03-3:事実と疑義
十歳くらいの女の子が「自分を殺すのか?」と尋ねるなど、尋常なことではない。
俺はハルの横で片膝を突き、ラジエルと同じように彼女と目線を合わせた。そして、少し強い口調で否定する。
「それはない。君を殺すなんてことは、絶対にない」
「でも……」
不安と困惑が入り混じった表情を見せるハルに対し、俺はできる限り優しく、そして、はっきりと言う。
「君は、きっと、ルシフェ……あ、いや、ルファからいろいろなことを聞いているんだね。でも、俺たちは絶対に君を傷つけない。なぜなら、俺たち天使はどんな理由があろうとも、ヒトの命を奪うことは禁忌とされているから」
「きんき?」
ハルは俺を見てキョトンとした。こんな姿を見る限り、ただのヒトの子にしか見えない。
「『してはいけないこと』っていう意味さ。神から、その行為を禁じられているんだよ。もし、禁忌を破れば、俺たち天使は罰せられてしまうんだ」
「それが本当なら、なぜ、ルファは……」
ハルは眉間にしわを寄せ、理解ができないような素振りを見せた。
俺が言う『禁忌』について、ルファが元熾天使であるルシフェルなら知らないわけはなかった。
ただ……、天使が禁忌を破ることなく『無垢の子』の命を奪う方法は、たった一つだけ思い当たることがある。しかし、それは、天使としてタブーともいえる行いだった。おそらく、ルシフェルがハルに示唆したのは、その方法のことだろう。
「ルファは、天界でもたくさんの知識を身につけていた。だから、予想もしないような方法で、天使が君を傷つけるのではないかと心配しているのかもな」
ハルは俺の言葉を聞いて、何かに気づいたような顔をした。そして今度は、俺の顔を食い入るように見つめる。
「あの……、ミカエルはルファを……ルシファーを天界へ連れて行ってしまうの?」
「……」
不意打ちのようなハルの問いに、俺は言葉に詰まった。
もちろん、天使である『ルシフェル』ならば、今すぐにでも天界へ連れて帰りたい。しかし、それが悪魔である『ルシファー』となれば、話は簡単ではなくなる。
そもそも、地獄に堕ちた堕天使が、再び天使に戻れるなんてことは聞いたことがない。
それでも、俺は、昨日この場所で再会した彼女に「ともに戻る」と言ったのだ。
連れ帰った先のことなんて考えてもいなかった。彼女が天界へ戻りさえすればすべてが元に戻ると、昨日までの俺は盲目的に信じきっていた。
気がつくと、ハルだけではなくラジエルも、俺の言葉を待つように俺の顔をじっと見つめていた。
俺は自分の心の中を確かめるように、慎重に言葉を発する。
「俺は……できることなら、ルシフェルを連れて戻りたい。彼女に会いさえすれば、それが叶うと思っていた。でも……昨日、この場所で会った彼女は、天界へ戻ることを望んではいなかった。だから……今は、俺は彼女と話をしたい……と思っているよ」
「ルファと話をしたいの?」
ハルは少し不安そうに、そして、俺に再度確認するかのように尋ねた。
「そう……そうだな。話がしたい。俺はね、昔、彼女を傷つけてしまったんだ。あのときは、ほかにどうすることもできなかった。彼女は俺にとって最も大切な存在だったのに……。過去を変えられないことは分かっているんだ。でも、俺は……」
いまだに、何一つ確かめられていない――そう心の中でつぶやいた。
なぜ、天界を揺るがす大罪を犯したのか。
地獄へ堕ちる間際、微笑んだように見えたあの瞬間、彼女は何を考えていたのか。
そして、今、何を思い、何を願っているのか……。
今は、ルシフェルと話すことで、俺も次へ歩むべき道が見えてくる。そんな予感のようなものを抱いていた。
「ミカエル様……」
ラジエルは俺の名前を呼んだきり押し黙る。
俺は、いつの間にか地面を睨むように俯いていた。
放牧地に吹く柔らかな風が、無言になった俺たち三人の間を優しく包み込むように通り過ぎた。
不意に、温かい小さな何かが俺の髪に触れたのを感じ、顔を上げる。
「あなたは、ルファと仲直りがしたいんだね」
目の前に立つハルが、小さな子供を慰めるように俺の頭を優しく撫でていた。
年端もいかない女の子に、そんなことをされるとは想像もしていなかった俺は、ビクリと後ろへ仰け反る。
「え!? あ……そっそうだな……仲直りか……。うん……仲直り……したい……かも」
声が上擦った俺の顔がみるみるうちに熱くなる。
動揺する俺の姿を、ハルは不思議そうに見る。俺の視界の端には、笑いを堪えているラジエルの姿がチラリと見えた。
「それじゃぁ、私が一緒に謝ってあげる!」
ハルは不安が払拭され安心したのか、よいことを思いついたとばかりに笑顔で言い出した。だが俺は、事態の急展開に付いて行けず頭が真っ白になる。
「へ? あー……いや、それは……どう……なんだろう?」
そう言いつつ、俺は、斜め前にいるラジエルを見て助けを求めた。だがラジエルは、片手で口元の笑みを隠しながら頭を横に振るだけだった。
くそっ……完全に面白がっていやがるな……。
「大丈夫よ! ルファは、きちんとお話しすれば分かってくれるもん。さぁ、そうと決まれば行こう!」
「えぇ? 今から!?」
いやいや……何この展開? 心の準備がまったくできてないし。それ以前に、昨日の今日で、素直に話を聞いてくれるような状況なのか? ほら、物事ってのは、順序がさ……。
「もぉ、グズグズしないっ!」
もしかするとこれがハル本来の姿なのかもしれない。
善は急げとばかりに、その場で固まる俺の手を取り、ハルは強引に俺の体を引っ張り上げた。そして、逃がさないとでもいうように、ハルは握った手を引きながらパストラルに向けて歩き出す。
本気かよ……。
俺はラジエルのほうを振り向いた。
ラジエルはこの状況を楽しんでいるのか、相好を崩しながら俺たちの後ろを歩いている。
ハルといい、ラジエルといい……。なんか、俺だけ腰抜けみたいで腹が立つな。
昨日のルシフェルの刺すような視線を思い出すと、このまま会いに行ってよいものかと、正直、躊躇いは残る。だが、ハルがくれたせっかくのチャンスだ。俺も、やるだけのことはやってみよう――そう考えると、ハルに連れられて歩く足取りが少し軽くなったような気がした。