1-6 宰相室の怒声(後)
「……すみません、ご存知かと」
「レアールが、身を引いてカーヴィアルまで逃げた娘を、執念で探し出して、正妻にした事は知っている。その娘であるお前が、カーヴィアル語に最も精通していると言ったのも、それで得心した。だが、たかが一侯爵の娘が、公国の外で、それまで何をしていたのかなど、いちいち知る訳がないだろう。せいぜい最近になって、大使館業務を一時肩代わりしていたとか、アデリシア皇太子殿下の護衛を務めた事があるとか言った話を、耳にしただけだ」
「……私が言うのも何ですが、皇妃候補の身体検査が、そんな事で良いんですか」
本当に「たかが一侯爵の娘」なら、さもありなんだが、キャロルが請われた立場は、皇帝陛下の隣に立つ、皇妃だ。一族の氏素性に至るまで、綿密に調べられるのが、普通ではないだろうか。
今度は嫌味でなく、素直に疑問を口にしたキャロルに、エイダルが、苦虫をまとめて何匹も噛み潰した表情を垣間見せた。
「良い訳があるか。だが、それ以上を確認させなかったのは、皇帝陛下だ。ルスラン達にも、必要以上の情報を他に渡さないよう厳命していたんだろう。お前にケチをつけようとする芽は、全て根元まで枯らして摘んでいたようだからな」
「……え」
「何をやったかは、後で本人に聞け。ともかく、今はそんな話をしたい訳じゃない。お前の話だ」
むしろ、それが聞きたい――と、キャロルは思ったのだが、当然、今は根掘り葉掘り尋ねられるような状況にない。
諦めて、キャロルは小さな息をひとつ、ついた。
「宰相書記官サマの指摘は正しいですよ、公爵閣下。その書類にある、キャロル・ローレンスとは――私の事です」
「――――」
エイダル、ファヴィル両方に凝視されて、キャロルは困ったように肩をすくめる。
「アデリシア殿下の近衛隊長であり、かつ、近く側妃立后される筈だったのは、間違ってはいません。ただ、父をミュールディヒ侯爵家の刺客から守るのに、帝国を離れるための方便として婚約したんです。婚約の実体は、一切ありません」
「妃教育と称して公務から離れれば、多少の不在はごまかせるから……か」
さすがエイダルは、ルスラン以上に、その事に気付くのが早かった。
「はい。その後は、ご存知の通りです。生死の境をさまよって、帝国に戻るメドが立たなかった以上、ローレンスの名は、殺されるより他なかったんですよ。多分、殿下がクラッシィ公爵家に、ジャガイモやら帝国貨幣やらの不正取引の罪を問うたついでに、色々な罪を被せた内の、一つとして紛れ込ませたんだと思いますけど」
「エーレは、知っているんだな」
「え? この書類の事でしたら、今初めて、公爵閣下に持ち込んでいますよ? あぁ……そうじゃなくて、私がカーヴィアルでどう言う立ち位置にいたのかと言う話なら――もちろん、知ってます」
「道理で、か……」
「え?」
「道理でエーレがあれほどまでに、お前に対して過保護になる筈だと、納得したと言う事だ」
「ええっ、今の話のどこが⁉︎」
政治の中枢に近付けば近付けく程、ドレスにも宝石にも、次期皇位継承者の配偶者の肩書にも興味を示さない妃を探す事が、どれほど難しいか。皇族であるエイダルなどは、常にそれを痛感させられてきた。
まして、皇族の妃として相応しい資質の話までがそこに加われば、尚更だ。
現にファヴィル・ソユーズも、息子の相手として、キャロルに強い興味を示したし、聞かずとも、カーヴィアルの皇太子も、婚約が仮初でなくなったところで、いっこうに構わないと思っていただろうと、エイダルには、手に取るように理解が出来た。
「お前は、自分で思っているよりも中央権力から狙われやすいと言う事だ。まずはその事を自覚してやれ。少なくともエーレは喜ぶ」
「…………」
エイダルの為人からすれば、違和感極まりない言葉ではあったが、ファヴィルが無言で頷いているところをみると、あながちキャロを揶揄している訳でもなさそうだった。
「それで、おまえはこの書類にない、何を知っていて、先刻の仮説を導き出した。カーヴィアルと、リューゲと、ワイアードを繋ぐ鍵は何だ」
厳しい表情のまま、話を当初に立ち返らせたエイダルが、再び書類を指で弾く。
「……サウル・ジンド」
その名を呟くキャロルの表情が、僅かに歪んだように、ファヴィルには見えた。
「確かに、彼は軍属経験者です。祖父がリューゲ出身の移民三世で、リューゲと縁がある事も確かです。ですが、そんな中途半端に不正確な情報が他国に流れ出ている事自体が、誰かの作為と悪意を感じます」
