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35-1:秘密

 のっぺりとした灰色の壁に囲まれ、簡素なベッドが備え付けられているだけの部屋。そこにある出窓は鉄柵がはめ込まれただけで、時折吹き込む風を遮るようなものは何もない。その出窓の下には、壁の一部が突き出た部分があった。

 無機質で冷やりとしたその出っ張りに、力を奪い取る光の首輪をつけられたルシファーが虚ろな目で座っている。



 窓から見える夜空は満月の光が混ざり、青みを帯びた鮮やかな藍色に染まっていた。

 藍色の空には、ぽっかりと浮かぶ灰色がかった巨大な白雲がある。その上には、主のような深緑の山が静かに(たたず)んでいた。

 山の中腹からは、遠目でも分かる巨大な滝が音もなく下へ落ちている。その滝は地上へたどり着くことはなく、空中で白く舞い散り、山の麓の雲と同化していた。


 何一つ変わっていない天界(ヘブン)の景色。

 ()()に従い、炎の海原と化した天界(ヘブン)の下層は、神の手により新たに創り直されたと聞き及んでいる。

 ならば、夜空を漂う浮島の(はる)か先に、神が住まう最上層があるはずだった。


 そこにいる神の下で、かつてルシファーは全天使を統べていた。

 神の寵愛(ちょうあい)を受け、誰からも慕われ、誰をも慈しむ、熾天使ルシフェル。

 天使の長として、あらゆる知識と魔術そして武術を身につけ、神に最も近い完璧な存在であろうと努めた。周囲もごく当然のように、それを望んでいると分かってもいた。

 長であるが(ゆえ)の孤独と重圧に耐えられたのは、神とは別の特別な存在がそばにいたからだ。

 永劫(えいごう)不変に、つつがなく時が過ぎていく。そう信じて疑わなかった。『あの時』までは……。


 地獄(ゲヘナ)へ堕ちてからのルシファーにとって、天界(ヘブン)は気が()れるほどに、憎み、嫉妬し、焦がれた場所となる。

 そして今、どのような形であれ、ルシファーはこの地へと戻ってきた。それにもかかわらず、自分でも戸惑うほどに何も感じない。


 ぼんやりと外を眺めていたルシファーは、胸元にぶら下がる白銀のロケットペンダントに触れた。

 人間界のウリエルの領地で見た、こちらを(にら)みつけるハルの表情が、今も頭から離れない。



「最上層の方角が見える(ろう)へ入れるとは……。ガブリエルも無慈悲なことをする……」


 静まり返った室内にボソリとつぶやく声が響き、ルシファーは反射的にそちらへと顔を向ける。

 月明りで青白く照らされた廊下には、顔の上半分を白の陶器の仮面で隠し、背中のあたりまで長く伸びた金髪の熾天使メタトロンが立っていた。


 感情が消えたルシファーの表情を見たメタトロンは、鉄格子越しに申し訳なさそうに(うつむ)く。


「ルゥ……すまない……」


 メタトロンから『ルゥ』と呼ばれたルシファーは、その場からヨロヨロと立ち上がった。彼の元へ近づくと、鉄格子の隙間から腕を伸ばす。

 メタトロンの陶器の仮面に触れたルシファーの両手は、それをそっと外した。すると、彼女の目の前に、よく見知った顔が現れる。

 今にも泣きだしそうな鮮やかな青色の瞳をした、ミカエルとそっくりの顔が……。



 メタトロンはかつて、サンダルフォンという名で、神が初めて創った天使だった。そして、その身が滅びた最初の天使でもある。

 サンダルフォンが生命(セフィロト)の樹の根元にある花のつぼみで眠りにつくと、神は彼に似せた双子の天使を創り出した。その天使が、ルシフェルとミカエルなのだと、ルシファーは神から聞かされた。


