1-9 笑っていない笑顔
「……俺の機嫌が悪くなりそうな報告って?」
ひっ……! と、声なき悲鳴が、エイダルやファヴィルの耳にも確かに届いた。
(気持ちは分かる)
目が笑っていない笑顔、はソユーズ家十八番のように思われているが、ここに、ファヴィルやルスラン以上の迫力を持つ、ルフトヴェークの新皇帝がいた。
「……エーレ……」
キャロルの「陛下」呼びを、エーレは嫌う。
かと言って、どこでも名前呼びを通したら、結局ミュールディヒ侯爵家と同じかと思われ、自分以外の周囲の評判も落とすと分かっているキャロルは、2人の時や宮殿から下がった後の私的空間にいる時など、場所に応じて、呼び方を分けるよう心がけていた。
今はエイダルとファヴィルしかいないため、何よりエーレの笑顔が怖い事もあり、するりと「エーレ……」と、口にしていた。
エーレ・アルバート・ルフトヴェーク。
現時点では、キャロルは彼の婚約者と言う立場にいる。
「エーレ、迎えに来たんだろうが、とりあえず座れ。今は私が、その娘から報告を受けていたところだ。外政室室長と、公国宰相の肩書を持つ者との、正当かつ正式なやりとりだ。説明はしてやるから、すぐには口を挟むな」
怯えぎみのキャロルを哀れんだのかどうか、そんな風にエイダルが2人に声をかけ、キャロルから、感謝に満ちた視線を向けられたが、エイダルはそれを、冷ややかな視線で一瞥した。
「……何か勘違いしていそうだが、私はエーレに、宰相としての報告しかしないからな」
「ええっ⁉」
「当たり前だろう! 私に、馬に蹴られて死ねとでも言うか⁉︎」
それ以外にも、喧々囂々言い合うキャロルとエイダルを、エーレは毒気を抜かれたように、しばらく見つめていた。
「……大叔父上とキャロルは、いつもあんな感じで……?」
問われたファヴィルも、困ったように微笑うだけである。
「そうですね。私も驚かされてばかりです。ですが、レアール侯と言い合われていた頃を思えば、リヒャルト様も随分と丸くなられましたよ。と、言いますか、リヒャルト様にまるで怯えないあたり、やはり父娘だと思いますね」
「……聞けば、イェッタとか、クラッシィとか、以前に俺が調べて、カーヴィアルに預けた書類の話か……いや、何か後日譚が……?」
「後日譚……まぁ、そうなのかも知れません。私なんかからしますと、それそのものより、解決に動かれた結果が、婚姻の儀に間に合うのかと、そちらの心配をしているのですがね」
「――――」
ファヴィルは、エーレにのみ聞こえるように、何気なく口にしたつもりだったのだが、その瞬間、一瞬にして、部屋が静まりかえった。
「……まさかお二人とも、その可能性をまるでお考えではなかったのですか?」
呆れたようにファヴィルが口を開けば、反論の術も見出せなかったのか、キャロルもエイダルも、固まったままだ。
その様子に、どうやら黙って耳を傾けていたエーレの忍耐力も、切れたようだった。
「大叔父上……色々と聞き捨てならない単語もあるようですし、そろそろ、ご説明頂いても?――今、何が起きているのかを」
「…………」
先月薨去したエーレの実父、エイダルの甥である先帝オルガノには、ここまでの威圧の空気は出せなかったように思う。
黒髪に黒琥珀を思わせる瞳の外見から言っても、周囲がそう口にしているように、エーレに自分の遺伝子が色濃く現れているのは否定出来ないと、エイダルも思った。
「……この娘に八つ当たりをする事だけは、禁じておくぞ。後々レアールに連れ戻されたとしても、責任が持てんからな」
「なっ……」
そんな事をする筈がない――カッとなって立ち上がりかけたエーレに、エイダルは冷ややかな言葉を浴びせた。
「暴力だけが、八つ当たりと思うか?まあ、いい。説明はする。だが、この娘が動かないと言う選択肢だけは、ないからな。その事は断言しておくぞ」
「――っ」
結局エイダルが、エーレへの報告を引き受けたのは、宰相としての職務を果たしただけだと、表向きには口にするものの、ある程度は、既に巻き込まれてしまっている、キャロルへの同情もあったのだろう。
ワイアード辺境伯領を原産地とする新種の媚薬の件、カーヴィアルのクラッシィ公爵家が外から乗っ取りを狙って、リューゲ自治領内に対抗勢力を作ろうとしていて、その資金源、あるいは御輿の上の人物への搦手として、薬を利用しようとしている可能性がある点などを、淡々とエイダルは告げ、エーレを絶句させた。
「いや、だからクラッシィ公爵家は――」
そんなにアタマは良くない、と言いかけるキャロルを、まあまあ……と、小声でファヴィルが宥めた。
「今は、エーレ様がご納得されるのが一番でしょう。リヒャルト様やエーレ様にとっては、クラッシィ公爵家首謀説の方が、取っ掛かりの理由としては、腹落ちしやすいんですよ。天才に、凡人の思考はなかなか理解出来ないと言いますか……ね。事実は後で明らかになれば良い事ですし」
「うーん……」
より、複雑な「陰謀」の方が、理解が早いと言うのも考えものじゃなかろうか。
「リューゲの次期代表に推されている男に面識があり、カーヴィアルの事情に明るく、お前の代理としてでも、ワイアード辺境伯領に赴ける立ち位置にいる。誰が考えても、クラッシィ公爵家の目論見を崩せる切り札は、この娘だ。私がアデリシア殿下でも、この手札を使わない選択肢はない。もし、お前と言う存在がなければ、ルフトヴェークとリューゲも、これを機に、支配下に置こうとさえするかも知れない」
「……それは」
「ワイアード辺境伯領の名がなければ、ルフトヴェークには関係のない事として、この娘を公国の外には出さず、突っぱねる事も出来たろう。だが、実際にワイアードの名が取り沙汰されている以上は、辺境伯領自体が、白か黒かの見極めはせざるを得ん。こちらから人を出して、調査をする必要が、確かにあるし、ならば、誰が調査に適任なのか――くどく言わずとも、理解は出来たと思うが」
エーレの拳が、掌が、切れそうな程強く、握りしめられる。
公国宰相たるエイダルの見解は、全てにおいて反論の余地がなかった。