1-10 地雷を踏みぬいたのは誰
「アデリシア殿下は、恐らくその気になれば、この娘をお前から引き離して、カーヴィアルに戻せる。その手段は持っている筈だ。ただそれをしないのは、ある程度お前の事は認めているのだろう。今はこの辺りで折れろ、エーレ。双方の年齢を考えれば、恐らくは一生、互いにその名を意識し続ける事になる。融和政策を採るつもりなら、尚更この男を敵に回すな」
そしてエイダルは、自らも天才と称されるが故に、アデリシアの考え方を、恐らくはほぼ確実に追跡出来る。現時点で二人の間に入れるのは、間違いなく、エイダルだけだ。
(ちょっと悔しいなぁ……)
「キャロル様?」
キャロルの複雑そうな表情に気付いたのか、ファヴィルが声をかけてはくれたが、個人的な感情に過ぎないと自覚するキャロルは、ふるふると首を横に振って、別の事をファヴィルに尋ねた。
「……公都から、ワイアードを経由してリューゲに向かうのは、遠いんですか?」
「ああ、先ほどの話が気になりますか? そうですね、辺境伯領と言われるだけあって、ワイアードはルフトヴェーク、マルメラーデ、リューゲと、三方向からの街道が交差する場所にあります。ワイアードだけを往復されるなら、約3ヶ月後の婚姻に関して、さほど気に止む必要もありませんが、そこから更にリューゲの中心部まで足を伸ばされるとなると、現地で問題解決にあたれる時間が、恐らくほとんどないのではないかと……」
「はは……」
こうなると、例え3日でも、情報が外政室で埋もれていたのは痛い。
キャロルは、馘にした貴族の子息連中を、再度ぶん殴りたくなった。
「それでも、行かないと言う選択肢はないぞ」
聞こえていたのか、エイダルが冷ややかに口を挟んだ。
「婚姻が控えていようがいまいが、そんな怪しげな薬は、公国全体に出回る前に止めねばならんのだからな。ただあの辺りは、即位式典に出席出来ていない領が多い。どうしてもと言うなら、婚姻の儀への出席依頼と、次期皇妃の周知も兼ねて、共に外遊に出る――と言った程度なら、誤魔化せんこともない」
「大叔父上……」
「だが、お前はリューゲまでは足を伸ばせない、エーレ。ワイアードから先は、黙ってその娘に手綱を渡せ。――出来るか?」
「……っ」
エーレの表情が、苦しげに歪む。
分かっている。公都を離れ、ワイアード辺境伯領に向かう事を許可する所までが、エイダルの〝譲歩〟だ。その間、再びエイダルに公務が集中する事になるのを分かっていて、出来る最大限の配慮なのだ。
「……彼女の……業務は……」
「父親を巻き込めば済む話だ」
間髪入れずに返すエイダルの中では、それは既に決定事項らしい。
キャロルは密かに心の中で、父親に詫びた。
レアール侯爵家現当主デューイ・レアールは、当主となって以降、公式式典以外、公都を訪れる事すらしていなかったのだが、一切の揉め事なく領地を経営している事からも、政務運営の才に長けている事は、窺い知れる。
何と言っても20年近く、再三再四、エイダル自身が中央への進出を促してきたくらいなのだ。
これを機に、本来、あるいはそれ以上の能力を発揮させようと言う思惑すら透けて見えた。
キャロルは、父親とも話をする必要性を痛感した。
「……報告は、理解しました」
「エーレ」
キャロルやエイダルと、視線を合わせる事を忌避するように、エーレがふいに、立ち上がった。
「君は、レアール侯と話をしてくると良い、キャロル。ちょうど、軍の視察とかで、ヒューバートの所にいる筈だから」
「えっ」
「……ごめん。少し、頭を冷やしてくる」
「エーレ……っ」
そのまま、振り返る事なくエーレは宰相室を出て行ってしまい、キャロルは追いかける事も出来ずに、しばらく呆然と、立ち尽くしていた。
「……本人が、頭を冷やすと言っているのだから、しばらく放っておいてやれ。お前も早々に出発出来るよう、準備の必要があるだろう。父親を探さなくて良いのか」
「……公爵閣下……」
「……っ、何だその表情は! 宰相室に乗り込んで来た時の勢いは、どこへ行った⁉︎ いいから、サッサと父親の所に行け! 解雇通知に関する事務手続きと苦情は、こちらで処理してやるから!」
悄然と宰相室を後にするキャロルを、何とも言えない表情で、ファヴィルが見送った。
「……エーレ様が一方的に愛情をぶつけているのかと思いきや、意外とそうでもなさそうですね……」
わずかに目の端に、涙が滲んでいたのが見えていたのかも知れない。
「……片腕を失くしかけて尚、踏み止まった時点で、推して知るべしだろうが」
去り際の、そんなファヴィルとエイダルの呟きさえ、キャロルの耳には届かなかった。
そこにイオが、公都内の各国駐在大使館から、最新情報を取り纏めて戻って来たのだが、ファヴィルは取り急ぎ、イオにそのままキャロルの後を追わせた。
「では私は、ストライド侯爵の屋敷に使いに出る――と言う事で宜しいですか、リヒャルト様? こちらが忙しい時に、いきなり乗り込んで来られても、困りますでしょう」
「まあ、来たら来たで、その翻訳書類を突きつけるだけだがな。現当主は、そこまで愚かではない。警告さえ与えれば、後は一族の中で適宜処理するだろう。むしろ今日明日、レアールが直接乗りこみかねんから、そっちを警戒させろ。いつでも領地に戻ってやる、くらいの勢いで公務をこなしている、あの男の方が、むしろ危険だ。よりにもよって、夫人を『妾』扱いだぞ。一番の地雷だろう」
「……確かに」
かつて、一度はその地雷を踏み抜いたエイダルである。
大袈裟な、とは、ファヴィルもとても言えなかった。
「まだまだ引退出来そうにはありませんね、リヒャルト様」
やや揶揄いぎみのファヴィルに、エイダルが僅かに口の端を上げる。
「……まったくだな。どいつも、こいつも」
決してそれが、本気で不愉快に思っている訳ではない事は、ファヴィルにも見て取れた。
――もはや目の前の天才は〝孤高〟ではない。
それを実感したファヴィルの口元も、知らず、緩んでいた。
その後しばらく、宰相室の灯りが、深夜まで消えない日々が続く事になり、仕事中毒再び降臨!と、周囲を戦慄させた。
だが原因が、ストライド侯爵家の子息達が、レアール侯爵家を嘲った所為らしいと知られると、エイダルを責める声は、ピタリと止んだ。
そして、その裏では黙々と、キャロル達出発の準備は進められていったのだ。