36-1:後悔
上層にある大神殿の地下の一室に、俺は幽閉されていた。
「しばらくはこちらでお過ごしください、ミカエル様……」
ガブリエルの命で俺をここまで連れてきた座天使が、去り際に申し訳なさそうに言う。
幽閉といっても部屋の外から鍵は掛かっていないし、見張りもいない。その気になれば、俺はいつでもこの部屋を出て行ける状態だった。
しかし今の俺には、ここから外へ出ようなどという気力が欠片もない。
それが分かっているからこそ、ガブリエルは、俺をこの部屋に放り込むだけに留めたのだろう。
暗い部屋のベッドの上で壁を背にした俺は、足を大きく広げ、暗い空間をぼんやりと見ていた。
人間界のウリエルの領地にあるエクノール邸。その前庭で見た光景が、俺の頭にこびりついて離れない。
俺たちもヒトと同じように、さまざまな感情を神から与えられていた。もちろん負の感情も。しかし天使はヒトとは違い、己を強く抑制できる。いや、しなければならないのだ。
だが、天界を裏切ったルシフェルを目の前にし、天使たちは憤怒に心を奪われていた。そして俺自身も、その負の空気に飲み込まれてしまう。
その中で、ハルの刃のような言葉がルシフェルを斬りつけた。
「絶対にあなたを許さないからっ!」
彼女の言葉は、そのまま俺をも突き刺した。
ハルがルシフェルを慕う気持ちは、どんな事実があろうとも揺るがない。
俺は愚かにも、そう過信していた。
だがハルは、たった十歳のヒトの子なのだ。
自分の誕生により母親を死へ追いやったと、ハルは苦しんでいた。
それが実はルシフェルの所業だと知り、彼女はどれほど悲嘆に暮れただろう……。
さらには俺も、ハルにその事実を伏せたまま、天使への転生の話を持ち掛けていた。
仮にハルが大人だったとして、ガブリエルから一方的に聞かされた、背信とも取れる俺たちの行為に、何か理由があると考えられるだろうか? いや、おそらく無理だろう。
ましてや少女のハルは、衝撃的な事実を受け止めるだけで精いっぱいだったはずだ。
俺たちの『裏切り』に深く傷つき、やがて憤りに変わる。それは、ごく自然な結果だった。
ハルのそばを、離れるべきじゃなかった……。
俺は拳を握りしめ、闇に支配された天井を見上げる。
ルシフェルは、怒るハルを挑発するように、辛辣な言葉を浴びせた。
そうすることがハルのためだと、あいつはあの場で咄嗟に判断したのだろう。
ルシフェルがどんな方法で、ハルの魂から座位を消したのかは分からない。
しかし、神の手により創られた『無垢の子』ではなくとも、ハルが座位を持たないヒトの子であることには変わりなかった。
それはつまり、彼女の命がある限り、地獄から狙われ続けることになる。人間界に混沌をもたらす『悪魔の子』を生み出すために。
だがルシフェルが発した残酷な言葉で、ハルは『魔王ルシファーにもてあそばれた娘』となった。
これにより、記憶消去の魔法を使わずして、ハルはルシフェルとの断絶を果たす。そして天界は、彼女に万全な庇護を与える口実を得た。
だから……なんだと言うんだ?
