32-1:最下層
アジダハーカにわし掴みされたまま見下ろす地獄の最下層は、なんとも異様な風景だった。
赤銅色の空を突き破る生命の樹の根が、この地を覆いつくさんといわんばかりに四方八方へと伸びている。そして、折り重なるように張り巡らされた薄く青みを帯びた樹の根の隙間から、鮮血のような赤い大地がわずかに顔を覗かせていた。
「アジダハーカ、根の露出が少ない場所で降ろして」
「分かったよ、母上」
アジダハーカは上空を旋回し、深紅の大地が比較的に見えている場所を選ぶと、そこへ向かってゆっくりと着地する。
生命の樹の根は間近で見ると、サタンの居城の牢と同じほどの高さがあった。
樹の根は血管のような盛り上がりが幾筋もあり、ドクンドクンと脈打つように地下から何かを吸い上げている。
「すごい場所だな……」
アジダハーカから解放されたカマエルが、ボソリとつぶやきながら樹の根へ近づこうとした。
それを見ていたルシフェルが口を開く。
「やめておいたほうがいい。この根はサタンの城と同じ。触れる者を取り込もうとするわ」
意外な者に制止させられ、カマエルは驚いた顔でルシフェルを見た。
「この樹の根は一体……」
「……」
しかし、ルシフェルは答える気がないようで、カマエルから顔を背ける。
カマエルは不審そうにこちらをチラリと見たが、俺も首を横に振るだけに止めた。
世界を貫くこの大樹の真実に、安易に触れるべきではない。
生命の樹はその名の通り、あらゆる『生命』の源。
天使はこの樹を養分とした花で誕生し、悪魔はこの樹の根から生れ出る。そして、ヒトは生命の樹の内部にある冥界で、新たな誕生への旅をするのだ。
神の手により創られた大樹から、天使と対峙する悪魔が生み出される。その真実を知れば、カマエルは己の存在だけではなく、神に対しても疑問を抱いてしまうだろう。
突き詰めれば、ここは神が創った、ということになってしまうのだから。
それ故にこの大樹の真実は、創造主である神とメタトロン、そして俺とルシフェルだけが知っており、ほかの四大天使にすら知らされていない。
神がなぜ世界をこのように創ったのか、俺には分からない。
だが、神である父は天界の神殿で、幼い俺たちに向かってよく言っていた。
『月は暗闇の中にあるからこそ、その尊さがわかる。だからこそ、私たちは闇を慈しまなければならない』
それはつまり、天界は地獄を慈しまなければならない、ということなのか? 二つの世界を反目させるように創りながらも、神はなぜ矛盾したことを望むのだろう?
そんな風に思いをはせていると、現実へ引き戻すように、ルシフェルが俺に向かって言う。
「そろそろ話してもらえないかしら? なぜ、あなたたちはこんなことを?」
眉間にしわを寄せる彼女に対し、俺も大きくため息をついた。
「地獄は、人間界で大ごとを起こす気らしいな」
「それは……」
ルシフェルが言い淀む。
そのとき、彼女の背後で戸惑った幼い声が聞こえてきた。
「は……母上……僕……」
この場にいる誰もが、声のするほうへと目を向ける。
そこには、ハルよりも若干年上に見える銀髪の少年が、裸の姿で茫然と立ちすくんでいた。
「アジダハーカ……」
ルシフェルがつぶやく。
この子が、ヒト型のアジダハーカ……。
俺の双子の姉であるルシフェルの息子なのだから当然かもしれないが、ヒト型のアジダハーカは幼い頃の俺によく似ていた。
まるで時が止まったかのように誰もが動かないでいると、サキュバスがおもむろに少年のアジダハーカへと近づく。
「サタンの城を出たから、魔力が戻ったんだね」
そう言いながら上着を脱いだサキュバスは、裸のアジダハーカにそっと羽織らせた。
「そっか……魔力が……。また暴走しちゃうのかな?」
髪の長さが膝辺りまであるアジダハーカは、ヒト型であることを確かめるように自分の両手を見つめる。
サキュバスの上着を着たアジダハーカに近づいたルシフェルは、彼を抱き寄せた。
「大丈夫。そうはならないわ」
「母上……」
アジダハーカも、すがりつくようにルシフェルに抱きつく。
少年のアジダハーカを抱き寄せたまま、ルシフェルはあらためて俺を見た。
「で、危険を冒してまで地獄へ来て、私に何をさせようというの?」
「……」
俺は一度深呼吸をすると、覚悟を決め、ルシフェルに向かってはっきりと言う。
「ハルとの完全な絶縁だ」
ルシフェルはわずかに眉をひそめた。
「それは……ガブリエルの指図?」
「いや、俺も、いつかはそうしなければならないと考えていた」
「……」
探るようなルシフェルの視線を受け止めながら、俺は話を続ける。
「本当はもう少し時間をかけたかった。ハルが一人でも判断ができる大人になってからと」
「……」
「だが、それが叶わなくなった。理由は……分かるよな?」
ルシフェルは苦々しい表情で俺から視線を外した。
「マモン……ね」
「地獄が人間界へ侵攻しようとしている以上、天界は無垢の子を完璧に守らなければならなくなった。それと……」
俺はいったん言葉を切る。
