言えまい。

「ちょっと体調を崩してしまって」

 まあ、嘘ではない。

「うーん……確かにいつもと比べると顔色悪いね」

 久しぶりに言われた、聞き慣れてしまった言葉――顔色悪い。

 転生前は病気でいつも言われていた言葉だ。

「ラウラが心配してたから、宿屋で休んでるって伝えるけど、大丈夫?」

「はい、問題ないです」

 いつもより柔和な表情のナタリーさん。それほど心配してくれているのだろう。心遣いが身に染みる。……やってることを考えると後ろめたくなるけども。

「でも食事できるくらいには回復したってことかな」

 そういうことにしておこう。

「じゃあ私行くわ。こうして無事な姿も見られたし。まあ無茶すんじゃないよ?」

「はい」

 フリフリと手を振ってナタリーさんは出て行った。「……」

 はてさて、魔道書のレンタル期間はまだあるわけだが、どうしようか。

 未だに身体のだるさは回復していない。幻の中なら関係ないだろうが、しかし現実では別だろう。消耗加減から考えると、今回より早く、幻から醒めるはずだ。

 とりあえずあと1日、魔道書を使って、残りはそれからまた考えよう。

 夢の多幸感は甘く儚く、まるで薬物のような危険性を持っている。それを人為的に任意で再現するというのだから、『欲望の書』は魔道書と呼ぶに相応しい逸品だ。

 残りの料理を片付けて、俺は自室に戻った。

 枕の下の魔道書を手にする。

 装丁に特徴は無い。あえてあげるとすれば、タイトルが書かれていないことだろう。

 本としては、開かないことが一番の特徴である。中に書かれているのは、やはり呪文やそれに等するものか。

 何にせよ、門外漢の俺には理解出来ないことに変わりは無い。

 魔道書を枕の下に戻して、俺はまた横になった。



「じゃあアキラにも訊いてみようじゃない」

 ここは……特マニ研の部室か。残念なことにラウラさんの膝枕からの続きではないようだ。

「どう? アキラ」

 ナタリーさんが何事かを尋ねてくる。はて、前後の話がわからないので答えに困るが、ここは幻の中、何を悩むことがあろうか。

「いいと思います」

「おっ、ほほー!」

「なっ……!?」

 黒板の前にいるラウラさんが思いきり赤面する。

 ああ、あれか? 文化祭の出し物決めの続きからなのか?

「なんと」

 しかしそれにしても他の面々の反応がよくわからない。

「どいてラウラ。私が書くから」

 ナタリーさんがラウラさんの手からチョークをかすめ取る。

「倉田さん、大胆ですね……」

 え? なんなの?

 カッ、カッ、と黒板に書かれていくのは……


 ラウラとアキラのキスシーン。


 ああ、そういうね。ふーん。そう。

「アイヤー……」

 話を聞かないで返事なんかするからこうなる。

「あ、ちょっと待って下さい。やっぱり文化祭の出し物なんで倫理的にどうかと思います」

「吐いた唾を飲むんじゃないよ」

 無慈悲。

「倉田さん倉田さん。人前でも恥ずかしくないほど、チュッチュしてるんですか?」

 言い方ぁ!

「これはスキャンダル。新聞部に売り込める」

 マルタさんのウキウキが手に取るようにわかった。「スキャンダルならダメでしょ!」

「文化祭の出し物なんだからスキャンダルにはならないんじゃない?」

「いや、ほらもう俺じゃなくてナタリーさんが男装とかして……」

「お、おお! アキラ、ナイスアイディアだぞ! それで行こう!」

「ちょっと待って。なんで私が男装することになるわけ? ラウラでもいいんじゃない?」

 俺はキスさえ逃れられればどっちでもいい。

「うわっ! 確かにそうッスよ! 先輩方のどっちが男装しても、歌劇団並に行けると思います!」

 鼻息を荒くしているのは摩耶だ。

「確かに……そっちの方が数字を取れる気がする」

 なんの数字ですか、マルタさん。テレビじゃないんですよ。

「うちの学校の生徒数は女子の比率が高いですから、案外ストレートなラブよりウケるかもしれませんよ」

「ちょ、ちょっとなんで私がそんなことを……」

 変わり始めた流れにナタリーさんが狼狽える。

「そんなことと言ったか。お前は私たちに、それをやらせようとしたのだからな」

 悪童を叱るようなラウラさん。だがラウラさんの状況は変わっていないのである。結局俺とするか、ナタリーさんとするかで揉めているのであって、自分が固定されていることに気が回っていない。