ハルは、大好きだった『ルファ』への怒りと憎しみを抱えながら、この先を生きていく。
能天使の長カマエルはもとより、ほかの天使たちのルシフェルへの憎しみも消えてはいない。それに加え、いまだに彼女に未練のある俺に大いに失望しただろう。
そして今、俺は自分の中で膨れ上がる思いを止められないでいた。
コンコンコン……
突然、部屋の扉がノックされる。
返事をする気になれず黙っていると、キキィ……と遠慮がちに扉が開く音が聞こえた。
俺はそちらを見ることもなく、空虚な室内をぼんやりと見続ける。
すると、飾りと化していた壁掛けランプに炎がポッと灯された。まるで息を吹き返すように、室内が仄かな明かりで満たされる。
「……ミー君」
熾天使ウリエルの気まずそうな声が聞こえた。
俺は壁につけていた頭をわずかに傾け、彼を見る。
「あぁ……ウリエルか……」
呆けた俺と目が合った赤髪のウリエルは、逃げるように視線をすぐさま床へと落とした。
「大丈夫……じゃない……よね……」
「見てのとおりだ」
俺は投げやりな返答をする。
申し訳なさそうな顔をしたウリエルは、後ろ手に扉をパタリと閉めた。
「……」
「……」
互いの間に気まずい空気が流れる。
もたれていた壁から体を離した俺は、軽くため息をついてから彼に尋ねた。
「ラジエルとサリエルは、今、どうなっている?」
ルシフェルとサキュバスが下層の牢へ入れられたのは、俺をここへ連れて来た座天使から聞いていた。だが、ラジエルとサリエルについては、分からないと言われてしまったのだ。
ガブリエルがハルを伴って人間界へ来たということは、彼女のそばにいたラジエルは拘束されたと考えるべきだろう。
さらに、俺は地獄へ向かう前に、ハルの血族であるカーディフ一族の魂の系譜を保管庫から抜き出すようサリエルに命じていた。おそらく彼女にも、何らかの処罰が下っているはずだ。
ウリエルは気まずさを残したまま、口元だけを微笑ませた。
「両者とも、今は自室で謹慎中」
その言葉に、俺は眉間にしわを寄せて唇を噛む。
「彼らは上官である俺の命令に、仕方なく従ったまでだ。すべては俺の責任なんだ。だから……」
ウリエルが苦笑いをしながら、俺の言葉を遮った。
「僕も、そういう方向で処理したいんだけどね。彼らはどちらも『自分の意志で行った』って、頑なに言い張ってさ。ホント、参るよ」
「……」
俺は再び壁にもたれると、自分の銀色の髪を片手でクシャリと掴んだ。
ラジエルもサリエルも忠誠心が高いうえに、保身を考えるような天使ではない。
俺に何かあったとき、彼らがどう行動するかを考えるべきだった。そんなことすら考慮せず、俺は周りを巻き込んでばかり……。
うなだれる俺の頭上から、躊躇うような声でウリエルが尋ねる。
「ねぇ……ミー君。僕のことを恨んでいる?」
「……いや……」
俺は視線を落としたまま、ボソリと答えた。
そんな俺に対し、ウリエルは即座に否定する。
「うそだ……。だって、僕はミー君をずっと裏切っていたんだよ?」
俺は掴んでいた自分の髪から手を離すと、深いため息をついた。そして、ベッドの上に投げ出した自分の足先を見ながら、頭を左右に振る。
「そうじゃない。すべては、過去にしがみついていた俺が引き起こしたことだ。だから、おまえを恨んでなんかいない」
そう言った俺は、ランプの光が揺れる室内を見回す。
黒くごつごつとした岩壁のところどころに、無数のひっかき傷のような跡が刻まれていた。
「この部屋……、ルシフェルの謀反が終わった後、俺の心が壊れていたときに使われた部屋だろ?」
「覚えて……いたんだ」
戸惑い気味に答えたウリエルに対し、俺は再び頭を左右に振る。
「いや、ほとんど覚えてはいない。室内を見て『もしや』と思っただけだ。それで、少しだけ思い出した。この部屋で、おまえとラファエルがずっと声を掛けてくれていた。『一緒に前へ進もう』と」
「……」
ベッドの脇に立つウリエルへ、俺は視線を移した。
ヘラリと笑ういつもの顔はそこになく、溢れるものを抑えるように顔を歪ませたウリエルが立っている。
俺はわずかに微笑んだ。
「すまなかったな。おまえの言う通り、俺は頑固で身勝手だった。おまえたちに、ずっとつらい思いをさせていた」
「ミー君、ちが……」
ウリエルの片方の瞳から、静かに涙がこぼれ落ちる。
ウリエルはずっと苦しかったはずだ。
今でこそ、四大天使の中で誰よりも己にさえも、厳格に律する熾天使ウリエル。だが彼の本当の姿は、ルシフェルを含めた俺たち兄弟を、最も大切に思っている天使だった。
だからこそウリエルは、俺たちを裏切ったルシフェルに対し深く失望しただろう。そして、彼女にひどく憤ったはずだ。今のハルと同じように。
だがウリエルは自分の気持ちを押し殺し、ルシフェルを探し回る俺をずっと見守ってくれていた。
それなのに、俺は……。
「でも、それももう終わる」
ボソリと言う俺を見て、ウリエルは不安そうに尋ねる。
「ミー君……何を……考えているの?」
「……」
俺は何も答えず、目の前に広がる淡い光の空間を見て、薄っすらと笑った――