1-13 不機嫌な父
「意外と柔軟と言うか……機を見るに敏な方なんですね、ストライド侯爵。お若いんですか?」
「ん? ああ、少し前に代替わりしたと聞いてる。先代はミュールディヒ侯爵家となかなかに昵懇だったらしいが、代替わりした直後からは、方針を大幅転換して、中庸派の一角を担っていたらしい。時期的に言っても、エーレ様が公国を出られた、あの時よりも早い段階からで、公国の混乱中は、エイダル公爵を「代替わりした侯爵家の誠意だ」と、こっそり補佐もしていたようだから、間違いなく頭は切れるだろうな。結果的に、それで公爵の大粛正の目が向かなかったんだ。状況判断力は、まあ確かだろう」
エイダルに粛正を思い留まらせるなどと、相当ではないかとキャロルは思うが、デューイは苦笑いだった。
「だが、そこまで家としての方針を変えてしまえば、どうしたって脱落者は出る。ストライド侯爵家は、それがより顕著に出たんだろうな」
「あー……まだミュールディヒ侯爵家の影響力があった頃の立場が、そのまま維持されていると思ってる人がチラホラ……みたいな?」
「そのあたりは明日、自分で会って見極めろ。私もそれほど言葉を交わした事がある
訳ではないからな。向こうから出向いてくれると言うんだ。せいぜい、有効活用すると良い。それより、今はお前の話だろう。何故この時間帯に、私の所へ来た」
ただ父親の顔を見に来た――が、通じる関係ではない事は、悲しいかな、双方共に自覚済みだ。
仲が悪い訳では、決してない。ただ、父娘として、初めて顔を合わせたのが、わずか5年前。生活拠点をキャロルが移してきてからとなると、わずか2か月だ。
まだ、ぎこちない部分が残るのも当然と言うべきだった。
深呼吸ひとつ分の間をおいて、キャロルは、外政室に埋もれていた情報から推察される、媚薬――新手の毒薬と言って良い薬の存在と、ルフトヴェーク、カーヴィアル、リューゲ三国間で、現皇統、政権が転覆させられる可能性がある事とを、簡潔に告げた。
もちろん、三国の関係者の誰かしらに伝手があるのが、現時点で、自分ただ一人である事も、キャロルは正直に告げる。
軍の面会室の中が、一瞬、静まりかえった。
「キャロル……まさか、リューゲ自治領へ?」
真っ先に概要を把握したのは、やはり父親だった。
「ええっと、正確にはワイアード辺境伯領経由の、リューゲ自治領入りです」
「……っ、なお悪いわ!」
思わず、と言った態で、目の前の机を叩いている。
「お前、婚姻の儀はどうするつもりだ? そもそも、今の話――」
「宰相室で既に、公爵閣下には報告済みです。私に『行かない』と言う選択肢は、ないと言われました。――陛下の目の前で」
うわ、と言う表情を見せたのは、ルスランとイオだ。彼らの内のどちらかは、間違いなくその同行を、現〝黒の森〟の長である、宰相書記官ファヴィル・ソユーズから、命じられるだろうと、分かったからだ。
「この際、偏屈独身公爵の事は、どうでも良い。何年経とうが、人間の心の機微に疎いのは、今更どうしようもないからな。それを、
面と向かって陛下に言えば、どうなるかなどと、どうせ考えもしなかったんだろう。外政室の職務を、私に兼務させてでも、お前を事態収拾の為に、リューゲへ向かわせねば――としか思っていなかった筈だ」
流石、エイダルと20年来の付き合いがあるデューイの洞察力は、まるでその場にいたかのように正確だった。
「あの……私が行く必要があるって言うところは、私も納得していて……お父様の仕事を増やしてしまうのは分かっていたんですが……その、留守中の事をお願いしたくて、ここへ……」
「………陛下は?」
「…………」
「キャロル」
黙り込む娘に、トントン、と人差し指でデューイが続きを促せば、キャロルが目に見えて、シュンと肩を落とした。
「頭を冷やしてくる……って宰相室を出て、それっきり……」
「…………」
デューイの周りの空気が、スッと冷えたように、イオには思えた。
「やはり侯爵領に引き上げるか。そもそも、私が頼んで娘を婚約させた訳でもなし、好き好んでこれから公都に屋敷を持つ訳でもないからな」
「いや、侯爵! それは――」
「今、侯爵に抜けられると公国が傾きます、冗談抜きで……っ!」
ヒューバートやルスランは、慌ててデューイを宥めているが、元侯爵家お抱え護衛のイオや、ベオーク・ヘクター……こちらもイオ同様、男爵位を得て、ベオーク・レクタードと名を変えた元護衛は、デューイの性格をよく分かっているだけに、何も言えずに、視線を明後日の方向に逸らしていた。
「何も今すぐとは言ってない。話を聞く限りは、リューゲ自治領には、向かわざるを得ないようだからな。ただ日程的に、婚姻の儀が厳しくなるだろう事も確かだ。期日迄に戻って来る事が出来なかった場合には、婚約破棄で、中央からも引き上げると言う選択肢があっても良かろうよ。別に私も、公国の貴族として、領地経営の責務まで疎かにするとは言っていない。陛下が、共に支えあっていく、夫婦として最低限の行いさえ怠ると言うのなら、そうまでして娘を留まらせておく義理はない。公都に留まる理由もないと言うだけの事だ」