 俺はといえば、もう自分に弾が当たらないように静観している。

 しかし特撮ラブコメ風ショートムービーなんてニッチにも程があるだろう。というかこの人数で作りきれるわけがない。

 まだバンドでもやった方が無難であると思う。

「わかった! キスは無し! 無しでいいから!」

「ナタリーお前、ただ私たちにキスさせたかっただけだろう!?」

「そうだよ。悪い?」

 悪びれもなく言い切りやがった……なんて先輩だ。

「じゃあラブコメは削除で」

 黒板に書かれた「ラブコメ」の文字にバッテンが着けられた。

「しかしだ。ラブも無しにこの学校の連中が興味を示すのか、私はそこが疑問なのよ」

 ナタリーさん、至極まっとうな意見である。先に出たとおり、この学校の男女比率は明らかに女子寄りである。

 実際に放送されている特撮番組も、イケメンでお母さんを釣りあげて、数字を伸ばしているという話を聞いたことがあるような気がする。

「じゃあアニメでも作るか!?」

 なんでそう難しい方難しい方に持って行こうとするのだろうか。

「先輩とりあえず冷静になって下さい」

「いやお前が素直にキスすれば良かったのよ」

「ダメです。俺が相手じゃ話題にもなりませんよ。同じことをするにしても、少しは意外性があった方が話題になりやすいです」

「じゃあこういうのはどうですかね」

 摩耶は顎に手を当てて、

「昨今の時勢から、ナタリー先輩の男装は無しにして、女性同士の恋愛をテーマにするというのは」

 さも自分が正論かのように装って述べた。

「百合」

 多分琴線に触れたのだろう。マルタさんが強く反応を示した。

 ありなのか?

「嫌だ、私はラウラとキスしたくはない!」

「そんな言い方ないだろ! 少し傷ついたぞ!」

「だからー、キスしたがってるアキラくんが相手でいいと思いまーす」

 しねえよ? したいのは否定しませんけどね。

「いや、映えるカップリングはナタ×ラウでしょう。逆でも良いかと思うッスけど。

 でも実際にキスしなくて、してるふりでいいんじゃないッスかね」

 いや、俺はナタリーさんとラウラさんのキスなら、結構見たいぞ。

「文集という手もある」

 マルタさんがぼそりと言った。

「あー。文化部だし、それもありじゃない?」

「そもそも特撮に興味を持ってもらうのなら、そういう方がわかりやすいかもしれないッス。もしくは特撮そのものを紹介する動画みたいな。余裕があるなら両方でもいいッスよね」

「ふむ、なるほどな。確かに文字と映像、両方で説明するというのはいい案だな」

 ラウラさんが黒板にチョークを走らせる。

「で、動画のシメにキスシーン」

「動画の、最後に、キス――するか!!」

 いたずらな笑みを浮かべたナタリーさんだった。

 そうしてその日はそこで下校時刻を迎えた。

 校門でそれぞれ別れて、俺とラウラさんは途中まで同じ方向なので、並んで歩く。

「アキラは……その」

 うつむきがちでラウラさんが口を開いた。

「キス、したいか?」

 うは。フラグ立った!

「……その、したいです。もちろん」

「そ、そうか……」

 とぼとぼと無言で歩く俺たち。何故か緊張感が高まっていく。

 俺たちの帰り道には、とりわけ人気の無い区間がある。ちょうどそこに入ったとき、ラウラさんが立ち止まった。

「ラウラさん」

「私も……私もだな……その、キスしたい」

 夕日のせいでラウラさんの顔が一際赤くなって見える。

 今がその時だ。

 向かい合って見つめ合うと、ラウラさんがそっと目を閉じる。

「ラウラさん……」

「うん……」

 唇が重なった。

「……?」

 重なったんだが?

 なんの感触もなかった。

 どういうことなの。



<いっひひひひ! これはお前のユメの中だぜ! 経験したことないことを再現出来るわけないだろう! いひひひ!>



 ファ○ク!

 俺は頭の中に響いた声に毒づいた。

 ファーーーーーーーーーーーー○ク

 心底毒づいた。

「アキラ……」

 ああ、目の前の嬉しそうなラウラさん。ああ、感触はわからなかったけど、その表情だけでご飯3杯はいけそうです。

「……」

 ラウラさんが空いた俺の手をとり、指を絡めてくる。 そのあとは2人、手を繋いで、いつもの分かれ道まで歩いた。今日の沈黙は何か特別な気がした。

 ――いや、待てよ……手の感触なんてあったか?


