2-5 お詫びの昼食会(2)
「返す言葉もない――って、こう言う時に使うんだなと思ったよ」
エーレ自身、常に異母弟を推していたミュールディヒ侯爵家一派からの悪意に晒されていた所為もあってか、その辺りの機微に疎くなっていたのは否めない。
「本当にごめん。俺の配慮が足りなかった」
「あ、ううん、気にしないで。リーアムもありがとう。ただ私、ああ言った罵詈雑言は昔から日常茶飯事だったから……そんなには……」
「まぁ、何をおっしゃいます! でしたら尚更、嫌なことは嫌と、声に出さねばなりません。でなければ、ある日いきなり何かの箍が外れたように、心を壊してしまったりするんですよ? 私はこの宮殿でそう言った方を複数見てきておりますから、その辺りは恐らくご本人様よりも詳しいと自負しております」
「……ああ……」
「⁉︎」
断言か、と一瞬思ったエーレだったが、キャロルが納得したような呟き漏らした為、思わず顔を覗きこんでしまった。
「キャロル?」
「え? あ、やっ、私は多分……まだ大丈夫だと思うんだけど……母も一度、それで侯爵家飛び出してるなぁ……って思って……」
「……多分、まだ」
「エーレ様、そこじゃありませんでしょう。……そうですか、レアール侯爵夫人が」
「父の、母への愛は……私が知る限り一度もブレた事はないと言うか、有事の際に私や弟と、母を天秤にかけなきゃならないような事態が起きても、間違いなく母を選ぶ人で。だけど、そこまで分かりやすい愛があっても、侯爵夫人を狙う立場の家や女性、母の立場が気に入らない、父の実の両親から、悪意だけを向けられ続けた結果、母は一度壊れた。それを見てたから、リーアムの言う事は一理以上の説得力があるなぁ……って」
「……っ」
想像以上に重い話に、思わず言葉を呑みこむエーレを横目に、さもありなんとばかりにリーアムは頷いた。
「そう言う訳でございますので、エーレ様。どうかきちんと、キャロル様とお話をなさって下さいませ。私たちはいったん下がらせて頂きます」
――そうして、ガゼボの中にはキャロルとエーレが残された。
リーアム達の姿が見えなくなった頃を見計らって、エーレが深いため息を吐き出している。
「……そもそもはね、君の意識が戻った時点で、いくら死んだ事になっているとは言ってもカーヴィアルに――アデリシア殿下にだけは、知らせない訳にはいかないと思って、手紙を書いたんだ。黙っていたところで、いずれどこからかは伝わるだろうと思ったからね」
「……うん」
それは正しいと、キャロルも思う。
カーヴィアルに戻れないにしろ、ルフトヴェークで地に足をつけて暮らしていくならば、いずれは分かる事だ。
キャロル自身もそう思って、侯爵領にいた間にデューイに相談したところ、それは殿下が書くと言って公都に帰って行ったと聞いたために控えていたのだ。
「ただその時、俺は……君をやっぱりカーヴィアルに――アデリシア殿下の近衛に戻して欲しいと言われる事を、どうしても避けたかった。その時点では、その気になれば方法はいくつかあったからね。だからこそ殿下には、そのまま君を諦めていて欲しかったんだ。だから手紙には、俺が君を『皇妃として迎え入れるつもりだ』とも書いた」
「……っ」
思わぬエーレの告白にキャロルの顔が微かに赤く染まり、その照れを隠すように、目の前の紅茶を少し口に含ませる。
キャロルがレアール侯爵領の本邸にいた間は、まだお互いに何も伝え合ってはいなかった筈だが、その時点で、エーレの気持ちは既に固まっていたと言うのだから、エーレの独占欲に関しては、その頃から既に片鱗が現れていたのだろう。
「そうした矢先に、今回の騒動だ。行き先がカーヴィアルではないと言っても、まんまと君を、ルフトヴェークから出国させるための道筋は敷かれてしまった。――あまりに自分が不甲斐なくてね。君が欲しいなら相応の実力を示せと言われたようなものだ。そうでなくとも、俺は君の事となると冷静さを欠く傾向にある。だからほんの少し、独りで考える時間が欲しかったんだ」
「エーレ……」
「だからと言って、君を不安にさせて良い理由にはならなかった。……朝からは大叔父上にも怒られてね。『一方的に愛情をぶつけるのも良いが、あの娘が誰の為に〝死の国〟の門の前で踏み止まって、誰の為に他国での役職付の地位を投げ打って、公国にいるのか。本気で理解しているのか? 実際、レアールやその奥方さえ、あの娘を公国に繋ぎ止める楔にはなっていない。おまえが手を離した瞬間に、全てが瓦解する薄氷の上にいる事を、もう少し自覚しろ』って」
「⁉︎」
キャロルは、発言の内容の恥ずかしさもさる事ながら、それを口にしたのがエイダルだと言う事実に衝撃を受けた。
「……すっかり大叔父上に気に入られたみたいだね。意外だよ」
「えーっと……それは私も意外と言うか……」
エーレの右手が、スッとキャロルの頬に触れた。
「……君が、俺が宰相室を出た後――泣いていたとも聞いた」
「……それは……」
エイダルのいた角度で、それが見えたとは思えない。
宰相書記官殿だなと、キャロルは思った。
まったく喰えない50代2人である。
「君さえいなければ、今回の件は単なるカーヴィアルのお家騒動で済んだ――なんて、俺が考えると思うかい、キャロル? いや……今の言い方は我ながらずるいな。暴言と悪意の中に晒され続ければ、不安が生まれてくるのは当たり前だろうし……むしろこれは、俺の自業自得なんだよ」
「エーレ……」
「不安な時は、何度でも俺に聞いて欲しい。俺はその度に、同じ答えを返し続けるから。――俺の隣の席は……永遠に君の物だよ。そして君の隣の席は……俺の物だ。俺はもう、その席は君自身にも返さない。――愛してるよ、キャロル」
「⁉」
それは立っていられなくなる程の激しい口づけではなく、労るような優しい、一瞬のキス。
「……続きは、夜かな」
「な……っ」
「とりあえず食べようか」
穏やかに微笑うエーレに、赤くなりながらも、キャロルの肩から力が抜けたのも、また確かだった。
否が応でも、カーヴィアルと再び関わらざるを得なくなっても尚、それは自分の所為だと、エーレは言ったのだ。
お互いの隣の席は、まだ、お互いの物だと。
「……ストライド侯爵と、午前中会っていたんだってね」
自分もフィンガーフードを口に運びながら、さも何気ない事であるかのようにエーレが問いかけたが、それは朝、宰相室に顔を出した際にエイダルから聞かされた事であり、それとセットでエーレは、エイダルから雷を落とされていたのだ。
「それもさっき、大叔父上に聞いたんだ」
「そっか……あ、それ、父も一緒にだけど? 昨日の件のお詫び――って言う事で」
「……物凄く表向きだと言う風に聞こえるな」
「うん。多分間違ってないと思う。エーレは知ってた? ストライド侯爵の奥様が、リューゲ四領主の中の一角、トルソー家の出だって言う事と、お母様がカーヴィアルのバレット公爵家分家のご出身だって言う事……」
「ああ……侯爵夫人が、リューゲの出だと言うのは、聞いた事があった。今はまだ詳しくは言えないけど、あの家は色々と特殊なんだ。ただ、先代夫人の話までは――」
言いかけたエーレは、キャロルが言いたかった事の真意に気が付いたのだろう。片手を額にあて、ため息をついた。