「「……っ」」
ヒューバート、ルスラン共に、とっさに黙りこんでしまったのは「共に支え合えないのであれば、夫婦である意味はない」と、デューイが断言する部分に反論が出来なかったせいだ。
何しろここには独身者しかいないし、唯一の既婚者であるデューイは、あらゆる縁談を拒んで、実の両親を追放して、公国の皇族にまで楯突いて、領地で妻と暮らす事を貫いた、今や平民に人気の恋愛小説のモデルとさえされている人物だ。
未だに、妻の話題がデューイ最大の地雷である点も、変わらない。
「……お父様……」
「おおかた、お前をカーヴィアルに関わらせたくない、自分でも理不尽と分かるイライラを静めたくて、どこかに出て行ったんだろう。それは分かるがな。圧倒的に、お前へのフォローが足りん。お前のせいで、こうなった訳でもあるまいに」
「え……でも……」
「お前がいなければ、公国として巻き込まれる事もなかった――か? お前の存在だけで、大陸全てが動かされる程、世の中は都合良く出来ていない。いなかったらいなかったで、別の誰かを使って、ジワジワと同じ事は起きただろう。せいぜい、早いか遅いかの違いくらいしかない。既に起きている事態に、どう対処するかを考える方が先だろう。――と、言うような事をだな、どこぞの皇帝陛下は、私よりも先に言えと言う話なんだ!」
「ソ、ソウデスネ……」
この時点でのデューイの剣幕に、反論出来る人間は一人もいない。
だがデューイは、不意に双眸を緩めて、キャロルに再び視線を向けた。
「まぁ……かつて言葉が足りないあまりに、カレルに余計な気を遣わせて、カーヴィアルにまで行かせてしまった、私が言えた事でもないんだがな。だからこそ、いずれお前が陛下の為を思うあまりに、何かしらの暴挙に走りかねん気がしてしようがない。何しろ、私とカレルの娘だしな」
「……ちょっとそれ、自分でも否定しきれません……」
「だろうな。だからまぁ、私は明日にでも、領地に引き上げたって構わないと常に思っている。逃げ道はあると、頭の片隅に入れておけ。それだけでも、随分と違う筈だ」
「……お父様……」
いやいやいや! と、この父娘以外の全員が、心の中でツッコミを入れていた。
デューイ・レアールの実務能力の高さを、この数日でヒューバートは軍で目の当たりにしてきたし、皇帝となったエーレが、どれほどキャロルを公私共に頼っているか、ルスランはイヤと言う程目にしている。
今更この二人に中央から抜けられては、本当に、ルフトヴェークと言う国が倒れる。
エイダル一人でどうにかなる状況では、とうになくなっている事を、二人ともにもう少し理解して欲しい。
と言うか、分かっているのだろうが、見捨てないで欲しいと切実に思う。
「――フランツ、後で作戦会議だ。本当にワイアード辺境伯領経由でリューゲ自治領に行くのなら、婚姻の儀に間に合う補給と滞在の計画、誰を付けるのかを、本気で厳選しないとダメだ。エイダル公爵がいつ倒れてもおかしくなくなると言うのもあるが、この期に及んで婚約破棄とか、全く笑えないぞ」
「……おう。確かに怖すぎるな」
「ルスラン様、我々の事も、いかようにもお使い下さい」
「粉骨砕身、いつでもこの身は投げ打ちます、将軍」
小声で囁き合うルスランとヒューバートに、青い顔色のイオ達も加わる。
「そもそも、エーレ様を放っておいて良いのかよ、ルスラン。裏でこんな話が出てるなんて知ったら、ますます頑なにならねぇか?」
「別に放ってはいない。常に誰かは、影から護衛に付いてる。あぁ、そんな話じゃないな。婚約破棄の話が出てるなんて事、言ってどうする。だからリューゲに行くのは止めます、止めさせますって訳にも行かないんだぞ。だったらこちらは、自分達が出来る事に最善を尽くすべきだろう」
「そりゃぁ、まあ……」
「それに俺は、共に支え合っていくのが、夫婦として最低限の行いだと言う、デューイ様の、言わば格言を、キャロルとて意識出来ていない気がしている。だったらもう、そこは二人でとことんぶつかり合え――と、思う。そこに至るまでのお膳立て程度なら、やぶさかじゃないしな」
「……なるほど」
「そこで拗れたら、また考えれば良い。今はそれよりも、目前の難関を何とかする方が先だ」
イオから、各大使館からの報告書類を受け取ったキャロルは、それを持って、今日はデューイが寝泊りしている〝迎賓館〟に滞在すると言った。
いや、本来は迎賓館こそが滞在箇所なのだから、不自然に見える事自体がおかしいのだが、何となく消化不良の表情で、イオは頷いた。
――誰が、リューゲ自治領まで同行するか。
こちらはこちらで、4人で頭を悩ませる必要があり、こちらも宰相室同様、灯りは深夜まで、消えなかった。