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33-0:ベルゼブブの底意(本編外)

 マモンをサタンの居城へ幽閉したあと、アジダハーカを彼の自室まで送り届けたベルゼブブは、クリンタ宮殿内で一番重厚な扉の前に立ち尽くしていた。

 やがて軽くため息をつくと、コンコンコンとノックする。

 部屋の主はいないと分かっていた。だがベルゼブブにとって、主の不在は関係がない。

 常に最大限の敬意を払い、尊ぶべき唯一無二の存在。地獄(ゲヘナ)の頂点に君臨するルシファーの自室へ、ベルゼブブは滑り込むように入っていった。


 ルシファーがサタンの居城へ幽閉されたあとも、ベルゼブブは誰にも悟られないように細心の注意を払いながら、彼女の自室を定期的に訪れている。

 各部屋を回りながら、完ぺきな状態に室内が保っていることを確認すると、最後に寝室の前へと辿(たど)り着いた。

 当たり前のようにノックを三回。返事はない。一呼吸おいて、中へと入る。


 深紅の壁紙と黒の調度品。ベルゼブブが抱く、君主ルシファーのイメージとは正反対の部屋。

 だがルシファーは、これこそが魔王にふさわしいと言う。ベルゼブブには、まるで彼女自らが己を辱めているように思えた。


 床から二段ほど高くなった天蓋(てんがい)付きの黒いフレームのベッドへと、ベルゼブブは近づく。

 ベッドの足元にある真鍮(しんちゅう)色のフットスツールに置かれた黒のナイトガウンを手に取ると、それを羽織っていた主の姿を思い浮かべ、ベルゼブブは唇をそっと押し付けた。



 ルシファーが、彼女の息子マモンとともに人間界から戻ったとき、ベルゼブブは案じていたことが現実のものになったと確信した。


 大勢の悪魔たちの前で、君主ルシファーを裏切り者だと喚き散らすマモン。そこへ、主を侮辱したと怒り狂うアスタロトが、群がる悪魔たちをかき分けて乗り込んでくる。

 この場での事態の収拾は困難だと判断したベルゼブブは、ルシファーに向かって進言するしかなかった。


「わが君、皆が混乱しております。私が責任をもって精査いたしますゆえ、今しばらく内廷でお過ごしいただけませんでしょうか?」


「ベルゼブブ!」


 アスタロトが悲鳴のように叫ぶ。それとは対照的に、無表情のルシファーが静かに(うなず)いた。


「わかった。あとは任せる」


 その言葉に、ベルゼブブは左手を胸に当て腰を曲げる。


「お任せください。アスタロト、わが君を内廷までお送りするのだ」


「くっ……」


 アスタロトはベルゼブブを(にら)みつけながら、下唇を()みしめた。


 アスタロトの気持ちが、ベルゼブブには手に取るように分かる。彼女もまた、自分と同じように、狂信的に君主ルシファーを崇めていた。

 地獄(ゲヘナ)において絶対的な立場である君主が、息子とはいえ臣下から公衆の面前で糾弾されている。これほどの侮辱があろうか。

 しかしベルゼブブは、その胸の内を決して表には出さない。己の役割はわきまえていた。

 ベルゼブブにとって、この地獄(ゲヘナ)は、君主ルシファーのために存在する世界でしかない。彼女の居場所を守ることだけが、ベルゼブブが地獄(ここ)にいる存在意義であり、そのためならば何を犠牲にしても、己でさえ犠牲にして構わないと思っていた。