<けけっ! 呪縛が弱まって来やがった!>


 頭の中に響いた不快なノイズ。だが俺は気にしなかった。


 翌日の放課後、話し合いの結果、文化祭の出し物は文集と動画の両方でいくことに決定した。

 動画で実際に特撮を観てもらい、文集の文字で特撮を説明する。残念ながら漫画を描ける部員はいなかったので、そこが残念なところだ。イラストもダメだと言うから、実にこの部活らしいところに落ち着いたと思う。

「でも特撮映像どう作ればいいんですかね」

 摩耶が一つ呟くと部室に沈黙が広がった。

 確かに特撮のことを知ってはいるが、実際に特撮技法を用いた撮影を行ったことは一度とない。

 直面した現実の中、ナタリーさんが呟いた。

「ターミネーターみたいなの作りたいな、私」

 理想だけは高い。ていうか高すぎる。撮影スタッフに殺されるくらい舐めた発言だ。

 再び沈黙に包まれる部室。

「ちょっと待って下さい。去年とかどうしてたんですか?」

「文化祭?」

「そうです」

「そりゃもちろん何もしてないわよ」

 ドヤ顔でナタリーさんは言う。

 活動実績大したことねえぞ、この部活!

「いやほら、あくまでも特撮と漫画とアニメを研究するって言う名目で、楽しむ部活だから」

 なるほど、自分達だけで楽しんでいたと。

「だけどほら、今年私とラウラが卒業したら、キミたちだけになって、来年から同好会、下手したら廃部になる可能性があるわけじゃない。そうしたらもうここは先輩らしく、部活で何か行動しないといけないと思ったわけなのよ」

 漠然とした危機感に迫られ、落ち着いていられなかったわけだ。

 ナタリーさんってこんな小心者だっけ?

「その、だな。この特マニ研は弱小も弱小、いつも最低限の人数しかいないような部活なのだが、歴史だけは長くてな……。それを私たちの代で途絶えさせるのもどうかと思って……」

 先達達への思いからなのか、恥ずかしそうにラウラさんが呟いた。

「なぜかわからないんだけど、今年は幽霊部員がいないっていう……」

 最低人数ぴったりのこの状況。

 順当に行けば次期部長になるのはマルタさんだが……。上が去ってしまい、自分が実質トップになるというのに、まるで興味が無さそうだ。あの様子じゃ部長を継ぐ気は無いらしい。

「だからさ、」

 ナタリーさんが立ち上がって俺の隣に立つ。

 嗚呼、次の部長は俺n――


「起きろ! アキラ!」


 パシーンと横っ面を張られた。

 意味がわからなくて困惑する。

 助けを求めるように他のみんなを見回すと、3人とも何事も起きてないかのような対応をしてくれた。

「起きーっろ!」

 もう一発いいのが入る。

 やっぱり誰も何も言わないし、止めない。

 何が起こってるんだ一体……? ほっぺたがメチャクチャ痛い。


<ぐひひひ! どうやら時間切れの、ほぎゃっ!?>


 頭の中に響いた不愉快な声も、痛みを感じさせる悲鳴を上げた。

「起 き ろ!」

 スパーーーーーーン!


  ※


「ぶはっ!?」

 溺れかけてたところを、一気に水から引き上げられた感覚。

「へっ?」

「起き――」

「だあああ!? ナタリーさん、もう目が覚めたみたいッス!」

「あん?」

 目前にはナタリーさんがいて、俺の胸ぐらを掴んで右手を大きく振りかぶっていた。

「うわ、ちょっ!?」

 逃げようとしてもナタリーさんの左手は俺の胸ぐらをがっちり掴んで離れない。

 いや、それよりも、身体がメチャクチャだるくて力が入らない。

「こんの、馬鹿たれがー!!」

 一体何が起きたのかわからず、重い首を回して様子を窺った。

「?」

 異様だったのが、エレーヌさんが、本を床に押しつけて殴っている光景だった。

 いや……よく見るとあの人工精霊が薄く見える。『欲望の書』の人工精霊が、エレーヌさんからパウンドを食らっているのだ。なんともシュールな光景……と思いきや、俺も似たような状態だったわ。