今話していることは、どちらかというと後付けの理由だった。これから話すことが、俺の本題。できることなら、二人きりで話したかったが仕方ない。
「それと?」
ルシフェルが訝しげに顔を上げた。
「それと、これはまだ確定していることではないんだが……。俺は今、ハルが天使に転生できるよう道筋を作っている」
「なん……ですって?」
ルシフェルが俺を凝視する。それだけではなく、俺の斜め前にいたカマエルも驚いたようにこちらを見ていた。
「無垢の子は、神と悪魔のどちらの子になろうとも、役目を終えれば、その魂は消滅してしまう。それは知っているよな?」
「……」
俺から再び視線を外したルシフェルは、無言のままで小さく頷く。
「俺は、ハルには自分の未来を選べるようにしてやりたいんだ」
「未来を……選ぶ」
ルシフェルが俯いたまま、俺の言葉を繰り返した。
「しかしそのためには、魔王ルシファーとの断絶は避けては通れない」
状況が飲み込めたルシフェルは、小さくため息をつくと俺を見上げる。
「私との記憶を……完全に消去する……のね?」
俺はコクリと頷いた。
天使や悪魔がヒトに対して使う魔法のひとつに『記憶消去』という魔法がある。これは、術者に関する記憶を対象者から完全に消し、新たな記憶に挿げ替えるものだ。
故に、ハルからルシフェル……いや、ルファの記憶を完全に消去するためには、ルファ本人がこの魔法をハルに掛けなければならない。
少年のアジダハーカの肩を抱き寄せたまま、ルシフェルは何かを考えるように視線を彷徨わせた。
「ハルが天使になることを選んだ場合、その基となる核は誰のものを使うの?」
彼女の問いを聞いた俺は訝しむ。
なぜ、そんなことをわざわざ尋ねる?
「もちろん、俺のだが?」
ハルのために切り出す核を、ほかの天使に任せるはずがない。ルシフェルなら、当然、それが分かると思っていたのだが……。
「……」
ルシフェルは無言のまま、俺を見つめる。
俺には彼女が何かを訴えているように映った。だがそれが何なのか、俺には分からない。
「ルファ?」
俺は困惑して尋ねる。
しかし、深紅の唇がわずかに開くだけのルシフェルは、地面へと視線を落とした。そして、自嘲気味に言う。
「最高位天使の核を切り出して、新たな天使が誕生する。地獄にとっては、面倒なことになりそうね」
「……」
以前、ガブリエルにこの提案をしたとき、彼は「天界の戦力が弱まる」と非難した。だがルシフェルは、そう捉えてはいないらしい。
俺には、彼女がほかに何か言いたいことがあるように思えて仕方がなかった。
俺は苛立ちを抑えるように、銀色の髪をかき上げる。
ルシフェルともっと話がしたい。
ハルの今後のことはもちろん、彼女の母と祖母との間に何があったかも聞きたかった。そして何よりも、ルシフェルが天界で起こした『あの時』の話もしたかった。
だが、この場ではこれ以上の話はできそうにない。
どうして俺たちは、いつもいつも……。
ルシフェルは、何かを諦めるように大きく息を吐き出した。そして、肩を抱くアジダハーカへと視線を移す。
「アジダハーカ、私は彼らとともに行かなければならないわ」
「ヒトの子のために、母上が危険に晒されるの?」
銀髪のアジダハーカは、不安げにルシフェルを見上げた。
ルシフェルは穏やかに微笑む。
「もう先へと進まなければ。あなたもよ、アジダハーカ」
「僕?」
「そう、頼まれてほしいことがあるの。あなたにしかできないことよ」
「僕にしかできないこと?」
コクリと頷いたルシフェルは、膝を折ってアジダハーカと同じ目線になった。
「今すぐ、クリンタ宮殿へ向かうの。そして、ベルゼブブに伝えてほしいことがある」
「ベルゼブブに……」
「安心して。あとは彼がうまく処理をするわ」
そう言うと、ルシフェルはアジダハーカを抱き寄せ、耳元で何かをささやいた。
ルシフェルの言葉を聞き終えたアジダハーカが、驚いたように彼女を見返す。
「それって……」
「できるわね?」
「うん……」
躊躇い気味に返事をしたアジダハーカは再び竜の姿に戻り、赤銅色の空へと舞い上がった。
彼が飛び去ってから、サキュバスが尋ねる。
「彼に何を言ったの?」
「地獄の正常化……よ」
空を見上げたまま、ルシフェルがボソリと言った。
そして、あからさまに大きくため息をつくと、俺のほうへ振り返る。その視線は、何かに挑むようなものへと変わっていた。
「ガブリエルが私の脱獄を容認するのは、これが目的なのでしょう? あとは『無垢の子』のもとへ行くだけね。分かっているとは思うけれど、私は地獄へ戻らなければならない。それが叶わないときは、どうなるのか、理解しているのよね?」
俺は頷く。
「分かっている。ベルゼブブにも同じことを言われた。おまえに危害を加えるつもりはない」
「……だとよいのだけれど」
こうして俺たちはサキュバスが創る転移ゲートで、人間界のウリエルの領地にあるエクノール邸へと戻った。
俺は気づいてはいなかった。このとき、カマエルが険しい表情で俺たちを見ていたことを。