 新たな肉体を得て復活したサンダルフォンはメタトロンと名を変え、その素顔を仮面の下へと隠してしまう。

 おそらくそれは、要らぬ詮索をされたくないからなのだろうと、ルシファーは解釈していた。



 メタトロンの仮面を手にしたルシファーは、彼の執務室に呼びつけられた日のことを思い出す。


 背丈の倍以上ある三枚のガラス窓に、緑青色のカーテンが金のタッセルで留められ、その正面に白の書斎机が置かれていた。

 その書斎机に両肘をついたメタトロンが、険しい雰囲気を(まと)いながらこちらを見ている。


 ルシファーはなぜここに呼ばれたのか、見当もつかなかった。

 部屋の右側に、天井からぶら下がった薄布で覆われている場所がある。

 チラリとそちらを確認すると、布越しに大きな影がぼんやりと見えた。


 その日、ルシファーはメタトロンが抱えている闇を知る。彼の素顔を見たのも、そのときが初めてだった。

 そして、神の『計画』を聞かされる。

 選択肢はあってないようなものだった。受け入れ難い真実と逃れられない未来。

 思ってもみなかった人物から深淵(しんえん)へ突き落されたルシファーは、拳を握りしめながら思う。



『なぜなのだろうか?』と。



 ルシフェルと名乗っていた過去から現実へと戻ったルシファーは、満月の光に照らされたメタトロンの顔を見つめた。

 まひしていた自分の感情が騒めき始める。

 瞳の色こそ違うが、彼の顔はミカエルに似すぎていた。その顔を見れば見るほどに、ルシファーは自分の立場を思い知らされる。


「これで……すべてが救われるというの? 兄様」


「……」


 眉をひそめたルシファーが尋ねた。だが、メタトロンは俯いたままで何も答えない。

 メタトロンの陶器の仮面を手にしたまま、ルシファーは詰問するような口調で続けた。


「私は言ったわ。『あの人が壊れたままなら、私の存在は無意味なものになってしまう』と。覚えている?」


 つらそうな表情で顔を上げたメタトロンは、絞り出すように答える。


「あぁ、覚えている……」


 ルシファーは間を開けず、先ほどの問いを聞き返した。


「私は、もうすぐ私ではなくなってしまう。これで、あの人は救われるの?」


「……」


 切なそうにこちらを見るメタトロンは、何かを言おうとわずかに口を開けたまま動かない。

 それを見たルシファーはわれに返り、首を左右に振った。


「ごめんなさい……。兄様を責めても仕方のないことだわ」


「いや、よいのだ。すべては私が招いたことだ。私があんなことさえしなければ……」


 再び俯くメタトロンの頬を、ルシファーの右手がそっと触れる。


「兄様のせいではないわ。きっと誰のせいでも……」


 そこまで言いかけて、メタトロンに触れていたルシファーの右手がゆっくりと下へ落ちた。

 ルシファーの中で、『なぜ?』という疑問が再び頭をもたげ、それ以上の言葉が続かない。

 目の前で立ち尽くす妹の心を見透かすように、メタトロンの顔が(ゆが)んだ。


「私を憎んでくれ、ルシフェル。おまえに惨い犠牲を強いた私を……」


 ルシファーは苦しげな顔でメタトロンを見ながらも、口元だけどうにか微笑(ほほえ)ませる。


「それが救いになるのなら、喜んでそうするわ。でも、私が兄様を憎んでも、兄様は救われない。私もあの人も……きっとハルだって……。このままでは誰一人として救われない。私には分からないわ。これは『救済』なの?」


 メタトロンの執務室で突き付けられた言葉が、ルシファーの脳裏に(よみがえ)る。

 それは覚悟を決めるには十分すぎる内容だった。だからこそ、ルシファーはあらゆるものを犠牲にして、天界(ヘブン)で謀反を起こしたのだ。

 しかし心の隅には、拭いきれない不審がいつもこびりついていた。



 果たして、これが神の望む世界なのだろうか?



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