「もしかして……」

「お前も大人しそうな顔して、随分と大胆なことをやるじゃない」

「すいません、ナタリーさん」

「なに」

「弱めでいいんで。本当に弱めでいいんで。叩いてくださいませんか」

「よーし、いくぞ」

 ペチッと頬に平手が落ちる。ああ、痛い。

「これは……夢じゃないんですよね」

「そう。まだ足りない?」

 右手を振りかぶるナタリーさん。なんで拳になってるんですか。

「いえ、もう。本当にすいません」

 その言葉で、俺が正気に戻ったことを確信してくれたのか、ナタリーさんは胸ぐらを解放してくれた。

 頭が枕に落ちる。力が入らない。

「もう5日経ったんですか……」

「何言ってるの。2日寝たきりだったのよ、あんた」

「2日? え、だって3日目に起きたときに、ナタリーさん来てくれ、て……」

「私が来たのは、エレーヌさんに話を聞いて、今日が初めてよ、このあんぽんたん」

「いや、え、つまり……いや、そのエレーヌさんが人工精霊の疑似人格をいじって……あれ!?」

「……精霊の調整はまだやってないです~……」

 ばああああああ!

 つまり途中で、人工精霊が俺を起こしたあれすらも夢の一部だったのか! なんて姑息なことしやがる!

 身体が動きさえすれば俺がパウンドをかましてやるのに!!

「ぬぐぁぁぁああ……」

 虚しさと悔しさで何も言えねえ!

 確かに楽しい夢は見られたけれども、やろうとしたことは出来たけれども! 

 結局『欲望の書』の思い通りになっていたという事実。

「ああ、もう……」

「動ける? アキラ」

 膝立ちで俺に馬乗りになっているナタリーさんが手を差し出してくれた。

「はい……」

 信じられないくらい軽々と上体が起き上がる。だるいけど普通に動く程度にはもったみたいだ。

 俺が安定したとみると、ナタリーさんはベッドから降りた。

「まーったく、この年の男は何やらかすかわかったもんじゃないね」

「倉田さん、思ってたよりあほッス」

 嗚呼、心が痛い……!