 マモンは満足したような笑みをこぼし、ベルゼブブを見る。


「これでやっと、旧態依然とした世界は終わりを迎えたわけだ。これからは、己の欲望を抑える必要はまったくない。喜ばしいことだろう? ベルゼブブ」


 マモンの周囲にいた悪魔たちが、同調するように歓喜の雄たけびをあげる。

 ベルゼブブは無言のまま、自分の足元まで視線を下げると深々と腰を折った。



 *  *  *



 悪魔たちの興奮が冷め、クリンタ宮殿に静寂が戻ったころ、ベルゼブブはルシファーの寝室を訪ねた。

 いつもの通りにノックを三回。返事はない。だが、それもいつものことだった。


 ルシファーは、ノックの仕方で誰が訪ねて来たかが分かるらしい。

 アガリアレプトやサタナキア、ルシファー付きの夢魔のノックには応答するが、ベルゼブブにはしない。それは、彼に入室の許可を与える必要がないという意味だった。


 静かに中へと入ると、黒のナイトガウンを身に(まと)ったルシファーは、暖炉の前にあるカウチソファーに座り、ぼんやりと(くう)を見つめていた。

 ベルゼブブはルシファーの前で両膝をつくと、だらりと垂れていた彼女の手を取り、その甲へそっと口づけをする。


「首領……」


 夢から醒めたような顔でベルゼブブを見たルシファーは笑う。


「いい加減、それはやめて」


 ベルゼブブは、彼女の手を取ったまま苦笑いをする。


「二人のときは、つい……」


 天界(ヘブン)で全天使の首領であったルシファーを、ベルゼブブはいまだにそう呼んでしまう。もちろん、悪魔たちの前ではそのようなことがないよう、細心の注意を払っているが。


「そもそも、その呼び方は『いかにも』な感じで好きではないわ」


「そうでしたね。以後、気を付けます」


 ルシファーは、それは何度目? と言わんばかりに肩をすくませた。

 白く華奢(きゃしゃ)な彼女の手のひらを、ベルゼブブは自分の頬にそっと押し当ててルシファーを見上げた。


「今回は、ご不在が長過ぎましたね……」


 ベルゼブブに触れているルシファーの指がピクリと動く。


「マモンの動向を把握していたの?」


 わずかに眉をひそめて自分を見るルシファーに向かって、ベルゼブブはすまなそうに頷いた。


「悪魔たちの憤懣(ふんまん)(*)は限界でした。渇きを潤すものを欲し、マモン様はそれをお与えになってしまった」



 ヒトの誕生と同時に、神はその魂が再び天界(ヘブン)へ戻れるよう『座位』を与える。

 座位とは、ヒトの魂がどこの所有かを示すものであり、それを多く所有することで、人間界への影響力が強くなるのだ。

 悪魔がヒトの魂を汚し、座位の所有を地獄(ゲヘナ)へ移す最大の利点は、ヒトの魂をより多く喰らえること。

 天使と同様に、悪魔も不老不死に近い存在ではあったが、常に飢えと渇きに苦しめられていた。その辛酸から解放される唯一の方法が、ヒトの魂を直接喰らうことだった。


 地獄(ゲヘナ)の支配者は、悪魔たちにヒトの魂を与えることでその力を示していた。

 だがルシファーは、無垢の子が誕生すると、支配者である『力』の誇示を放棄した。

 そして権力に執着するマモンは、その隙を狙い、七十二柱序列二位のアガレスの息がかかる悪魔たちの求心力を得てしまう。


 自分の立場が危うくなると分かっていながらも、そのそばにいようとする無垢の子とは、ルシファーにとってどのような存在なのだろうと、ベルゼブブは思う。そして、彼はこうも思っていた。地獄(ゲヘナ)に君臨すべきルシファーにとって、無垢の子は害悪の何者でもないと。



