2-8 採用面接(前)
翌朝、あわや寝台から動けない――と、なりかけた自分を無理矢理叱咤して、キャロルは平民文官チャス・フリードから紹介を受けた男性との面接を行った。
果たして面接があると言わなければ、ギリギリまで〝綵雲別邸〟で離して貰えなかった可能性もあるため、未だかつてこれほど仕事に感謝をした事はない。
若干気まずくなっていた一昨日はともかく、エーレの愛情は、ほぼ毎日充分過ぎる程に理解させられている。ただこれまで日本にいた頃を含め、誰とも付き合った事すらなかった深青には、いきなり手を繋いでデートをするところ以上から始まるのは、未だに心理的ハードルが高いのだ。
ヒューバートではないが、まさに「オトナの階段」だ。
あれに慣れるとか――そんな日が来るとは、とても思えない。
思わずため息をつきかけたが、面接中だった事を思い出し、慌てて咳払いをして、手にしていた身上書に視線を投げた。
この世界、履歴書はないがそれに近い身上書のような書類はあり、キャロルはそれを作成、持参して貰ったのだ。
平民に付いて回る「識字率」の問題にも、それは大きく関係してくるからだった。
宮殿で働く以上は、読み書きは多言語話者であるかどうか以前の、文官としての標準仕様だ。
そして目の前の、この蘇芳色の髪の男性は、
宮廷あるいは高位貴族家で働いた事がある者特有の文体での書面を持って来た。
――それも、カーヴィアル語で。
確かに語学が出来る者を募集はしているが、上司にも、それなりの能力を求めているような、そんな空気を感じる。
『グラン・ユーベル……カーヴィアルからの、難民……何の冗談?』
生まれてから10何年カーヴィアルで生活をしていれば、キャロルの無意識の呟きは、どうしたってカーヴィアル語になる。
男がふと、顔を上げた。
『クライバー陛下からアデリシア殿下に至るまでの治世下で、カーヴィアル帝国に飢餓難民や戦争難民はいない。殿下も、現状の国家の備蓄で今年も乗り切れる筈だと仰ってた。貴方はどこの領地から来たの? 先にそこから、説明して貰える?』
カーヴィアル語が理解出来ても、出来なくても、その流暢さは部屋の万人が理解出来る。
もう試験が始まっているのかと、全員の視線が、部屋の隅の応接ブースに向いた。
キャロルはヒラヒラと、男が持って来た身上書を摘んで見せている。
『コレ、カーヴィアルの宮廷公用語。だけど私は、夜会や謁見の場で一度も貴方を見た事がない。だとすると、どこかの貴族家に雇用されていたのが、何かがあってそこにいられなくなった。難民じゃなくて亡命でしょ? 試験以前に、貴方の素性と背後を確認しない事には、とても国政の中枢でなんて、危なくて働かせられないわ』
『――――』
『フリード文官とは、今、住居が近いとか。「本業は薬師ですが、カーヴィアルから戻ったばかりで、手持ちも伝手もないため、職探しに困っているようだった。なのでもし、外政室で働けるような語学レベルがありそうならぜひ」って紹介されての――今なんだけど』
二人でチラリとフリードに視線を投げれば、心配そうな表情が視界に入る。
純粋に面接の行方を気にしているようだった。
『別に取って食う訳じゃないし。貴方がカーヴィアルからのスパイだとか刺客だとか、そう言う事は疑ってはいないんだけど』
『……え?』
そこで初めて、男が声を発した。
今の流れで、どうしてそうなるのかと問いたげだ。
ふふ……と、キャロルは微笑って、手にしていた紙を空いていた方の手で指さした。
『私、本物を目にしたのって初めて。縦読み暗号。……た・す・け・て・く・だ・さ・い。私がカーヴィアル語に明るくて、良かったね』
『――あぁ』
その瞬間、男が両手で顔を覆った。
申し訳ありませんでした、と震える声が手の隙間から零れ落ちる。
『フリードから、外政室はまだ善悪入り乱れているから、雇用されれば最高の身分保証にはなるが、自衛はしすぎるくらいにしておいた方が良いと言われていて……』
『意外と辛辣な事言うんだ、彼。まぁ当たらずとも遠からずではあるんだけど。それでカーヴィアルのどこにいて、何をしていて、何故ルフトヴェークへ来たの?』
『それ……は……』
『この部屋で今、カーヴィアル語を理解しているのは、私を除いてあのデスク付近の三人だけ。気になるなら彼らには箝口令を敷いて、ここで訳さないように言うけど。一応、私が身分で何かを強要した訳じゃない……って言う証人で、部屋を出て貰う訳にはいかないんだけどね?』
更にキャロルが畳みかければ、男は一瞬躊躇した後、お願いします……と、頭を下げた。
『了解ー。カーヴィアル班、聞こえた? ちょっと今からは、聞かなかった事にしておいて。加えて、こちらから良いと言うまでは、機密保持』
承知しました、と、誰かが答え、キャロルはニッコリと笑った。
『はい、じゃあどうぞ! ちなみにこんな見た目小娘でも、クラッシィ公爵家以上の権力に複数伝手はあるので、そう言う意味でも安心して、ぶっちゃけてくれて良いから!』
その瞬間、男の目が大きく見開かれて、キャロルの笑みはますます深くなった。
『その様子じゃ、やっぱり東側から逃げて来た人なんだ』
『……何故……』
『うん? 今のカーヴィアルの現状からすれば、犯罪やらかしそうな、泥舟に乗ってるのって、クラッシィ一派だけだからねー』
『貴女は……いったい……』
『クラッシィ公爵家本家には、恨みつらみしかないから、心配しないで! ……それでね?』
まだ躊躇があるらしい男の顔を、至近距離からキャロルが覗き込む。
ゴホゴホと、窘めるようにイオが咳込んでいるが、キャロルは無視した。
『貴方の本業は薬師? それとも調剤師?』
『!』
応接ブースの椅子を大きく後ろに押しやるように、音を立てて男が立ち上がった。
まるで幽霊にでも会ったかのように、顔面蒼白でキャロルを見ている。
「ユーベル⁉︎ どうし――」
「ああ、気にしないでフリード文官。彼、私が想像以上にカーヴィアルの事に詳しいから驚いてるだけ」
「あ……そう……なんですか? ユーベル、そちらの室長はカーヴィアル帝国への留学経験をお持ちだそうだから、現状この公国で最もカーヴィアルの政情に詳しい方だ。もしかすると、東のベルトラン領にいたって言うお前よりも余程、帝都に詳しくていらっしゃるかも知れない」
「……ベルトラン領」
留学、と呟いた男の視線の先で、キャロルが獲物を見つけたかのような笑みを、口元に浮かび上がらせた。