「動けるなら、夕飯、行くからね」

「はぁい……。

 エレーヌさん、それくらいで許してやって下さい。今回は俺も悪いので……」

「わかりました~」

「げひ、ひひ! 助かったぜ相棒! うひひひ!」

 心なしか元気がないように聞こえる、その不愉快な声。

 しかし相棒は止めろ。本当に。本当に止めろ。第一お前の相棒はエレーヌさんだろうが。

「おっと……」

 ベッドから降りようとすると、膝が笑って転びそうになった。

「ほら、しっかりしろよ」

 ナタリーさんが肩を貸してくれる。仄かにラウラさんとは違った、いい匂いがした。

 ……これを口にしたらもう、変態のレッテルが剥がせなくなってしまう。危ない危ない。

「色々とすいません……」

 しかしこうして人の力を借りて歩くと、元の世界の記憶というか思い出というか……病気になってからの日々を思い出す。

 まあこんな美人に助けてもらったことは無かったけども。

「倉田さんがハーレム漫画の主人公にどんどん近づきつつある……」

 俺の様子を見て、摩耶がそんなことを呟いた。

「これは回収しますので~」

 『欲望の書』を抱えてエレーヌさん。

「エレーヌさんも、助けてもらってありがとうございました……」

 そう言うと彼女は微妙な表情を浮かべて部屋から出て行った。

「さて、鍵貸しなよ」

「あれ? そういえばどうやって入ったんですか?」

「宿屋のおばちゃんにマスターキー借りたんだよ。ここの部屋の奴が死にかけてるって言って」

 機転の利く人だ。いや、待て。ただの事実だった。

「ほら、鍵」

「ああ、はい。えっとそこに置いてあります」

「よし。じゃあ行くぞ、しっかり歩くように」

「うっす。ていうか重くないですか?」

「ああ、それなら私、魔術で強化してるからこれくらいなんてことないのよ」

「なんかこんなことにそんな高度なことさせて申し訳ないっす」

「そう思うなら貸し一つね」

 そう言うナタリーさんの横顔は笑顔だった。

 鍵をかけて、向かう先は宿屋の入り口。

「大丈夫だったかい?」

 エントランスにて、宿屋の女将さんがいつものように声をかけてきた。

「ごめんね、おばちゃん。残念ながらまだ生きてたよ」

 ナタリーさんが冗談めかして言う。

「そりゃ良かったよ。部屋で死なれちゃあとで面倒だからね」

 へっへっへ、と笑い合う2人。なんか通じ合ってるみたいで格好いい。

「おい、アキラ。こっちこっち」

 てっきり外に行くのかと思っていたら、向かったのは併設の食堂だった。

「いたいた」

 サポートされて向かった先には、ラウラさんとマルタさんが控えていた。2人はテーブルを挟んで向かい合って座っている。

「バカが来た」

 マルタさん辛辣ぅ! でも返す言葉がない……。

「アキラ……」

 ラウラさんはというと、心配するような表情の中に呆れの感情を浮かばせていた。比率にすると、前者4に後者6。

 あ、なんかすっごいショック。マルタさんのときよりショック。

 案の定、ナタリーさんは俺をラウラさんの隣に座らせて、自分は俺の対面に。後ろを付いてきていた摩耶はナタリーさん横に座っていた。

「ほらアキラ、これを。胃に優しいから。ゆっくり食べるんだぞ?」

 差し出されたのはお粥のような料理。米とはまた違った別のもので作られているみたいだ。

「いただきます……」

 正直、疲労感が強すぎて空腹感はそれほどでもないのだが……。

 木のスプーンで一掬い、口に運んだ。

「美味しい……!」

 食感的にはオートミールに似ている。ただし味はしっかり目で飽きの来ない、しかし濃すぎない絶妙な味加減!

「よかったじゃない、ラウラ。美味しいってさ」

「いや、まあ、その……うむ」

 2人のやりとりから、ラウラさんが作ってくれたのだと知る。

「ラウラさんこれ、本当に美味しいです。ありがとうございます」

 俺はラウラさんに直接顔を合わせて、感謝の念を伝えた。

「うん、まあ、その、なんだ」

 するとクイッと目線を外したラウラさんはこう続けた。

「口に合うのなら良かった」

 もう飲み始めていたのだろうか、この照れ方は見慣れた態度だ。あー可愛い。

「わざわざ自分で材料買って、ここの調理場まで借りた甲斐があったね」

「あわー!? そんなこと言わないでいい! 恩着せがましいじゃないか!」

「いいえラウラさん、これは立派な恩ですよ」

 俺は否定する。

 胃に優しいという名目で作ってもらった麦粥を、俺はハイペースで口に運んでいく。五臓六腑に染み渡るとはこういうことを言うんだな。じんわりと身体が温まって行くのを感じる。

「はー、美味しい」

「倉田さん……」

 羨ましそうに摩耶がこちらを見ている。

「いや、やらん。これはやらんぞ。ラウラさんが俺のために作ってくれたものだからな」

 皿を抱えて身を捩る。その間も俺はお粥を口に運んでいる。

「こらアキラ。はしたないぞ」

「すいません」

 改めて皿をテーブルに戻してお粥を食べる。

 はぁ~、美味い~。

「倉田さん、ラウラさんの愛を独り占めする気ッスか」

「ちょ、愛とかそういうんじゃ……!」

「するね! ラウラさんの愛は俺のもんだ!」

「やったじゃないラウラ。これで相思相愛ってやつ?」

「あ、あの……だから」

「あ。本当だ美味しい」

 マルタさんがいつの間にか同じものを食べてる!?「あれ!? マルタさん、それどうしたッスか?」

「ラウラはおかわり出来るように、ちょっと多めに作ってた。だからそれを貰ってきた」

「そういうの早く言ってくださいよ。私も貰って来るッス!」

「ああ!? 俺のなのに!」

「あ。マヤ! ついでにお酒の追加注文お願い。同じ奴で」

「オッケーッス!」

「こらマヤ! あくまでアキラのための療養食なのだぞ!」

 ラウラさんの制止も聞かず、摩耶はツッタカターとカウンターまで駆けていった。

「ラウラさん料理も得意なんですね」

「ま、まあそれなりにな。冒険者をやってると野営のときに、気まぐれに料理をすることもあるものだから、それが積み重なってこうなっただけさ」

 なるほどなぁ。でもそれだけにしても美味しい。

「ナタリーさん、お待たせッス」

「ありがと」

 摩耶がナタリーさんの前にジョッキを置いた。するとお酒のいい匂いが漂った。

「ダメだぞアキラ。病み上がりに等しいくせに、酒なんか飲んだら身体に悪い」

「ですよね。今日の俺にはラウラさんのお粥が最高のごちそうです」

 少しずつ口に運んでゆっくり味わう。

「……」

 お粥、うめー!

 やっぱり夢や幻より、現実の方がいいや。


 ―了―

アライズに夢中になってました、すいません。

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