「はぁ……」


 大きなため息とともに立ち上がったルシファーは、パチパチと爆ぜる暖炉のそばへ歩み寄った。そして、まるで自分を抱きしめるように腕を組む。

 彼女の背からは、大勢の臣下を前で見せる威厳は消えうせ、どこか頼りなくはかなげに見えた。

 ベルゼブブは堪らず立ち上がると、哀愁が漂うルシファーの背を包み込むように抱きしめる。

 ふわりと金木犀(キンモクセイ)の香りが漂った。


「わが君は……あの方とお会いになっていらしたのですね」


 思わず漏れ出た言葉だった。

 ルシファーが身をよじってベルゼブブを見上げる。


「あなたも、私が裏切ったと?」


 ベルゼブブはわれに返ったように目を見開き、何度も首を横に振った。


「いいえ、いいえ! ともに堕ちると決めたときから、何があろうとも、私はあなたを信じると誓いました」


 自分を見上げるルシファーの頬に、ベルゼブブはそっと手を添える。


「あなたがお戻りになる場所を守ることが私の務めであり、私の喜びなのです」


「ベルゼブブ……」


 ルシファーが名を呼んだだけで、ベルゼブブは全身が震えるような高揚感に襲われた。



 この世界に誕生したときから、ベルゼブブは自分が異質な存在であると感じていた。

 他の天使たちは生命(セフィロト)の樹の根元で生まれるというのに、自分はそうではない。

 気が付くと、天界(そこ)に存在していたのだ。そして、この世界とは全く異なる世界を、ベルゼブブは誕生したときからおぼろげに覚えていた。

 なぜ、自分にはこんな記憶があるのか? 天使として成熟していくごとに、ベルゼブブはその意味を理解する。それと同時に、神に対しての嫌悪を抱いた。


 あるとき、周囲の天使たちと距離を置いていたベルゼブブは、天界(ヘブン)の大神殿の謁見の間で、全天使を束ねる首領ルシフェルの姿を初めて見る。

 ベルゼブブは、息をのんだ。

 この世界に誕生する(はる)か昔、この身を犠牲にしてでも守りたかった最愛な者と彼女の姿が、ベルゼブブの中で重なり合う。

 そして、ベルゼブブは決意する。今度こそ、最愛な者を守り抜こうと……。



 パチンと爆ぜる(まき)の音で、ベルゼブブは過去の泡沫(ほうまつ)から現実へと引き戻された。

 ルシファーの頬に片手を添えたまま、愛おしそうに彼女の顔を見回す。


 今のベルゼブブにとって、目の前にいるルシファーの存在だけが、この世界に己を留める唯一の意義となっていた。


 ベルゼブブの顔がルシファーへとゆっくり近づく。彼女はそれを拒まない。

 神への謀反を持ち掛けられたとき、ベルゼブブは一つの条件を出した。


『あなたに対する私の愛を受け入れてほしい』


 ルシファーが誰を愛そうと構わなかった。ただ、自分の愛が彼女に受け入れられれば、ベルゼブブはそれで満足だった。


 互いの唇が重なり合ったあと、ベルゼブブはルシファーを抱きかかえベッドまで運ぶ。

 まるで宝物を扱うかのように彼女をベッドの上にそっと下ろすと、ベルゼブブは、ベッドの四隅の支柱に縛り付けてあったレースカーテンのタッセルを外した。


「しばらくは、サタンの居城へお移りいただくのがよろしいかと。今は、マモン様を担ぐ輩が多すぎます」


「そう……ね……」


 ダマスク柄の黒いレースカーテンで覆われ、薄暗くなったベッドでルシファーの表情が曇る。

 ベルゼブブはベッドへ上がると、横になっているルシファーの頬に再び手を添え、彼女の深紅の唇に軽く口づけをした。


「ご安心ください。折を見て、必ずお迎えにあがりますゆえに」


 そう言うと、ベルゼブブは彼女の首筋へと唇を移動させ、()めるように舌を()わせる。


「ん……」


 ルシファーが吐息に交じって短く答えた。

 それが合図となり、彼女が身に着けていた黒のナイトガウンの腰ひもを、ベルゼブブは片手でスルリと解く。

 (あら)わになった白い肌を満足そうに見回すと、ベルゼブブはゆっくりと顔を埋め、快楽へと溺れていった……。


*憤懣:発散させ切れず心にわだかまる怒り

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