「不正確だと?」
「新たに赴任した大使館職員を責める事は出来ません。むしろ赴任したばかりで、帝国内の正確な情報をまだ持っていないであろうところを、情報操作に利用されようとしていると考えた方が良いです」
「ならばお前の知る、この男は何者だ」
「…………」
答えるキャロルに、一瞬の間があった。
何かを思い返すように、視線が下に向けられる。
「彼の直近の職務は、近衛隊副長――私の部下です。ああ、いえ……腹心と、今でも断言出来る、私の部下でした」
「――お前はっ‼」
静かだった部屋に、舌打ちと共に再び盛大な怒号が響いた。
「書類以上の爆弾を口頭で落とすヤツがあるか⁉︎ そんなぼろぼろと小出しに情報が追加される状態で、私に何を判断させるつもりだ! 既にお前が、無関係な第三者じゃなくなっている――自覚はあるようだな! 今、自分がただ一人、事象の全てが俯瞰して見えている、相手方からすれば、危険な存在になっている自覚もあるな⁉︎」
「…………」
「都合が悪くなって黙り込むのはやめんか!」
ファヴィルなどは、唖然として言葉も出ないようだったが、一瞬で事態を把握したエイダルの頭の回転は、並の50代後半のそれではない。
「今、カーヴィアルの近衛隊は、隊長も副長も抜けた状態。アデリシア殿下の周りの戦力が落ちていると言う事なんだな」
ただ、カッとなったのも一瞬。
キャロルに状況を確かめるように、声のトーンを落とした。
「はい。そう言う物理的な話もそうなんですが……」
「ですが、何だ」
「カーヴィアルでは、私は母子家庭の一般市民でした。サウル――副長は、移民であり、これも平民。ナンバー3だったトリエル・バートになって、初めて子爵家の四男とは言え、貴族の肩書を持つ者が現れる。即ち、完全実力主義で、一般市民もその地位を目指せるような門戸を持つのが、カーヴィアルの近衛隊だったんです」
そう言ったキャロルの表情は、どこか誇らしげだった。
キャロル自身も、まだ、レアール侯爵令嬢と言う立場に、完全には馴染んでいないのだろう雰囲気を、微かに窺わせている。
「それが……トップ2人が梯子を外され、下級と言えど、貴族の肩書を持つトリエルが、代行となると……もともと、旧態然とした貴族達とは折り合いが悪かった殿下の影響力は、じわじわと削がれていた筈です。その上、私が死んだ事で、平民から皇妃に! と言う、一種のシンデレラストーリーを壊してしまった殿下に、背を向ける市民も出てくる――どちらも同時に起きるのは、あまりにタイミングが良すぎます」
「……お前の〝死〟は、予期せぬ事だったにせよ、そこから先は、そうではない――と」
「そうですね、恐らくは。ただ殿下は、自分の手足が捥がれようとしている事に、気付かれないような方では、決してないですから、これは間違いなく、何か理由があって、サウルをリューゲ中枢に喰い込ませて、トリエルを、権威主義の貴族家との防波堤にして、何らかの時間稼ぎをしているとみた方が良いです。だって、サウルは移民系の三世ですよ? 今更、リューゲ四領主の一人の血縁を持ち出
してくる事自体、リューゲ内部に何かあったとしか思えません」
それに、トリエル・バートも、家名こそ子爵の名を負うが、本人は、勘当同然に館を離れて、住んでいるのは平民街のレストラン兼宿屋の一角、花街での噂を聞く事も一再ではない、実は中身は三人の誰よりも庶民だ。
自分の素行をとやかく言わない、貴族らしくしろ、などと一度も口にしない、キャロルもサウルも大好きだと公言して、ナンバー3を喜んで受け入れていた、などと、あまり大声で言える事ではなかったのだが。
キャロルもサウルも、他人に迷惑をかける素行ではない分、咎めだてする必要性を感じていなかっただけだが、なかなか、そう割り切ってはくれない者も多いのだろう。家族を含めて。
「トリエルも、後継問題でバート家本体とは疎遠――と言うか没交渉で、何かある度に、本家の使者が私かサウルを訪ねて探しに来るくらいでしたから、こちらも、バート子爵の令息を名乗って、宮廷に留まっているのなら、間違いなく、そこには何かしらの意図がある筈で――って、ああっ!」
そこまでを口にしたキャロルが、突然、頭を抱えてうずくまり、エイダルやファヴィルをギョッとさせた。
殿下ぁ……と、恨みがましい呻き声が、二人の耳に届く。
その仕草に、エイダルは、キャロルが何を言いたいのか、どうやらピンときてしまったらしかった。